3

 そこは正しく、神殿と呼ぶにふさわしい場所だった。

 まるで異国にいるような景観。もしくは、ファンタジーもののゲーム世界に迷い込んでしまったかのような感覚。

 精霊使いの清廉さを表したような白の基調。建造されてもう既に何十年も経っているはずだが、どこにも年季は感じさせない。

 派手さはなくとも、一寸の狂いもない左右対称の外観に両脇にそびえる二つの尖塔、両開きの扉へと続く石畳は十分荘厳であった。

 二人は車から降り、門番らしき守衛にカイが身分証を提示し、敷地内に入る。長い石畳から小階段を昇ると、待ち構えていた大きな扉が重厚感あふれる音を奏でながら勝手に開いた。自動式というわけでもなさそうなのに、これも精霊の力が働いているのだろうか。

 土足で踏み入れるのも躊躇う高級な赤い絨毯の上を歩き、大広間を歩く。照明と呼べるものは、壁に設置した松明ぐらいなものだけ。だが、それがより厳かな空気感を醸し出していた。

 カイの後に続いてまっすぐ進んでいた織笠は、奥の壇上を前にして思わず腰が砕けそうになった。


「なっ……」


 大広間の天井は見えないほど高い。圧巻なのは、それに届かんばかりのタンクが縦横等間隔にズラリと並んでいることだった。透明なガラスの中身には白の光が収められゆっくり明滅を繰り返す。タンクの上部にはパイプが繋がれて暗い天井へ伸びていた。

 その構造は精保のレストルームに少しばかり似ていたが、違う点は周囲の造形とのアンバランスさ。

 これでは古の歴史的価値を奪ってしまっているような気がしてならない。


「来ましたね」


 小川のせせらぎのように、澄んだ声だった。

 穏やかに、しかしこんなだだっ広い空間にもよく通る声は壇上から聞こえ、タンクの間を縫うように人影が現れた。

 絹のような艶やかなローブをまとっているため、性別は判別しにくいが、上品に擦り歩く姿や、先程の声色からして恐らく女性だ。目元は布に覆われ見えないものの、たたえた微笑みは俗世を超越した女神のように穢れなど微塵も感じさせない。おしとやかにも、確かな威厳が放たれていた。


「お久し振りです。マスター」


 カイが膝をつき、うやうやしく頭を下げる。


「ええ。あなたも元気そうですね。他の皆も変わりはありませんか?」

「はい。相変わらず個性的な連中ですが、職務には差し支えありません」


 マスターの女性は「そうですか」と、安堵の笑みを浮かべた。


「あなた方の日頃の尽力は精霊を通して伝わってきます。ですが、それだけ。私は常にここにいなければならないため、外界の様子はうかがい知れない。それが非常に心苦しいのです」


 綺麗なピアノの旋律のような声色で、彼女はカイに言う。


「インジェクターというのは崇高な仕事です。と同時に悲しい仕事でもある。仲間を傷つけなければならないのですから」

「仲間……、ですか」


 やや不服そうに呟くカイをマスターは唇の端を持ち上げたまま、小さくかぶりを振って彼をなだめる。


「彼らは現段階でストレイエレメンタラーという立ち位置にいるに過ぎません。なりたくてなったわけではない。戦う理由を履き違えてはなりませんよ。あなた方が相手にすべきは身分の違いではなく、秩序を乱す者です」

「はい」

「私たちは人間のなどではない。彼らを支援するだけなのです。謙虚に実直に、そして驕ることなく、これからも職務を全うして下さい。あなた達なくしてはこの国の安寧はないのですから」


