竜使いの里に風が吹く

尾松傘

第1話

竜使いの里にカゼハコビの羽音が響いた。じきにイブキ風がやってくる。


 イブキ風は一年かけて惑星エンドラを周る嵐である。

 年によって勢力が強くなったり弱くなったりするが、決して消えることはない。

 いつからイブキ風があるのか、その答えを知る者はいないが、一説によるとエンドラが誕生してすぐにイブキ風が発生したとも言われている。

 そのため、イブキ風はエンドラの生態系と深く結びついている。

 イブキ風の季節が来ると、虫たちは地中や木の洞に身を隠して身を守り、草木は種子を風に乗せて遠くに飛ばせるように実る。

 特にカゼハコビは特殊な進化を遂げた昆虫で、常にイブキ風の前方を群れで飛ぶ彼らは、他の虫が隠れた隙を狙って好物の果実を独占できるのだ。

 イブキ風に適応してきたのは原生生物だけはない。

 竜使いの里の民は、古来よりイブキ風を信仰の対象としており、その恩恵に預かってきた。風に乗ってやってくる大陸の植物の種子や渡りを行う生物は、狩猟民族の彼らにとって宝の山なのだ。


 夜明け前の竜使いの里は、深い霧に包まれている。

 カゼハコビの鈴のような羽音を割いて聞こえてきたのは、力強い太鼓の音、男衆の野太い歌声、そして竜の雄叫びだった。

 岬へと向かう隊列の先頭には太鼓奏者を乗せた山車だしがある。その後に続くのは、片手に槍を、もう片方にパートナーの手綱を握る竜使いたちだ。

 男たちに混ざって甲高い声をあげている金髪の少女がいた。13歳の娘アイシャである。

「わたしとテルーは一人前だもん!」

 アイシャが言うと、それに応じるように相棒の小型の蒼竜そうりゅう、テルーが吠えた。

「誰が一人前だって? ガキとペットじゃねぇか?」

 そう言って仲間たちと一緒にガハハと豪快に笑う青髭の男の名はジーノ。立派な赤竜せきりゅうを連れている。彼は今の里で一番の実力があると噂されているが、アイシャはそれを信じていない。

