女王の転落(2)
午前中の授業が全て終わるころになっても、真珠ちゃんは姿を現さなかった。
さすがに先生たちもあわてて、真珠ちゃんの家に電話したり、校内放送で呼びかけたりして探したけれど、どこにも見つからない。
わたしの胸では、真っ黒な不安が風船みたいに膨らみつつあった。
昼休み。
自分たちがいる二階のトイレがいっぱいだったので、わたしは三階まで行って、理科室近くのトイレを使うことにした。昼休みでも、特別教室のあたりは人が少なくてすいている。
トイレを済ませたわたしが、廊下に出ると――長い黒髪の女の子が、廊下の向こうをフラフラと歩いているのが目に入った。シルエットに、見覚えがある。
(えっ? ……真珠ちゃん!?)
角を曲がっていこうとする人影を追って、わたしは廊下を走った。追いついて腕をつかむと、ビクッと体が跳ねる。
おびえた顔で振り向いたのは、やっぱり真珠ちゃんだった。
いつもきれいに整えられていた髪がぐしゃぐしゃに乱れ、汗で額に貼りついている。大きく見開かれた目はぼうっと遠くを見ているようで、わたしの顔すら、すぐには認識できないようだった。
「あ、あ……。み……深月、ちゃん……?」
「真珠ちゃん。今までどこにいたの!? みんな心配してるよ……と、とりあえず、先生のところ行こう」
わたしがそう言い終わらないうちに、なんと、真珠ちゃんのほうからしがみついてくる。
「い、いやぁっ! 出してっ!! 早く……早くここから出してよっ!!」
「え? ちょ、ちょっと……なに!? どうしたの!?」
真珠ちゃんは異常なほどおびえていた。わたしの腕を痛いくらいの力でつかみながら、何度も後ろをふり返る。目もとは赤くはれ、口を開くたびに泡まじりの唾が飛んだ。
「わからないのっ!? めちゃくちゃじゃない、廊下も、窓も、教室も!」
昨日までの真珠ちゃんからは想像もできない。怖いくらいの取り乱しようだった。
「お、落ち着いて……。別に、どこも普通だよ……?」
「じゃあ、どうして階段を下りたのに上の階に着くの。どうして保健室に入ったのにトイレの個室に出るのよ! 私、朝から、何時間も――ずっと、ずっと……」
最後のほうはべそべそと泣き声が混じる。
まさか、真珠ちゃんはずっと、通いなれたこの学校の中で迷子になっていたというんだろうか? まるで――迷路に迷いこんだみたいに。
「だ、大丈夫だよ、真珠ちゃん。わたしが職員室まで連れていくから。そうしたら、おうちの人が迎えに来てくれるよ」
「本当……?」
「うん」
真珠ちゃんはずずっと鼻水をすすると、わたしを見上げた。
「離さないで……。お願いだから、手を離さないで……」
「離さないよ。大丈夫」
真珠ちゃんの手を引いて歩きだしながら、わたしは複雑な気分だった。
ほんの数日前まで、真珠ちゃんは悪魔みたいに強くて、ずる賢くて、恐ろしい存在だった。真珠ちゃんがユーシャンにやったことには納得できないし、正直、ギャフンと言わせてやりたいと思っていた。
でも……実際に、こんなふうに弱った姿を見せられてしまうと……。
わたしは真珠ちゃんの手を引きながら、一歩ずつ、ゆっくり階段を下りて行った。
わたしたちが出会ったのは三階で、職員室は一階。階をまたぐとはいえ、普通に歩けば五分もかからない。
わたしは二フロアぶんの階段を下りて、下駄箱の並ぶ昇降口を横目に、廊下の角を曲がる。そうすると、すぐに職員室が――。
なかった。
「え?」
廊下の先に、理科室が見える。
でも、そんなはずない。だって、わたしたちは今、確かに階段をおりてきたはずで……。
振り向くと、さっきまでそこにあった昇降口がなくなっていた。
そこにあるのは、四階にあるはずの図書室の入り口だった。ありえない。これじゃ、学校のつくりがめちゃくちゃだ。
真珠ちゃんの震えが、つないだ手から伝わってくる……いや。それだけじゃない。今では、わたし自身も震えはじめていた。
――クス、クス、クス……。
半開きになった図書室の扉から、しのび笑いが聞こえてくる。
わたしに、その正体を確かめに行く勇気はなかった。図書室から少しでも離れようと、理科室のほうへ走り出す。
なのに、いくら走っても理科室が近づいてこない。
体感では体育の二十五メートル走よりも長く走っているはずなのに、五メートルもない廊下を渡りきることができない。走れば走るだけ廊下がぬるぬると伸びてゆくようだ。
「いやぁ! もういやぁぁ!!」
真珠ちゃんの叫び声が、無限に伸びる廊下に響いた。
パニックになった真珠ちゃんはむちゃくちゃに暴れてわたしの手を振り払うと、廊下の窓に突進した。ガラリとスライドさせ、身を乗り出す。
「だ、ダメ!!」
もし、三階の窓から飛び下りたりしたら……。
止めようと足にしがみついたわたしを、真珠ちゃんは反対の足で蹴りつけてきた。それが顔の真ん中に直撃したからたまらない。わたしはそのまま後ろにひっくり返ってしまった。
真珠ちゃんの姿が、窓枠を乗りこえて消えた。
「真珠ちゃん!!」
わたしは窓枠に駆け寄ると、下を覗きこんだ。
三フロア下には、中庭の花壇がある。
真珠ちゃんの姿は……なかった。ベンチにはお弁当を広げている女子たちがいて、あとは近くで男子が数人、バスケのドリブルを練習しているだけ。
わたしはハッとして、まわりを見回してみた。
すぐそばに理科室がある。別に長くもなんともない廊下の向こうに見えるのは、図書室ではなく、さっきわたしが使った女子トイレだった。
真珠ちゃんの姿は、どこにもない。
(うそ。なんだったの、今の……)
まさか、わたしは夢を見ていたんだろうか。トイレから出て、ありもしない光景を妄想しながら、まっすぐここの理科室へ歩いてきた?
そう思って、目線を窓のほうに戻した、その瞬間……。
黒髪をふり乱した真珠ちゃんが、すぐ目の前を、真っ逆さまに落ちていった。
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