第11話 修行…そして与えられし力

 本格的な修行が始まった…家に居る時は欠かさずストレッチを行うようになった。慣れない登山のために身体を鍛えるためである。休日には危険を伴う鎖場登山である。初めは「初心者コース(親子でも何とか登れるコース)」からであったが、3度目以降は慣れもあり、標高500mから2000m以下の範囲ではあったが、登山ルートに「初心者コース・中級者コース・上級者コース」があっても、毎回「上級者コース」である。山によっては東西南北それぞれのコースがあり、親切な所は「初心者は〇〇ルートへ」と登山口の看板に記載があるが、もちろん「初心者のルート」は外しての修行登山である。急斜面や急角度はもちろん、崖に垂直に垂れ下がっている鎖やオーバーハング(反り返った岩)の岩盤を登っていく、何度か足を滑らせ鎖から片手が外れて落ちそうになったこともある。落ちれば死を覚悟しないとならない数百メートル垂直の崖上である。「命の危険と隣り合わせ」の緊張感は脳を刺激して気力・体力・精神・能力の開発にとても効果があるようなのだ。その度に山を指定され、夫婦で何年にも渡り続けさせられた。

 山登りに行けない時は散歩である。といっても普通のものではなく、両手を大きく振り大股で競歩に近いスピードで何キロメートルも歩くものである。最初は呼吸をうまく合わせられずに息切れを起こしたが、慣れてくると普通の呼吸を保てるようになった。

 霊に対して慣れるための修行として、100ヶ所以上の有名心霊スポット巡りもこなした。結果をいえば本当に遭遇したスポットは全体の1割以下で後はでまかせであった。

 それからもいくつかの修行を続けてきたある日、ふたりは神様からそれぞれに力(能力)を与えられた。今後の神事に差支えの無いよう、妻には神々は勿論、精霊や物の怪、幽霊などなど“不可視の存在”を見ることと話が出来る能力を与えてくれた。ただ、「蟲(通常みつむしと言って虫と区別する)」だけは避けられた。理由は「見えたらとても普通に生活出来なくなる」からである。(その意味は…グロテスクを含むので説明を避けることとする)

 自分にはそれら“不可視の存在”に対してその行いの善悪を判断し、対処する能力である。対処の意味は…例えば自然界の秩序を保ち調和させているものたちに対して「悪事を働く者」と判断した場合、注意を促すがそれでも聞き入れない場合は罰則を与える力である。自然の法則には「陰」と「陽」の対極が必ずあり、光を自覚出来るのは対照的な闇があるからであって、また逆も真なりである。「善と悪」の関係性もしかりである。無駄な存在は無いはずなのだが、それはそれぞれの「役目と決められたテリトリー」のルールの上に成り立つもので、違反行為を行う者に対しては厳しく取り締まるのだ。

 その“境界線”こそどう判断し、どう学び、正しい方向に進んでいくのか神々が期待し求めたことでもあったのだが、人間はいつの時代でもその期待を裏切り、理性に乏しいエゴイスティックな行いで終わってしまうのだ。“不可視の存在”に限定された理由は、力は“見世物”ではなく、もし人に見られてしまった場合にそれが“マジック”ではないと知ったら…あくまでトリックだと邪推視する者や善悪関係なく利用しようとする者、恐れる者、嫌悪感を抱く者、のけ者扱いする者などが現れて果ては賛同者を募り、集団で社会から疎外しようとするのは必至であることが理由といえよう。だから、“不可視の存在”に限定されたことは逆に良かったのである。

 ただ、人間の生活環境を“陰で支えてきた不可視のものたち”がその人間に“逆に脅かされる”結果となってしまったのは実に悲しい限りである。

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