 カイは素直に言葉を受け入れているようだった。マスターはより笑みを深くした。

 これではなんだか上司と部下というより、王様とそれに忠誠を誓う騎士のようだな。と、彼らのやり取りを横で織笠は聞いていてそう感じた。


「そして――」


 女神の微笑がこちらへ向けられる。


「あなたですね。我々を救ってくださった方というのは」


 柔らかく、されど弾ませながら彼女はそう言って、壇上を優美な仕草で降りてくる。織笠のすぐ目の前まで来ると、呆けていた彼の手を両手で優しく包んだ。


「この度はありがとうございました。あなたがいなければ彼らは助からず、精霊もまた、あるべき場所へ還れなかった。マスターを代表して、感謝いたします」

「あ、いや、そんな俺は何も……」


 緊張に体が強張る。

 それにしても、彼女は一体いくつなのだろうか。こんな間近で見ても全く掴めない。ローブに隠れているからとか、そういう問題ではない。

 声質や僅かに覗く口元からも若いと、そう断言できるが、なぜか何百年も生きているような神々しささえ感じずにはいられない。

 彼女の手の温もりも単に体温だけじゃない、熱が全身に浸透していくようで――。


 ふと、マスターの笑みが消えた。


「どうかされましたか?」


 カイが様子の変化に気づき、立ち上がった。


「――いえ。何でも」


 軽くマスターは首を振る。そして手を解きながら織笠に訊ねる。


「織笠さん……でしたね? 一つ質問してもよろしいですか?」

「え? は、はい」

「あなたは正真正銘、人間、なのですね?」


『人間』の部分を彼女は強調した。


「はい」

「ご両親も?」

「間違いないです。ごく普通のどこにでもいる人間です。精霊使いじゃありませんよ」

「そう……ですか……」

「あの、何でそんなことを?」


 織笠は怪訝な顔で訊く。


「先程言ったように、私ども『アーク』の管理者は外界の様子を目で直接捉えられません。ですが、精霊の流れである程度知ることは可能なのです」


 マスターは神妙に話す。


「――あの日、とてつもない力を感じました。並の精霊使いでは決して操れない力を」

「だからそれは、あの強盗犯が薬を飲んだからじゃ……」

「いいえ。あの程度なら、日常でも起こりうる範囲。――問題はその後。さらなる力の増幅を感じたのです。こんな離れた場所にいる私でさえ、驚異するほどに。あの強さはマスタークラスと言っても差し支えはないでしょう」

「なっ……!」


 これに驚いたのはカイ。


「マスター、それは本当なのですか!?」


 詰め寄るカイをマスターは一瞥し、それから首だけを後ろに回してタンクを見上げた。


「精霊が解放された瞬間、あのタンクが溢れ返りそうでした。私の力でどうにか抑えましたが……。きっと膨大なマナが流れ込んだために、そうなったのでしょう」

「そんな……」


 その事実がどれ程の意味を持つのか。

 事の重大さがあまりピンときていない織笠は、かねてからの疑問をようやく口にする。


「あの、あれは一体何なんですか……?」

「ふふっ。驚かれるのも無理はありませんね」


 再び笑みと穏やかな口調へ戻したマスターは、二人から離れ、壇上へ上がっていく。タンクの一つに手を触れ愛おしそうに語り始める。


「これはマナの循環器なのです。この国のマナは我々のいた世界よりも絶対量が少ない。特にこの都市部に至ってはより顕著です。マナを生み出す自然物が少ないですからね。ですから、このタンクに貯蔵したマナを大気に流し込み、一定数を維持させるんです」


 マナは空気中に含まれる気体だ。それを日本全国に放たなばならないのだから、これだけの台数が必要になってくるのだろう。

 しかも巨大タンクの役割はそれだけではないと彼女は言う。

 環境に配慮した活動が日々行われ、その成果は徐々に現れてはいるものの、まだまだ完璧とは言いがたいのがこの国の現状だ。

 空気が汚染されれば、マナも穢れる。そのため、不純物を取り除き、また綺麗なマナを外界へ送り返す作業も行うらしい。


「俺たちの仕事も同じようなものだ。マナ本来の持ち主の精神が悪化すれば、マナもまた、穢れてしまう。だから、俺たちが回収したマナはここで浄化して、人々の暮らしに役立ててもらうんだ」


 と、カイも補足してくれた。


「この国の人々の技術は本当に素晴らしい。私たちが上手く精霊を扱えるよう、こんなものを造ってくださったのですから」


 日本が滅びかけた理由に、科学の進歩がある。企業がこぞって自社の技術を争い、新製品を開発する。社員が日々の賃金を得るために、生き急ぐ。

 確かに日本はめざましいスピードで発展していった。より便利に、より楽に。

 何もそれは悪いことではない。だが皮肉にも、その弊害として、自然が奪われていったのだ。

 精霊使いにこの国を救ってもらい、改めて自然の重要性を再認識した政府が環境の改善にようやく本腰を入れた。そして、限界まで鍛え上げたせっかくの科学技術を応用し完成させたのが、この『アーク』である。


(……あれ?)


