迷路の果て(3)

 雷の音で目を覚ました。たぶん、気を失っていたのはほんの数分だったと思う。

 わたしは右手にカナヅチを、左手に飴玉あめだまを握ったままだった。

 そしてわたしの周囲には、原型がわからないくらいグチャグチャのバラバラになった懐中時計の破片と、メイズさん……いや、メイズさんだったものが散らばっていた。

 それは固くなった粘土の山とぼろぼろの赤い布きれを、ミキサーにかけてからき散らしたようなもので、それが再び動いたりしゃべったりするなんてことは、どうやっても想像できないような代物しろものだった。

 わたしはカナヅチをその場に捨てると、メイズハウスの三階をあとにした。

 今度は、もう二度と戻ってくることはなかった。


 二階から一階に下りるための階段は崩れてなくなっていたけれど、落ち着いてよく探すと、屋敷の裏手におりるための非常階段が見つかった。わたしはそれを使って地上におりてから、大急ぎで正面玄関に回った。

 左手も、右腕も、血は止まっていたけどジンとしびれて力が入らず、重い扉を開けるのには苦労させられた。

 玄関から中に入ると、階段の近くに、ユーシャンが倒れているのが見えた。

 雨に濡れたユーシャンの顔は、まるで眠っているみたいだった。けれど、手で触れてみても氷みたいに冷たく、首には、かみそりの傷がぱっくりと口をあけている。

 わたしは、左手に握っていた金色の飴玉あめだま――タンを、ぎゅっとその傷に押しつけた。


 いったい誰に祈ればいいんだろう。日本の神様か、それとも台湾の神様か。

 運命は自分で決める、なんて言っておいて、すぐに神頼みしているわたしはカッコ悪いなと思う。でもそれでいい。わたしにできることなら、なんだってする。

 だから、お願いします。

(ユーシャンを助けて)

 けれど、どれだけ待っても、なんの変化も起こらなかった。


 ついに緊張の糸がぷっつりと切れて、わたしは、ユーシャンの体の上に覆いかぶさったまま泣き出してしまった。

 このまま泣き続けたらわたしの全部が水になって、雨と一緒に流れていってしまうんじゃないかと思うくらい、涙は次から次へと湧いてきた。

 どれだけそうしていただろう。


 とくん。


 わたしが顔をうずめたユーシャンの胸の中で、なにかが動いた気がした。


 とくん、とくん。


 間違いない。それは、心臓の鼓動だった。幻でも、機械じかけの歯車の音でもない、本物の、血のかよった心音だった。

「ユーシャン……?」

 見ると、ユーシャンの首の傷が、いつの間にか、瘡蓋かさぶたのようなもので塞がっていた。ほっぺたにも、ほんのりと赤みが戻ってきている。

「……ユーシャンッ!!」

「んん……?」

 目が開いた。ユーシャンはぱちぱちとまばたきをすると、寝坊したときみたいに目をこすった。

「深月……?」

 ユーシャンは続けて台湾の言葉でぶつぶつ言っていたけれど、わたしは聞いていなかった。ユーシャンの首にしがみついて、大声でわあわあ泣いていたからだ。

「ま……待って深月。なにが……。迷子小鬼メイズゥシャオグイは、どうしたの」

 ようやく頭が回りはじめたユーシャンが、もつれがちの日本語で聞く。でも、わたしはとても説明するどころじゃなかった。


 そのときだった。メイズハウスの床のあちこちから、まるで噴水みたいに泥水が噴きあげてきたのは。

 地面がぐらぐらと揺れる。雷が穿うがった天井の穴から、レンガや木の破片が次々に落ちてきた。ギイギイときしむ音をたてながら、柱がおかしな角度に曲がってゆく。

 メイズハウスが、今、全身で悲鳴をあげているようだった。

「深月! なにかヤバい!」

 わたしもそう思った。とたんに涙が引っこむ。

 ユーシャンもわたしもフラフラだったけど、ふたりで支えあって、どうにか立ちあがった。

 最後の力をふりしぼって、走る。もちろん、レインコートを拾って着ている時間なんてない。

 玄関を飛びだすと、庭はとんでもないことになっていた。泥の水が、なぜか屋敷のほうへ屋敷のほうへと押しよせてきているのだ。花壇のブロックがばらばらに分解されて、水と一緒にこっちへ流れてくる。


 わたしたちは何度も転んで泥だらけになりながら、どうにか、鉄の門があるところまでたどり着いた。

 そこではじめて屋敷のほうを振り返ったわたしたちは、同時に大きな声をあげていた。

 メイズハウスが崩壊していく。

 建物だけじゃない。屋敷が立っている地面ごと、崖下へ沈んでいこうとしていた。あの東屋あずまやも、生垣の名残なごりも、屋敷に残してきたメイズさんと懐中時計も、なにもかも泥にのまれて消えてゆく。


「深月! あれ!」

 ユーシャンが指さした先に、人がいた。

 ふたりとも白髪のおじいさんで、ひとりは茶色いチョッキを、もうひとりは黄色い着物のような、変わった服を着ていた。泥の洪水の中に立つふたりは、わたしとユーシャンに向かって深々とおじぎをすると、そのまま空気に溶けるみたいにして見えなくなった。


 その直後、ゴーッというすさまじい音をたてて、崖が崩落した。

 もともと崖っぷちに建っていたメイズハウスは、地面ごとその下の川に叩きこまれ、渦にのまれて跡形もなく消失してしまった。

 わたしたちは息をするのも忘れて、その光景をただ呆然と見つめていた。

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