第3話 日記
音すら寝静まる夜。セイント学園貴族寮の一角、最も狭い部屋の扉が開く。
「――失礼します……」
小声で誰にとも知れず挨拶をしながら扉を開けて侵入してきたのはクロノス――いやさ、桐青だった。
まるで泥棒のように足音を消しながらそろそろりと部屋に侵入する――セコムに入っている学校でなくてよかった。などと冗談交じりに苦笑する。
『やっと寝れるな……いや、気絶してたせいかいまいち眠くもないんだが……』
などと思いながら部屋を見回す。
それはそれほど広くもない、質素で、どこか落ち着く空間だった。
一人用のベットと、窓に向かって置かれた机、その隣に一般的な本棚がある、六畳程度の空間だった。
「貴族の寮って言う割にこう……普通だな。」
もっと華美で無駄なほどに広い部屋を想像していた少年からすれば、それはうれしい誤算だった。
あまりに広い空間だと、小市民の少年は委縮してしまう。
『天蓋付きのベットとかどうやって寝ればいいのかわからんからなぁ……』
映像でしか見たことのないあの仰々しいベッドを思い返して苦笑する――あれはいったい、どこに寝ればいいのだ?
もう一つうれしいのはここが一人部屋であることだった。寝る時まであの視線を感じるのはごめんだった。
「さて……」
首を回す、眠くはない、が、さりとてすることもない。
部屋の設備の使い方もさっぱりわからない、この世界には電灯があるのかどうかすら知らないのだ。
何やら魔法だか魔術だかはあるようだが――それすら使い方がわからない。
『晩飯も食ってないしなぁ……』
そう言えばあの子が去り際に持ち帰った紙袋の中はなんだったのだろう?食事だったりしたのだろうか?
『……だったら、俺が食ったらまずいよな。』
それが与えられるべき人間はどこかに消えてしまった。自分が消したのかもしれない。
そう考えると重くなる気分は、彼の負った罪の重さを示すようだった。
『……明日からどうするか……』
今の自分に平凡な生活など望むべくもない。そもそも、この世界の平凡が彼にはさっぱりわからないのだ。
誰かに教えてもらおうにも先立ってのあの冷ややかな視線を考えるに自分に手を貸す人間などいないだろう。
『いよいよ八方ふさがりだな……そう言えば図書館とかあるのかね?』
そこで勉強を……と考えてもそもそも自分が本を読めるのかどうかもわからない。
『話し言葉は通じたが……それ以外は分からんな……』
せめてその程度のことは知っていてもいいだろう。そもそも、学生の身分なら授業を受ける機械もあるだろう、何もわからないのでは対処もできない。
そう考えて彼はゆっくりと机に向かって歩きだした。
月明かりが照らす机は夜と思えぬほど明るく、この上で文字を読む分には問題ない明るさだった。
さて、何か読んでみるか――と思った彼の目に留まったのは、開かれた状態で置かれた一冊の本と、その傍らに置かれた一つの物体だった。
『これは……』
開かれたページの一部が目に入る。
『――明日、決闘がある――』
「日記か。」
この部屋の主の物だろう、その開かれたページは昨日の日付だろう部分で終わったそれは、もう二度と新たに書き込まれることのない右側のページをさらしながら机の上で主の帰還をまっていた。
「……」
逡巡した。
これを読むべきなのかどうか、読むとして、それが自分に許されるのか。
許されるはずなどなかった。
この本は主をなくしたのだ、そして、その原因である自分にそれを読む権利は断じてない。
閉じよう。
そう思って本に手を掛けて――その部分が目に付いた。
『願わくば――妹が平和でありますように。』
まるで、辞世の句のように見えた。
今日、自分が消えてなくなるのが分かっているかのような一言に、彼は自分の自制心が役に立たなくなったのを感じた。
『明日、決闘がある、何をどう考えても正当性は向こうにあるこの争いに参戦するのはどうしても気が乗らないが、こればかりは仕方がない。』
そんな言葉で始まった日記はきれいな筆跡で描かれていた。
『自分の研究も軌道に乗ってきた段階でこのもめごとは避けたかったが避けられない話だった。いっそ負けたやった方がサロマ嬢も助かるのかもしれないが……おやじはそれを許さないだろう。』
どうやらクロノス何某君からいても父親はああいった手紙を送る人物だったらしい。
『……やりたくない。怖い。決闘だなんて、僕にそんなことができる能力がないのは自分が一番よくわかっている、逃げてしまいたい。』
それは悲鳴だった。
『――無理だ、わかっている、あの子を残しては行けない。アイルーロス、僕の妹。あの糞親父の下に一人で置いておくわけにはいかない。』
先ほどあったあの子への同情――いや、愛だ。それだけが彼のことを此処につなぎとめていた。
『大丈夫だ――僕の考えが正しいなら、僕には力があるはずだ。それはさなぎが蝶になるように、あるいは蕾が花開くように、僕の望みはかなう。鍵は頭痛だ、頭痛が答えに導いてくれる。』
まるでうわごとのように書かれた言葉は縋っているように見えた。
『これで寝よう、願わくば――妹が平和でありますように。』
「……」
深く息を吸って一息に本を閉じた。
やはり読むべきではなかった。
収穫と言えば自分が消してしまったかもしれない少年が善良な男であった事実と――そう、文字が読めることが分かったことぐらいだ。
「――返してやらんとな。」
この本を、持っているべき相手である妹に。
そう考えて、日記と――その脇に置かれた何かを見つめた。
それは表面は緑色の光沢がある結晶体だ、向こう側が美しいその石のような物体はともするとヒスイでできた装身具のように見える。
尾がふっくらとして丸みを帯びており、 美しく均整のとれた形をしている。
それは、異世界人の目から見るとまるで勾玉のように見えた。
『なんかのお守りか?こいつも返さんとな……』
そう思ってそれを手に取った。
「!?」
――瞬間、先ほどまで感じていた物とはけた違いの頭痛が彼を襲う。
脳裏に現れたのは何かの映像だった。
どことも知れない空間、そこで立つ男。何かを行うように集中して――
存在するはずのない記憶は数瞬で消えた。
後に残ったのは、突然のことに呆然とする少年と部屋の闇だけだった。
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