「わたしはジーノなんかよりずっと凄い風乗りよ、馬鹿にしないで!」

「だってよ、ジーノ。良いのか? ガキにエースの座ぁ、奪われちまうぞ?」

 緑竜りょくりゅうを連れたスキンヘッドの大男、センタが揶揄うと、また笑いが起きた。

「よせやい、こんなガキ、俺に挑むどころか、イブキ様に攫われちまうよ」

「もう、ジーノ生意気なんだから! パパに全敗してるくせに!」

「あいつぁ、規格外さ。威勢張るのに親の名前出さねぇといけねぇようなガキじゃあ、一人前はまだまだ遠いな」

「あ、またガキって言った! もう、許さないんだから!」

 そんなやり取りを続けているうちに、隊列は岬に着いた。


 隊列が歩みを止めると、太鼓がより一層力強い音を奏で始めた。今度は誰も歌わない。皆が一言も発さずに、水平線の先を見つめる。

 太鼓の演奏の途中で、里中にいたカゼハコビたちが次々と同じ方角へ飛んでいき、やがては一匹も見当たらなくなった。

 羽音が消えて急に静かになった中で、太鼓の音だけが響く。

 アイシャは横目でジーノや他の風乗りたちを見たが、誰もが真剣な眼差しをしており、さっきまでとは別人のようだった。

 アイシャの不安を代弁するようにテルーが弱々しく喉を鳴らした。

「しーっ! イブキ様が来るのよ……!」

 テルーの口元を抑えて、耳元で囁くアイシャ。彼女は、そのとき初めてテルーの震えに気がついた。

 テルーは5年前、イブキ風が去った後に里に落ちているのをアイシャに拾われた。

 翼竜の中には、イブキ風に乗って渡りを行う習性を持つ種がいる。幼い竜が群れについていけず落ちてくるのは、時たまあることだ。

「大丈夫、テルーはあのときより大きくなったんだから。イブキ様の試練にだってきっと耐えられるわ」

 アイシャが言い聞かせても、テルーの震えは止まらない。

「来た」

 ジーノが呟いたのと、太鼓の音が止まったのは、ほぼ同時だった。

 まず、ヒューヒューと風の音が聞こえてきた。

 その後、日の出に向かっているはずの空がみるみるうちに暗くなってきた。

 そして、東の空から太陽の代わりに登ってきたのは黒い靄だった。

「イブキ様がいらっしゃったぞー!」

 歓声が上がった。

 アイシャも緊張を隠して「おー!」と子どもながらに声を張り上げた。

 ヴォッ、ヴォー、と、角笛の音が短く一回、長く一回響くと、先頭集団にいる熟練の網持ちの集団が竜に跨って崖から飛び出した。

 竜の腹にはロープが巻かれており、その先端はダイオウグモの強靭な糸で作られた巨大な網に繋がれている。

 網持ちが広がると、空中に一つの巨大な網が構えられた。

 アイシャは周りの風乗りが竜に跨るのを見て、テルーに跨った。

 続いて、ヴォー、ヴォー、ヴォー、と、角笛が三度長く響くと、いよいよ風乗りの出番だ。

 先陣を切ったのは、村で一番大きな赤竜を駆る族長だった。

 族長を追って、竜に乗った若者が続々と助走をつけて崖から飛び出していく。

 アイシャもそれに続こうとするが、テルーの足がすくむ。

「アイシャ、テルーに無理させんな! 今日はやめとけ!」

 ジーノはそう言うと、他の風乗りたちを追って飛んで行った。

 残されたアイシャはテルーに向かって叫ぶ。

「誰よりも強くなろうって約束したじゃない! そんなんじゃ、わたしテルーのこと嫌いになっちゃうよ!?」

 テルーの震えは止まらない。

 けれど、アイシャの言葉を受けて、震えながらも崖に向かって走り出した。

「そう、大丈夫よ。飛べるわ!」

 崖から飛び出すと同時に広げられた翼脚は、しっかりと風を掴み羽ばたいた。

「危ねぇと思ったら、すぐ引き返せよ!」

 ジーノの忠告に、アイシャは笑顔を向けて、親指を立ててみせた。

「あいつ、わかってねぇな……」

 ジーノの気苦労をアイシャは知らない。