 織笠は一つの疑問にぶち当たった。


「でも俺はマナを回収する武器なんて持ってないですよ? 俺があの強盗犯を倒したって言うのなら、マナがここに送られるのはおかしいんじゃ……」

「……そうなのですか?」


 この言葉にはさすがのマスターも驚きを露にする。


「ええ。俺たちがE.A.Wで回収したマナは、精霊保全局を通してこちらに送られる。しかし、彼の場合、犯人の精霊を自分のものにして逆に利用したのです」

「跳ね返した……と?」

「……かもしれません。そして、犯人のマナごと解放させた……。マナはそのまま自然に戻ったように見えましたが……」

「…………」


 マスターは黙り込む。沈黙はしばらく続き、やがて呟いた。


「不思議ですね。織笠さんには精霊の力を全く感じない。報告を聞いて、もしやと思ったのですが。……私の予想とは違ったようです」


 もしかして、さっき手に触れたのは自分が何者か確かめるための行為だったのか。

 マナを読み取る――マスターというのは、そんなことまで出来るのか。織笠は感嘆の表情で彼女を見上げていた。


「ですがどんな事情であれ、あなたが我々を救ってくださったのは事実。どうでしょう? 何かお礼をしたいのですが」

「え?」


 突然の申し出に織笠は声が上ずってしまった。


「い、いいですよ、そんなの。別に何かしたわけじゃ……、いや、したかもしれませんけど。お礼を貰うなんて滅相もない!」

「遠慮なさらず。のですから」


 両手を振って全力でお断りする織笠。が、構わずマスターはふっと視線を奥に移し、何やら手招きをし始めた。


「…………?」


 タンクの背後はほぼ暗闇だ。加えて神殿内の灯りは乏しいために、そこに何がいるのか全くつかめない。


 チリン……。


 どこか懐かしさを覚える鈴の音色。

 、一瞬何か分からなかった。ぬっと、何かが蠢くのを視野の隅で捉えた。

 現れたのは――黒猫。

 滑らかな体のフォルムに、大きく丸い黄金の瞳。赤い首輪には小さな鈴があり、しっぽを揺らして歩く度に音が鳴る。どこかの上流階級の猫のように、優雅に階段を降り、織笠の方へ寄ってきた。

 屈んで頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目をつむる。猫の方もクンクンと織笠の匂いをかぎ、どうやら彼が気に入ったのか、ひょいと背中を渡り、肩に乗ってきた。

 随分人懐っこい猫だなぁ。警戒する様子もないし。

 でも……、お礼がこの猫?


「モエナ!!」


 と、突然カイがこちらを見て叫ぶ。


「もえな?」


 変なイントネーションでおうむ返しする織笠。どうしたんだろうか。カイが取り乱している。


「どういうことですか、マスター!?」


 神殿内に響き渡る大声でカイは抗議する。


「本来人間である彼らを守護するのは我々の役目。恩に報いるのは当然でしょう」

「謝礼の話をしているのではありません! なぜ、この場に、そいつがいるのかと聞いているんです!!」


 インジェクターにとってマスターは神であると言ったカイ本人が、正にその神に激昂している。


「落ち着きなさい、カイ」

「答えてください。なぜが――!」

「カイ」


 まるで暴れて言うことを聞かない飼い犬を叱りつけるようにマスターは言った。静かな声色だが、有無を言わさない圧力。

 “彼女”ということは、この猫はメスなのか。モエナという意味不明な単語は、この子の名前だったのかも。と、織笠は考えながら、肩の猫を落とさないようにバランスを取っていた。


