第4話 不変

『……腹減ってるなこれ。』


 軽い吐き気に顔を顰めた時任 桐青は煩わしそうに顔をゆがめた。


 昨日、突然起きた不可思議な神秘にいざなわれてこの世界に現れて激動の半日――そう、半日だ――を過ごした。自室に潜入して、ごく短い仮眠を取り、そのまま誰も起きてこない時間に寮を抜け出してきた彼は空腹だった。


 実際問題、この体に移ってそろそろ半日、前日の食事の時間によってはすでに一日近く何も食べていないのは間違いない。


 本来であれば動きたくはない、動いた分だけ苦痛が増すのだ。


 しかし、平日の速い時間、授業が始まるまで一時間はあるだろう、朝もや立ちこめる校内を彼がうろついているのにはそれ相応の理由がある。


『これが彼の物なら僕が持ってるべきじゃない……返してやらんと。』


 考えて右手にあるものを見やる。


 そこにあったのは一つのカバンだ。


 その中身は先日見つけ出した本――この体の日記と共に机の上に放置されていた勾玉だ。


 昨日さわりだけ読んだこの日記の内容は他人である自分が深く踏み込んでいいものではない。


 この日記を渡すことが、彼女にとって+になるのかは彼にもわからない。この体の持ち主の意図に沿うのかどうかもだ。


 が、わからないのであれば届けてやるべきだろう。大事な物であれば取り返しがつかない。


 そう思って歩き回っているのだが、どうにもこの学校の広さがあまりにも広いためいまだに目的地につけないでいた。


 人に聞こうにも声を掛ければ汚物を見るような視線を向けられて避けられる関係上、彼はどことも知れぬ場所を一人ふらふらとさまよっていた。


 おまけに、なんの理由かはわからんないが、昨日、寮に還ろうとしたときからこっち、謎の頭痛がひどい。


 まるで大人数からがなり立てられているかのように響くこの頭痛も彼を不快にさせる――妹さんと話していた時はこんなにひどくもなかったのだが。


 まったく――


『初等部ってどこだよ……』


 がくりと肩を落とした少年は、仕方がないとあきらめて歩き出す。


『まあ、どっちにしてもやることは一つか……』


 首をひねりながら、彼はいずことも知れない初等部を探す旅時に戻っていった。







 彼が妹と名乗った少女を見つけられたのはそれから数分後のことだった。


 が、その再開はけっして愉快な物にはならなかった。


 何を隠そうその時、彼女はどこの誰とも知れない生徒三人に絡まれていたのだから。


「――わかってるんだろう?君のお兄さんは契約を果たせなかった。ということは――」


「――何ですか契約って!兄さまに何したの!?」


 聞き覚えのある少女の声がどこからともなく聞こえてきたのは、どこに通じるのかはわからないがどこかに通じているだろう二階の渡り廊下を渡っていた時だった


「――なんだ、聞いてなかったのか?君の兄さんがあの決闘のか介添人になったのは俺らから君を遠ざけるためだったって。」


「――はっ?」


 彼女の驚いたであろう声を聴きながら、彼は声の源を探していた、渡り廊下であるせいか遠くから響いているせいか、位置の特定が難しい。


「ホントに聞いてなかったんだな、あいつ。僕がお前に手を出すって言ったら、それだけはやめてくれって謝ってきたんだよ。で交換条件で介添人をやらせたんだよ、面倒だったからさ。」


 「でも、まさか負けるなんてなー」と軽い口調で言った男に怒り狂った声を上げたのはほかならぬ妹の声だった。


「じゃあ、やっぱり兄さんはあそこにいる予定じゃなかったんだ!なのにあなたが無理に!」


「そう言ってるだろ?でもまあ、よかったよ、記憶がなくなったおかげでこうして君のこと口説けるんだし――」


 ――そこで、彼はようやく音の発生源がこの渡り廊下の真下であることが分かった。


 窓から飛び出すように顔を下に向ければなるほど、ちょうどよく各校舎から死角になる位置にその一団はいた。


 明らかに無理から手を出そうとしている男たちの姿を見た時には彼の決心と覚悟は固まっていた、窓枠に足を掛ける。よどみなく動く体に思考が苦笑する――結局死んだところで、自分の性分は変わらなかった。


 笑顔を消したとき彼の体はすでに窓枠から外の世界に飛び出していた。


 落下着地まで二秒もなかった。


 地面に勢いよく落ちた彼はカバンを抱えて体を丸めて前転し、すべての衝撃を全身で流れるように受け流して彼らの前に現れた。


「――よう、諸君――」


 ゆっくりと立ち上がる、とりあえず体の機能に問題はなかった。この分なら、一揉めあっても問題はないだろう。


「――人の妹に何してる?」




 当然現れた男に慄いたように後ずさっていた男たちだったが、それが兄であるクロノスの姿をしていると分かった時、彼らは威勢を取り戻した。


「――なんだよ、誰かと思えば……無様に負けた負け犬くんじゃないか。」


 そう言いながら腕を広げて挑発的な態度をとる彼に関心を寄せることもなく少年は妹だった少女に話し始める。


「大丈夫だったか?けがは?」


「ぇ……あ、いや、うん、平気……」


 そう言って茫然とこちらを見つめる少女に笑いかけて、憮然とした顔でこちらを見つめる男に向き直る。


「ああ、悪いね、なんだっけ?」


「……君は記憶と一緒に礼儀も忘れたらしいな。」


「かもしれん、が、それよりなにより野良犬に礼儀を払えと習った記憶がないな――まあ、どっちにしてもなんも覚えとらんが。」


 そう言って薄く笑って見せれば相手の顔色はどんどんと赤黒くなっていく――どうも、今生の自分は人を怒らせる才能があるらしい、あるいは健康に悪い怒り方をする奴しかこの世界にはいないのかもしれない。


「あまり調子に乗るなよ負け犬……僕がしつけなおしてやってもいいんだぞ。」


「そっくりそのままお返しするよ野良犬……人様の家の娘に手を出しておいて人に口が利けると思うなよ?」


 視線が交わり、お互いの気迫で空気がひりついた。決定的な決裂の一言を待つように沈黙の帳が下りて――


「――決闘だ!もう一度土の味を教えてやる……!」


 ――その一言が放たれた。

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