泡沫②

 ――遠くから波風に乗って歌が聞こえてくる。


 エルザはその声に導かれるように、暗闇が広がる窓の外を窺う。そこから見えるものは、まるでどす黒い生き物のようにうねる波と、海との境界線が朧になってしまった空が見えるだけだった。


 気のせいかしら?


 と、エルザは耳を澄ませながら考える。潮風が偶々歌声の様に聞こえてきただけかもしれない。彼女はそう結論付けると、睡眠を取る為に自らの部屋へと向かった。


 エルザはある貴族の家で働くメイドで、まだ、新人ということもあり、寝るのは夜遅くになることも少なくない。


 自らに宛がわれた部屋へと入るための扉に手を掛けると、また窓の外から歌声のようなものが聞こえた気がした。


「少し不気味だわ」


 エルザは胸の内でざわつく何かを抑えるようにそう呟くと、勢いよく扉を開いた。メイド一人に宛がうには少し大きいのではないかとも思ってしまうような部屋だが、主人の気持ちなので、遠慮なく甘えることにしている。だが、こうして少しばかり背後を気にしてしまうような夜には、その気持ちが迷惑に思えてしまうのだけれど。


 部屋に入ると、手に持ったランプの灯を部屋に備え付けられた蝋燭に移す。蝋燭の頼りない明かりを下に、手早く着替えを済ますと、一つに結んでいる茶色の髪を振りほどく。


「明日は旦那様が早目に外出されるからもう寝なくちゃ……」


誰に伝えるでもなく呟いた言葉は、蝋燭の灯が当たっていない、深い闇に吸い込まれるような錯覚に陥る。


 エルザは小さく溜息吐いて、苦い笑みを浮かべると、蝋燭の灯をふっと吹き消して布団の中に潜り込んだ。


 壁に備え付けられた時計から、一定のリズムで進む針の音が聞こえる。普段は特に気にならないそれが、今夜は不思議と気になってしまう。


 彼女はその気持ち悪さから逃れるように、布団の中で何度も寝がえりを打つ。


 それからどれ位の時間が経っただろうか。エルザが微睡み始めた頃、はっきりと歌声が聞こえた。最初はこの屋敷に住む他のメイドが歌っているのか、それとも今年七つになるお嬢様が眠れずに歌っているのかとも考えたけれど、それがすぐに聞いたことのない声だと気が付くと、流石に薄気味悪さを感じて体を起こす。


「……誰?」


 暗闇に問いかけるも、返事はない。けれど、相変わらず歌声はエルザの鼓膜を震わせ続け、不安だけが募っていく。


 手探りで見つけたマッチに火を点け、枕元のランプに点火する。小さく辺りを照らすそれで周囲を見渡して見るけれど、歌の出所らしきものは見つけられなかった。


 目をつむって耳を澄ませると、聞こえた歌声にはしっかりと歌詞があるのだと分かった。エルザは神経を耳に集中させ、歌詞を聞き取ろうと試みる。


『――風は海を渡り、人々の心へ届いた』


 何処かで聞いたことがある歌。


 ゆっくりと目を開くと、扉の近くでぼうっとした小さい明かりが揺れていた。


「ひっ」


 エルザがその小さな明かりを見て、小さな悲鳴を上げる。


「お静かに、お嬢さん」


 エルザの小さな叫び声で、見つかったことに気がついたのか、光は声変わり前の少年のような声を出した。


「あっ、あのっ……」


エルザがからからに乾いて引っ付いてしまった喉から無理矢理に声を絞り出すと、光は惑うかのようにふらふらと宙を彷徨った後、ゆっくりと輝きを失ってゆき、やがて小さな人影になった。


「ぼくは名をルカと申します。決して、怪しいものではございません」


 エルザは、ルカと名乗った目の前の人影を見ながら、陸に打ち上げられた魚の如く、口をパクパクとさせる。やがて、浅く酸素を何度も取り込んで息を整えると、ようやく口を開く。


「あ、あなたは……誰?」


 ルカは視線をキョロキョロと泳がせた後、深々とお辞儀をしてから言葉を紡いだ。


「ぼくはある……人物の執事を務めております。外見だけでは判断がしづらいかもしれませんが、ぼくは人間ではございません。半魚人でございます」


 言いながら、ルカは首筋まで垂れた髪を掻き上げ、エルザとは違う形の耳を露わにした。


「み、耳が……」


 エルザは驚きのあまり息の詰まった声しか上げることが出来なかった。冷たく、ひんやりとした深緑色をしたルカのそれは、まるでおとぎ話の中に出てくる人魚のそれのように尖っていた。


「……ルカは本当に半魚人なの?」


 エルザの問いかけに、彼はゆっくりと頷くことで肯定する。


「エルザ様。ぼくは貴女にお願いがあって参りました」 


 ルカはもう一度深々とお辞儀すると、そのようなことを言った。その言葉にエルザは眉を顰める。


 私にお願いですって? それにどうして私の名前を知っているのかしら。


 ふと、途端に今見ているものは、夢の世界の出来事ではないかしらと思った。ただでさえ、半魚人なんて信じられないのに、その半魚人が私にお願いときた。さらには私の名前さえも知っている。これはまるで幼い頃に母が聞かせてくれた、お伽噺のようではないか。


「お願い事?」


「えぇ、お願い事です」


 エルザは小さく息を吐くと、目の前に立つ半魚人の頼みごとを聞くために口を開く。


「そのお願い事とやらは何かしら? 私で出来ることならばお手伝いいたしますわ」


 彼女の言葉を聞いたルカは、どうやらその答えを予期していなかったらしく、目を真ん丸に見開いてエルザのことを見た。

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