迷路の果て(2)
ぎゃあぁぁあぁ――っ!!
悲鳴と同時に、庭も東屋も、青空も粉々に砕け散った。
わたしは、自分が天井に大穴のあいたメイズハウスの三階にいて、雨でずぶ濡れになっていることに気づいた。そして……。
目の前では、顔に護符を貼りつけられたメイズさんが、昆虫みたいにもがいていた。
わたしの首をかき切るはずだったかみそりが床に落ち、雨に流されて、穴から下に落ちていった。
「ミ・ヅ・キ……!! なぜ!? どう、やって……!」
気づきさえすれば、簡単なことだった。
メイズさんの作る幻は、見た目も、音も、手ざわりも本物とまったく区別できない。でも……。
だからわたしは、本物のメイズさんがいる場所の見当をつけることができた。ユーシャンと取っ組みあいをしたとき、メイズさんが浴びた消臭スプレーの中身が、強いレモンのにおいをさせていたからだ。
でも、それをわざわざ説明しているひまはなかった。わたしは全力で走りよると、メイズさんの口の中に左手を突っこんだ。
固くて丸い感触を、ぎゅっとつかむ。
「ユーシャンの命だ! 返せ!!」
そのまま左手を抜こうとしたわたしを、激痛が襲った。メイズさんが歯を食いしばり、私の指に噛みついてきたからだ。
メイズさんはぎこちなく立ち上がると、子供の体格からは想像もつかない力でわたしにつかみかかってきた。
顔に貼りついた護符が、みるみるボロボロになっていく。それと同時に、わたしをつかむ力もどんどん強くなっていくようだった。今はまだ、護符が力を抑えていてくれるけれど、その
わたしは考えた。
わたしの武器は、自分で考えることだけだった。考えれば考えるほど、一秒が長く引きのばされていくようだった。
決して、護符は効かないわけじゃない。
効果がちゃんと発揮されないのは、たぶん、狙う場所が間違っていたせいだ。ちゃんと弱点……急所を狙わなくちゃ、メイズさんは倒せない。動物でいえば、心臓にあたるような……。
心臓。
メイズさんの封印を解いてしまったあの日、この場所で聞いた秒針の音がよみがえった。同時に思い出したのは、ウー道士や三好氏の文章に書いてあった言葉。
引きのばされた時間が、一瞬で元に戻る。
わたしはメイズさんの胸で揺れていた金色の懐中時計に手を伸ばすと、力まかせに引っぱった。長い時間を経て
メイズさんが絶叫した。
それは一度聞いたら二度と忘れられない、恐ろしい叫び声だった。全身の血が逆流する。メイズハウスががたがたと震え、床が斜めに傾いた。
わたしは、血まみれになった左手を引きぬいた。
痛いを通り越して、しびれたように感覚がない。でも、金色の
メイズさんは喉をかきむしって苦しみながら、よろよろとあとずさった。
その姿は、ほんの一瞬で、まるで別物に変わっている。
つば広帽とワンピースは黒っぽく変色し、虫に食われて穴だらけになっていた。チョコレート色の巻き毛はクモの巣だらけでごわごわ。すべすべだった白い肌は青緑色のカビにおおわれ、目のない口だけの顔は左右非対称に歪んでいた。
これがメイズさんの正体――劣化し、崩れかけた人形の姿だった。
ユーシャンがさっきメイズさんを「汚い人形」と呼んだ理由がようやくわかった。きっとユーシャンにははじめから、この姿が見えていたんだろう。メイズさんはわたしに、ずっと幻で作った
「アアアッ! よくも……よくも、よくもよくも!」
メイズさんはこちらに向かってくるけれど、動きはぎくしゃくと不自然で、遅い。両手両足が、人間の関節を無視して
わたしは床に落ちた懐中時計を大急ぎで拾って、
それは時計なんかじゃなかった。歯車じかけで動き続ける、漢字のびっしり書かれた複数の円盤と、方角を指し示すコンパスとが組み合わさった、奇妙な精密機械だった。
けれどわたしは知っていた。実物は初めて見るけれど、昨日、インターネットで検索した画像の中に、これとそっくりなものがあったのだ。
これは、
メイズさんが未来を知るために不可欠の道具で、力の源で……心臓だ。
護符はもう、二枚とも使ってしまった。でもわたしは迷わなかった。ウエストポーチからお父さんのカナヅチをとり出すと、床に置いた時計の上に振りかぶる。
「ミヅキ……ミヅキやめなさい。後悔するわよ」
メイズさんが、ざらざらした声でうめいた。
「……そうだ、取り引きをしましょう。おまえが、それを返してくれたら……大金持ちになる方法を教えてあげる。人気者になる方法も、邪魔者を消す方法も! 全部全部、私が教えてあげる!! ねえ、うれしいでしょう!」
わたしは、首を横にふった。
……だって、ユーシャンが教えてくれたから。
「自分の運命を決めるのは、自分だよ」
メイズさんが叫んだ。動物の吠え声のようで、もう言葉になっていなかった。
わたしはカナヅチを振りおろした。
金属製の文字盤がへこみ、亀裂が走った。
メイズさんが、頭を押さえてうずくまる。帽子の下からざらざらと砂がこぼれ、土の
もう一度、叩く。
叩く。割れた文字盤から、ばねが飛び出す。小さな歯車が散らばった。
メイズさんが背中にぶつかってきた。
カビだらけの指がわたしの首をつかんだと思うと、右腕に焼けるような痛みが走った。
最後の力で、メイズさんが噛みついてきたのだった。石を埋めこんで作られたメイズさんの歯が肉に食いこみ、シャツの
わたしは歯を食いしばって、さらにカナヅチを振るった。
痛みで涙が止まらない。わたしはほとんど目が見えないまま、ひたすら時計を叩き続けた。そのたびに、背中にのしかかった重みがぼろぼろくずれて軽くなっていく。
それでも右腕の痛みだけは、軽くなるどころか強くなる一方だった。
やめちゃだめだ。ここでやめたら、終わりだ。わたしはそれだけを考え続けた。
痛みはどこまでも強くなっていった。強くなって、強くなって、そして――わたしは気を失った。
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