卑下落葉

小狸

短編

 自分の代わりは、いくらでもいる。


 自分がいなくとも、世の中は回る。


 自分は社会の歯車ですらない。


 夜行やこう帯刀たてわきはそう思って生きていた。


 実際世というものは、だろう。


 誰か一人にのしかかる責任というのは、子どもたちが思っている以上に重くはない。


 軽いのだ。


 人も、命も。


 心も。


 吹けば簡単に消し飛んで、跡形もなくなる。


 その中で「何か」になることのできる人間というのは、ほんの一握りである。


 大概の者は、「何か」にすらなることができない。


 構成要素の一つ――であって、名前すらもっていない。


「夜行さんって、生きていて楽しいんですか」


 部下にそう問われたことがあった。


 年末の忘年会の話である。


 あれだけ猛威を振るったコロナウイルスによる感染症も今では随分下火になり、こうして会社で忘年会を開けることになった。まあ、夜行は元より飲み会というものを好まない。しんば行きはしても、酒は飲めない。下戸なのである。故に「酒の席でしか話せないことがある」などとのたまう輩に対しては、それはただのアルコールを摂取したための昂揚こうよう感で箍が外れているだけで、大抵の場合は後で後悔することになるぞ、と心の中で思う。思うだけで、言いはしない。それが、夜行帯刀という男である。


「それは――どういう意味だい」


 その部下は、多少軽佻けいちょう浮薄ふはくな所がありつつも、しっかりと実績を残す――いわば「可愛がられる後輩」の立ち位置にいる者だった。少なくとも、忘年会という場で、社交辞令抜きで、夜行とそんな話をするような仲ではなかった。