 いよいよ、イブキ風が目前に迫ってきた。

 遠くからだと雲のように見えた黒い靄の正体がわかる。それは、巻き上げられた草木や粉塵と、無数の生物の群れであった。

 アイシャたち風乗りは獲物を網へと追いやったり、網を逸れた獲物を追って捕える役割で、縦横無尽に空を駆け回る体力と高い竜操技術が求められる。

「アイシャ、お前は追い込みだけだぞ!」

「わかってる!」

 風乗りは武器を持っているが、アイシャには与えられていない。嵐の中だと自分の武器で怪我をする事故があるからだ。

「テルー、絶対わたしたちを認めさせてやろうね」

 テルーは「ガウ」と小さく唸った。

「衝撃に備えよー!」

 族長の高齢とは思えない大きな声が響くと、他の竜使いたちも同じように言って周りに知らせた。

 その直後、ゴウ、と、大きな音と共に前方から大きな風圧がかかった。

 アイシャは「きゃっ」と反射的に声を上げ、テルーも目を瞑った。

 けれど、テルーの体は、風に押されることなく、その場に留まっていた。

「すごいよ、テルー! あなた、イブキ様の風に負けてない!」

 アイシャが撫でると、テルーは目を開けた。

 自分が幼竜の頃と違うことを理解したテルーは「オ゛オ゛ー!」と喜びと自信に満ちた咆哮を上げた。もう震えは止まっている。

「さあ、いくよ」

 アイシャとテルーは逆風をものともせずに嵐の中を進んでいった。

 まず目についたのは、トビイワシの群れだった。

 数人の風乗りが網に追いやるが、分離した群れの一部が別の方向へと行った。

 アイシャはここぞとばかりにその群れを追った。

 アイシャの他にもその群れを追う風乗りはいたが、アイシャとテルーが一番速かった。

 トビイワシの群れを追い越し先回りして目の前から威嚇すると、群れは引き換えし、後は他の風乗りが上手く誘導して、トビイワシの群れは文字通り一網打尽となった。

「お嬢ちゃんがやったぞー!」

 早々に一手柄立て、アイシャの自信は増長した。

「ほらテルー、わたしたちやれるよ!」

 実際、アイシャとテルーのコンビの力量はなかなかのものであった。里の者も彼女らの能力を知っているからこそ、この年でイブキ風の狩りへの参加を許したのだ。

 けれど、狩りに必要なのは技術とスピードだけではない。アイシャとテルーには圧倒的に経験が足りなかったのだ。

「ねえテルー、あそこにフウセンガエルがいるの見える?」

 アイシャが指差した先、遥か上空に、丸々としたカエルが一匹浮かんでいた。

「あれなら、武器がなくても取れるよね?」

 アイシャとテルーは上昇した。

 風乗りたちは各々の獲物に集中していて、彼女の動きに気がつかなかったが、ジーノだけは見逃さなかった。

 アイシャの目標に気がつくと、ジーノは大声を上げた。

「馬鹿、ありゃあだ!」

 しかし、その声は風に遮られてアイシャには届かなかった。

 すぐさまアイシャを追うジーノであったが、そこに運悪くヒトクイガラスが爪を立てて突進してきた。

 ジーノは銛で塞ぐが、ヒトクイガラスの爪は銛の柄をがっしりと握りしめ、身動きが取れなくなってしまう。

「センタ、上だ! アイシャを追え!」

 センタはアイシャの方を見上げ、すぐにジーノの意図を理解し、急いでアイシャを追った。


 目当てのフウセンガエルのもとに着いたアイシャ。

 風に飛ばされるフウセンガエルを追っているうちに随分と遠くまで来てしまった。

 フウセンガエルはこの地方ではあまり見られない生物であるが、ゴム質の皮膚は、そのまま巾着袋になったり、細く切れば優秀な弓の弦に加工できたりと重宝する。

 今、アイシャの目の前で、ぷかぷかと浮かぶ赤い球体は、竜の前だというのに逃げるそぶりを見せない。機動力がないというより、風に運ばれるだけで、空中を自在に泳ぐ術を持たないようだった。