「も、申し訳ありません……」


 カイも己の無礼さに気づいたらしく、眉を垂れた。


「いいのですよ。あなたの反応はもっともなのですし」


 その姿を見たマスターは破顔した。彼の罪を許し、受け入れ、慈しみ、包容するように温かい言葉をかける。


「……はい」

「織笠さんにはモエナが必要だと私は判断した。ただ、それだけなのです」

「ですが……」


 その時、携帯の着信音が鳴った。自分のではない、と思った織笠の隣でカイが携帯を取り出す。まだ何か言いたげなカイはしばらく画面を見つめていたが、やがて諦め、マスターに断りを入れてから離れて電話を取った。


「織笠さん」

「はっ、はい!」


 急に声をかけられて、猫を落としそうになった。


「これからあなたは精霊保全局に通われるのでしょう? ならきっとこれからも危険な目に遭うやもしれません。その子はお守りのようなものです」

「え……?」


 なぜ、そんなことまで知っているのだろう? 精保から彼女に連絡がいったのだろうか。

 そんな頭の中の疑問もマスターにはお見通しなようで、


「私がそう勧めたのですよ。あなたご自身も知りたいとは思いませんか? どうして精霊を操れたのか……その理由を」

「それは……そうですね……」

「ですから、そのためにあなたを最重要保護対象と認定し、精保の管理下に置いた方が得策なんですよ。あなたは我々が責任を持って守りますので」

「はぁ……でもどうして俺にそこまで……」


 人間が精霊を操る。

 それは前例のない話だ。そもそもあり得ない事例だし、とすればその当人である織笠は貴重なサンプルに違いない。研究対象として自分を保護したと判断を下したのなら、納得はいくのだが……。

 それはそれで、何だか怖い。まるで実験用のモルモットじゃないか。

 織笠は身震いした。


「モエナを大事にしてくださいね。いい子ですから、きっとあなたを助けてくれるでしょう」


 マスターは一方的に言った。


「はぁ……。ありがとうございます……」


 とりあえずお礼を言ってみる織笠。これからのことを考えると不安しかないが、これ以上彼女に訊いてもその不安が消えることはないだろう。

 そんなのは面倒だ。マスターはいい人そうだが、何か得体の知れなさはひしひし感じる。

 人間関係不得意の織笠にとって、彼女はレベルが高すぎる。

 その点、動物は好きだ。特に犬や猫。これまでに飼った経験はないが、幸い自分に懐いている。親もまぁ、何とか許してくれるだろう。

 でも精霊使いがわざわざくれたものなら、普通の猫とは少し違うのかも。


「えっと……モエナだっけ。これからよろしく……なのかな。困ったときは頼むね?」


 肩口の黒猫にそっと話しかける。猫にこんなお願いをするのも変な話だが、も織笠の言葉を理解したのか、


「にゃあ」


 と、小さく鳴いて自分の手を舐めた。





 電話を終えたカイが戻ってきた。

 どうやら何かあったらしい。精霊を通してマスターも承知していたとばかりに頷く。


「ええ、分かっています。よろしく頼みますよ。あなたたちに精霊の加護があらんことを」


 カイも深く頷き、それから織笠に向く。


「これから君を送り届ける予定だったんだが……。すまない、事件が発生した。今からそっちに急行しなければならなくなった」

「はぁ」


 カイは言いづらそうに続ける。


「――だからもうしばらく待ってくれないか。仕事が済んだら必ず送るから」

「あ、じゃあ俺バスで帰りますよ。ちょっと距離遠いけど……」


 そうやんわり遠慮したが、カイはあっさり一蹴する。


「そうはいかない。現場に連れてはいくが、安全な場所に待避してもらうから安心してくれ。――それでよろしいですね、マスター?」

「はい、お願いしますよ」


 マスターは、柔らかな笑みで返す。

 織笠は肩を落とした。仕事熱心なのは結構だが、その責任感の強さは織笠には逆に迷惑なのだ。


(……もう勘弁してよ……)


 カイがマスターに挨拶をし、出口へ向かうのを織笠は渋々付いていく。肩から降りた黒猫も後ろからぴったり寄り添う。



 マスターはその男二人と、猫一匹の後ろ姿を黙って見送る。――が、笑みは暗闇に潜むように消えていた。




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