 だから、驚いた。


 最初は、酒が進んで無礼講にでもなったのかと思ったけれど、部下の面持ちは真剣そのものであった。


「いや、どういう意味っていうか――あの、失礼にあたったら申し訳ないんですけど」


「既に結構失礼だぞ」


「ひえぇ、気を付けます」


 そう言って、部下は頭を掻いた。


「それで? 君の言わんとすることを聞こうじゃないか」


「や、あの、改めて聞かれるとちょっと気恥ずかしいんですけれど、夜行さんって、ご結婚されていませんよね」


「ああ、そうだね」


「それで、仕事一徹で、今のポストに就かれてますよね。んで、休日はジムに行って体力づくりにいそしんでおられる」


「おいおい、私がいつもジムにいると思ったら大間違いだぞ。図書館にも行く、公園にも行く、生活に必要な品々を買いに行く」


「他には?」


「他には――」


 そう言おうとして、答えられなかった。


 最低限の体力維持、健康で文化的な生活を行っている。


 ただそれ以外には、何もない。


 一人暮らしで、お盆や年末年始に、実家に帰ったりするけれど。


 それくらいで。


 その程度で。

 それだけである。


「それくらいだな」


「や――これは凄いなって思っているんですけれど、夜行さんなら、モテると思うんですよね。同年代、同世代の方から。実直で真面目、貯蓄も十分にあるでしょう」


「まるで結婚を推奨しているようだな、君は」


「まあ、そうとも言えますね」


 上手くはぐらかした。


「夜行さんみたいな好物件、女性なら逃さないと思うんですよね。なのに、独り身でいらっしゃる、僕はそれが不思議でしてね」


 物件か。しばし結婚市場において、男性の地位というのは、かなり低く見積もられることが多い。部下が、こうして夜行を物件扱いしたように――人は、モノなのだ。


 ただ、夜行も理解はしている。


「いつかの生物の授業で習ったよ。人間の生きる目的は、子孫を残すため、なのだとね。それをしていない私を、君は糾弾しようというのかい?」


「いやいや、まさかあ」


 そんなことを言いつつ、また部下は頭を掻く。


 家族――家族、家族ね。


 夜行は頭の中で思う。


 トラウマやネガティブな印象はない。夜行は父と母に愛されて育ったと自覚している。それに学生時代に交際相手はいた。しかし家族となると、そこまでには発展しなかった。


「ただ、どうして作らないのかな――とは、不思議に思うんですよね。夜行さんみたいに、ちゃんとした人が、家族を」


「ちゃんとした人、ね」


 夜行は、意味ありげに反駁はんばくした。


 まるでその物言いは、結婚していない者が「ちゃんとしていない」者のようではないか。


 まあ、職種によっては婚姻の有無が昇進に影響する所もあるようだが、実際の所はどうだろう。


 後先考えず、無責任に子どもを作ってしまった、大人になり切れていない親の何と多いことか。


 家族、家庭を持つということは、そこに対して、責任を持つということにも等しい。確かに家族、親に対する政府からの支援金や援助は、一昔前よりは十分増えていると言えるだろう。


 しかしだからといって、無責任に放逐していれば、勝手に子どもが大きくなるわけではない。


 それに、我が子が健常に五体満足に産まれてくる保証は、母体が健康に出産できる確証は、どこにもない。


 それは愛とか、恋とか、そんな薄氷のような言葉では覆い隠しきれない――どうしようもない、現実である。


 実際、夜行の姉も、そうだったから。


 大学時代、彼女は当時の交際相手との子どもを身籠り、出産。


 そして夜行家から絶縁されている。


 姉の行方ゆくえは、今も知れない。


 ああ――そうか、と、夜行は思い至る。


 自分の家族に対する「現実」は、そこで構築されたのだ、と。


「現実を見ちゃったから――かなあ」


「現実、ですか」


 またその言葉か――という、やや嫌そうな表情を、部下はする。


 すぐ顔に出るのだ。


 まあ、今の若者世代の方が、この言葉の真意に近い所にいるのだろうな、とは、夜行は思う。


 最近の親世代は何かにつけ口酸っぱく言ってきたのだから。


 現実は厳しい。


 現実は苦しい。


 現実は辛い。


 そんな救いようのない「現実」で、果たして生きていきたいと思い続けられる者がいるのか――それは、定かではない。


 自分なら諦めていると思う。


「そう、現実。まあ、相手がいないとか、機会に恵まれないとかは、結局言い訳なんだろうなと思っているよ。自分で選んでこうしている――とは、敢えては言わないよ。きっと私には、魅力がないのさ。男としての魅力がね」


「またまたー、昨今そんなことを言えば、ジェンダーレス団体が黙っていませんよ」


「さてね。生物的子孫繁栄を追及するなら、男性性、女性性というのは、避けて通れない話だと、私は思うが」


 それからしばらく、部下と話をした。


 どうやら部下には、婚約者がいるようだった。


 マタニティハイ、ならぬマリッジハイのような状態だったと、後で他の者から聞いた。


 他人に結婚を強要する文化。

 

 いつの時代も独り身は生きづらいと、夜行は思った。


 そんなことをつらつらと話していたら、いつの間にか忘年会はお開きになっていた。部下は二次会に行くようで、話の続きにどうですと誘われたが、夜行は断った。こういう所が、自分の社会性・社交性の無さなのだろうな、と、ひしひしと実感する。


 帰り道、転々と足許あしもとを照らす街燈の光を見ながら、夜行は一人思う。


 この光には、役割がある。


 暗闇の中、足許を照らすという、重要な役目だ。


 自分にも、役割がある。


 社会の歯車という役割が。


 自分はいてもいなくても同じである。


 自分の代わりは、いくらでもいる。


 しかしそれは、婚姻においても、同じではないか。


 少子高齢化社会だと騒がれるけれど、夜行は実際、その現状を自分事として捉えていない。


 運命の相手とか、白馬の王子様とか。


 そういうものが存在しないことを、早くに知ってしまっている。


 ――まあ、うん。


 最後に部下に放った一言を、夜行は思い出した。




 ――


 ――




 今は、これで精一杯。


 踵を返して、家へと帰る。


 街の光に、一つ。


 影が落ちた。



(《卑下落葉》――了)

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