 楽勝だ。アイシャは確信し、テルーの後ろ脚でフウセンガエルを掴もうとした――その瞬間だった。

 バアアアン。フウセンガエルの体が爆音と共に破裂した。

 テルーが大きく仰け反る。

 アイシャはすぐに体勢を立て直そうとするが、テルーが言うことを聞かない。

「どうしたの?!」

 テルーの顔を確かめて、アイシャは絶句した。意識を失っている。

 フウセンガエルの破裂音は強烈であるが、一発くらうだけでは、人体に大きな異常は起きない。

 しかし、それは人間の場合であり、人間より優れた聴力を持つ竜にとっては脅威となる。

「ねえ、起きてよ!」

 落ちていくテルーに必死で呼びかけるアイシャ。

 不意に彼女の頬にベタってした何かがくっついた。手で拭って確かめると、それはフウセンガエルの卵であった。

 カエルの卵を好物とする生物は多い。

 アイシャが見回すと、既に何頭かの野竜のりゅうがこちらに向かっていた。

「わたしたち食べられちゃう! 起きてよ!」

 アイシャの呼びかけにテルーは反応を返さない。

 叩いても、引っ掻いても、首に噛みついてみても、テルーは起きない。

 野竜の方を確認しようと、アイシャが振り向くと、眼前にびっしりと牙の生えた嘴が迫っていた。

 アイシャは恐怖に目をつぶったが、その嘴が彼女の体に届くことはなかった。

 アイシャが恐る恐る目を開けると、野竜の首は天地を逆さにした状態で槍に突き刺さっていた。そしてテルーの落下も止まっている。

 見上げると、緑竜がテルーの翼脚の付け根を掴んでおり、その陰から、スキンヘッドの男が顔を覗かせた。

「怪我ねぇか?」

「センタ!」

 センタはアイシャの無事を確認すると、ほっと息を吐いた。

「赤いフウセンガエルは、危険を感じるとすぐに破裂する。狙うなら黄色のやつだ」

「でも、巾着袋は赤いじゃない?」

「ありゃあ、絞めたやつを2週間置いとくんだよ。そうすりゃ熟してよく伸びるようになる」

「ごめんなさい……わたし何も知らなかった」

「生意気なガキが随分としおらしくなりやがって……お説教より先にまずはこいつらをどうにかしねぇとな」

 あたりにはフウセンガエルの卵に誘われた無数の野竜と怪鳥が飛び交っていた。

「ほら、お前さんもさっさと起きて嬢ちゃんを守ってやれ」

 センタのパートナーの竜が突くと、テルーはようやく目を覚ました。

「テルー良かった! 死んじゃったのか心配したんだよ!」

「あれくらいじゃ平気だ。目が覚めたなら、もう飛べるだろ」

 掴まれていたテルーの翼脚が離されたが、テルーの飛行に問題はなかった。

「お前らは下がってろ」

 センタが槍を振るうと、刺さっていた野竜が下に落ちていった。

 それから、軽くなった槍を構えると、向かって来ている野竜の群れに自ら突っ込んでいった。

 四方八方から来る野竜をセンタの槍は次々と薙ぎ倒していく。

 相棒の緑竜も鋭い爪で野竜の翼を裂き、強靭な顎で相手の首元に噛みつき息の根を止めた。

 返り血に染まる鬼神のごとき一人と一頭。

 アイシャはその姿を目にして思い知った。

 これが本物の竜使い。これが本物の狩猟たたかい

 アイシャは自身の至らなさを恥じた。


 野竜の群れがセンタたちの強さにおののき逃げていくまでに、そう時間はかからなかった。

 センタに打ち落された野竜は、下にいる籠持ちが海に落ちる前に漏れなく回収した。今の一戦だけで相当な素材と食料が得られたことだろう。

 しかし、センタも緑竜も無傷では済まなかった。

「怪我はねぇか?」

 そう言って近づいてきたセンタの脇腹には咬み傷があり血が滝のように流れていた。

 緑竜の方も翼に所々穴が空いており、風に煽られてフラフラと揺れている。

「センタ……わたし……」

 アイシャは感謝と謝罪とどちらを先に言うべきかわからず、口をもごつかせた。

「礼の言葉は後でたっぷり聞いてやる。ひとまず離脱するぞ。今の俺らが言えたことじゃねぇが、お前もテルーも万全じゃねぇ」

「えっ、テルーはともかく、わたしは怪我してないよ?」

「俺が言ってるのは体のことだけじゃねぇ。お前はまともに戦えるような精神状態にねぇだろ? 心が揺らいでいる奴にゃあ、空じゃ生きてけねぇ」

「……うん、そうかも」

 アイシャは悔し涙を流した。

 認めざるを得なかった。知識も、技術も、心さえも、全てが竜使いとして未熟だった。

「さあ、帰るぞ」

 アイシャがセンタの大きな背を追い始めた――まさにその時だった。

 グオオオオオオオ。

 角笛の音とは明らかに違う不気味な低い音が大気を揺らした。

 そして、突如として迫り上がってきた黒い柱にぶつかり、センタと相棒の緑竜は散り散りに吹き飛ばされた。

 アイシャは遅れて理解した。柱に見えていたものが巨大な生物の胴体であると。

 黒い鱗に覆われた蛇のように長い胴体。

 翼のように発達した四対のひれ

 そして、視界に映り切らないほどの巨体。

 その全てが、災いの神として恐れられる海竜、マガツノオロチの特徴と一致した。

 マガツノオロチはセンタの相棒の緑竜を一飲みした。

 頼もしかった緑竜が呆気なく喰われたのを、アイシャははっきり目にしながらも信じられなかった。

 数秒の硬直の後、はっとしてアイシャはセンタの姿を探した。

 幸いセンタはすぐに見つかった。

 けれど、そこはマガツノオロチの体の上、彼は針のような背鰭に掴まっていた。

 ヴォー、ヴォッ、ヴォー。角笛が鳴った。退却命令だ。

 アイシャはセンタのことを知らせようと辺りを見渡したが、近くには誰もいなかった。

 助けないと、けれど、マガツノオロチに立ち向えば命の保証はない。

 たじろぐアイシャを励ましたのは、他でもない彼女の相棒、テルーだった。

 テルーは長い首を曲げて、アイシャの頬を舐めた。

「わっ、どうしたの、テルー?!」

 テルーは、アイシャの目を見つめながら何度か頷き、翼をバサバサとその場で羽ばたかせてみせた。

 自分を勇気づけようとしていることをアイシャは理解した。

「ありがとう、テルー。そうだね、わたしたちならきっとできる。いや、絶対やってやる!」

 アイシャとテルーは勢いよく飛び出した。

 

 アイシャは風を読むのが得意だった。彼女は複雑な気流をまるで目で見えているかのように正確に読み取り、自分たちを運ぶ風を見つけることできるのだ。

 速度に秀でた蒼竜のテルーにアイシャの風読みの力が加わったことで発揮される脅威的な高速飛行に着いて来れるのは、里の中でもごく僅かである。


 マガツノオロチが動く度に風の流れが変わったが、アイシャはそれに惑わされないどころか、捻じ曲げられた気流を利用して、ぐんぐんとスピードを上げて巨体の合間を縫った。

 しかし、マガツノオロチの巨体が動くせいで、センタとの距離はなかなか縮まらない。

 もっと、もっと、速く。

 いつからかアイシャは風を読むのに頭を使うのを止めていた。肌で直接感じ取った情報を手綱に伝え、テルーはその指示に正確に応えた。

 ただひたすらに速さを求める一人と一頭は、今まで到達したことのない速度に達していることにさえ気が付かなかった。

 そして、ついにテルーの後ろ脚がセンタの体を掴んだ。

 息はあるが、意識は薄い。背鰭に掴まってるのもやっとのことだっただろう。

 すぐに離脱して手当をしなければ。

 センタを抱えて飛び去ろうとしたが、しかし、大男を抱えたせいでテルーの速度が格段と落ちた。

 アイシャは背後に巨大な何かが迫っていることを風の流れで感じ取った。

 振り返ると、そこにあるのはマガツノオロチの巨大な頭。

 顎が開かれ、洞窟のように奥へと続く口内が見えた次の瞬間――アイシャの視界は煌々とした炎に覆われた。


 しかし、アイシャは無事だった。

 炎はマガツノオロチが吹いたものではなかった。マガツノオロチは突然広がった炎に驚き、頭を仰け反らせている。

 そして、炎を吹いた主である赤竜がマガツノオロチとアイシャの間に割って入った。

 アイシャを庇うようにマガツノオロチへと相対する赤竜。その上には見慣れた男の背中があった。

「ジーノ!」

「センタをありがとな。ちょいとこのデカブツを追っ払うから、そこにいろ」

 アイシャは耳を疑った。これほど巨大な生物をジーノはどうにかできるというのか?

 ジーノと赤竜は横に移動した。

 すると、マガツノオロチはそれを追った。さっきの炎でジーノを外敵として認識したのだ。

 しかし、このまま逃げ続けて遠くに離そうとしても、マガツノオロチの方が速いから、すぐに追いつかれてしまう。

 アイシャの胸がざわつく。

 そして、彼女の不安通り、マガツノオロチは徐々にジーノとの距離を詰めていった。

 もうすぐマガツノオロチの牙が届くというところで、アイシャは叫んだ。

「ジーノ!危ない!」

 その時だった。

 ジーノを乗せた赤竜が突然上にカーブを描き、マガツノオロチの頭上に背中を向ける位置を取った。

 ジーノは赤竜の背を蹴ってマガツノオロチの頭に飛び乗り、銛を突き刺した。

 そして、すかさず腰に刺した短刀を抜くと、マガツオロチの表皮に切っ先を当て、胴体を切り裂きながら尻尾の先に向かって駆け抜けた。

 巨体が鮮血を吹き出しながら悶える。

 この暴風の中でこんな芸当をできることを、アイシャは信じられなかった。

 ジーノがマガツノオロチから飛び降りると、そこには既に赤竜が待っていた。


 手負いの怪物と一人の男が睨み合う。

 ジーノは逃げない。追撃を加えるのでもなく、マガツノオロチを真正面で見据え腕を組んでいる。

 竜は炎を吹いたら喉が焼ける。あれだけ派手にやれば、数日は火の粉も出せないはずだ。

 さっきのようなアクロバット飛行も、十分に加速していなければできないだろう。

 そもそも警戒心が高まった相手に同じ手が通じるとは考えづらい。

 絶対絶命のピンチのはずなのに、ジーノは悠然と構えている。

 マガツノオロチがジーノを睨んだままぐっと首を引いた。

 くる。アイシャは確信した。あれは蛇が獲物を狙う姿勢だ。

 ジーノが僅かに膝を曲げた瞬間、マガツノオロチが牙を剥いて飛び掛かった。

 バアアアン。突然、爆音が響いた。

 音に怯んだマガツノオロチは、苦しそうな鳴き声を上げてよろめいた。

 どうやら戦意を失ったようで、マガツノオロチは大きな水飛沫を立てて海へと逃げ帰っていった。

 残されたジーノの銛の先端には、見慣れた赤い皮が付いていた。フウセンガエルだ。

 アイシャはジーノとマガツノオロチに注目するのに精一杯で、フウセンガエルがどの方角から飛ばされてきたのかすらわからなかった。

 けれど、戦っている張本人のジーノは、フウセンガエルの姿を見つけ、自分のところへ流れつくタイミングを完璧に読んでいたのだ。


 かくして、ジーノの活躍によりアイシャは無事に里に帰ることができ、センタも一命を取り留めた。

 狩りの前は自信に満ち溢れていたアイシャであったが、狩りを終えて彼女の胸の内を占めているのは、本物の竜使いとの実力差に対する悔しさと、センタに大怪我を負わせ、その相棒を死に追いやった自身の浅はかな行動への罪悪感であった。

 その晩、アイシャは人知れず枕を濡らした。

 

 イブキ風が去って一週間が過ぎた。

 包帯を巻いた大男が墓標の前に立っている。

 その墓に埋められるはずだった緑竜の遺体は、怪物の胃袋の中にある。

 しかし、里の者総出で作った緑竜の全身が収まる大きさの棺には、肉体はなくとも魂が埋められている。遺体を回収できなかった竜や人にも、同じ大きさの棺を作り、魂を埋葬するのが里の習わしなのだ。

 大男は墓の方を向いたまま、背後の少女に語りかけた。

「戦ってりゃ、いつかは別れの日が来る。仕方ねぇことさ。俺らがやってるのは命の奪い合いだ。奪われる番が回ってくんのは、俺もあいつも覚悟してた」

「でも、私を助けたせいでボロボロになって、そうじゃなければ、きっと避けれた……」

 センタはアイシャの言葉を否定しなかった。それがアイシャの心にずんと重くのしかかった。

「ごめんなさい……」

 アイシャが掠り声で謝ったきり、二人の間に言葉は交わされなかった。

 悲しみも、罪の意識も、それを埋める言葉など存在しなかった。


 アイシャが墓地を去ろうとすると、ジーノが門扉に背を掛けていた。

「お前のせいじゃねぇよ。運が悪過ぎた。ここ何年かはあんなバケモンが出たことなかったんだがな」

「でも、わたしがもっと強ければこうはならなかった」

「お前の歳じゃ十分だ。実際、センタを助け出せた」

「ダメだよ。わたし守れるようになりたい……。誰にも何も失わなせないように強くなりたい……!」

「そうかい、だったら頑張りな」

 アイシャの心が折れていないことがわかり、ジーノは立ち去ろうとしたが、アイシャが呼び止めた。

「だから、ジーノ……お願いします。わたしの師匠になってください……!」

 頭を下げるアイシャ。彼女のそんな姿を見た者は今まで誰一人としていなかった。

「だったら、誓え。誰よりも強くなると」

「誓うよ、わたし強く――」

「その言葉の意味がわかってんのか?」

 アイシャは先の戦いを思い返した。強くなるとは、つまり、あれ以上にならないといけないのだ。

「言っとくが、お前の親父は俺よりも何倍も強かった。そんでお前はあいつの残したガキだ。それなのに中途半端な強さじゃ、弟子に取った俺の恥になる。お前は本当にやれんのか……?」

 アイシャは拳を握り締めた。

「やるよ。わたし絶対に強くなる……!」

 春の陽射しの中、一人の少女の胸の内に風が吹いた。

 

 

 

 

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