第拾四話 ~河の民~その弐
水清らかにして土は育み
豊かな実りを我らに与える
そは河の民
水、
決して
薬師は
彼女の膝を枕に古い書物を読んでいた。
「
「昔話だよ。この歳になって読むとは思わなかったけどね」
「主さん、まだお若う見えますのに」
「老いぼれだよ」
「まぁ…そんなことあらしません、
もっとも主さん『あちら』のほうはまだまだお若い盛りで…
ほらまた元気になってしもうて」
佳の江が薬師の腰から下腹部にかけて手を添えてやさしく撫でる
「こら、本が読めないじゃないか、お前も悪い子だな」
「主さんこそ、そのご本にご執心で…何が書いてますの」
薬師は佳の江に読んでいた本を手渡した。
「あら、河の民やありませんか」
「佳の江は知っているのか?」
「では、お話をしてあげましょうか」
佳の江は服を整え薬師の隣に寄り添うように座りなおした。
「浪花の街から南にある
大きな河があちこちにあって、大雨が降ればすぐに溢れてみんな流されてしまいましてね。
河の民は水をきれいにしてくださるお方…土が生き返って、また耕すことで豊かな実りをぎょうさん与えてくださいます。」
「民とは言っても人にあらず、か?」
「神でも人でもあらしません。河とともに生き、河と共に絶えてしまう・・・
河そのものですわ…この辺りで昔から住んでいる人ならみんな知ってるお話です」
薬師は改めて本を読み返した
「これには『
「まぁ、そんな酷いこと…大方東国の
佳の江はそんな低俗な本は読むなとばかりに薬師から本を取り上げる。
「百姓の出ならみんな知ってることです。河が荒れる前には河の民が知らせてくれる。田畑は駄目になっても人は残る。みんなでやり直せばまた次の年にぎょうさん実りを与えてくれる。感謝こそすれ忌み嫌う人はおりません」
薬師は佳の江が気を悪くしたのであれば、と詫びたうえで昼間の事を聞いてみた。
「河の民らしき子にお会いになったのでは、ということですか…このところ聞いたことがございませんねぇ。
でも…もしその子が河の民なのであれば・・・
「穢れれば滅びると言っていたな」
「きっと河上から水を奇麗にしてくれてはるんですわ、有難いことです」
「南波の出だったのか?」
佳の江は黙って頷いた。
「小さいころなんて河の民は近しいお方だったんですよ・・・母が子供の頃には同い年くらいの男の子や女の子とよく小さい川であそんだそうです。
ある時、娘がいなくなったと村長が騒ぎ立てましてね、三月ほど経って戻って来やはったんですけど、おなかの中に
男は誰だってことになって河の民の男衆が
生まれた子供は三つくらいの時ですかね…川で潜ったら大人かて勝たれへん、これは河童や河童の子やっていじめられるようになったそうですわ。
結局その娘さんも子供を連れておらんようになりましてね…それ以来行方知らず。生きているのやらいないのやら…」
薬師は昼間に会った子がその時の子供ではないか、とも思ったが、
佳の江の親が子供の頃と考えるともう成人しているであろう。なら人違いか、とこの話はここまでとなった。
「いい
「これでもいろんなものを見ておりますのよ。
お得意さんになっていただいたら、いつでも子守歌のかわりにお話してさしあげます」
「次に会う時はきっといい花魁になっていることだろうよ」
「ほな、今のうちに主さんのやんちゃそうな此処で愉しませてもらいませんとな…」
佳の江は薬師の膝に顔を埋め、愛おしそうに薬師の反応を口の中で味わった。
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次の朝、
佳の江は薬師のために妓夫に頼んで弁当を用意してくれた。
昨日の子に会ったら一緒に食べられるようにと、河の民でも口にすることのできるものを詰めた小さいものと二つもらい受けて店を出る。
佳の江のことを太夫になると太鼓判を押したことで妓夫と遣手から謝礼としてかなりの手当を受け取った。
とりあえず昨日の子になにか気にいるものでも、と店を回る。
そういえば飴玉を日に透かして覗き込んでいたことを思い出したので菓子屋でとびきり綺麗に光る飴玉を幾つか買い求めた。
河の民に会うことに何か目的があるわけではない。
ただ、昨日会った子供の眼が気になったのだ。
人に興味がありそうでそれでいておびえているような目…
あの眼に惹きつけられたことは確かではある。
佳の江の話では昔に人との間で仲違いをするような事があったというが、それが関係しているのか…
昨日の高台から川を眺めていると昨日の子供らしき姿があった。
薬師は子供に警戒されないように遠くから見ていた。
その子は水に潜ったままで、人であれば呼吸が苦しくなる時間が経過しても水面には何の変化も見られない。
小半時ほど経ったであろうか、ようやく水面から顔を出したその子は息を荒げるでもなく立ち上がり、弾けた水滴が陽光でキラキラと輝いていた。
禿のように切りそろえた髪、十歳になるかならないかの少女、
まちがいなく昨日の子だ。
「なぁ、そこの娘よ!」
薬師はその少女に声をかけた。
ハッと薬師の方を向いた途端に警戒心から逃げようとする少女に向かって
「怪しいものではない、お前は昨日もここで会った子であるな?」
黙っている…だが少女はしばらくして軽くうなずいた。
「陽も高い、私とお昼を一緒に食べないか」
そう言いながら薬師は弁当を少女に見せた。
広げると魚や卵、茹でた野菜などが入っており、
少女は興味を惹かれたようだ。
「それ、南波の者が・・・作ったのか」
「そうだ、幼き頃この辺りに住んでおったらしい」
「アンタは?」
「私は
「なんで?」
「そうだな・・・話をしたいと思った、と言ったら?」
「ヒトは信用できない、お婆ぁがそう言ってる」
「なら、何故逃げない?」
少女はしばらく黙っていたが、側に置いてあった小袋から昨日の飴を取り出して薬師に見せた。
「なんとなくだけど、アンタは悪いヒトじゃないって気がする。ロクな事はしてなさそうだけど、アタイ達を騙そうとはしていない」
「ロクな事とは手厳しいが、まぁそのようなものだ」
少女は少しづつ薬師の方へ近づいてきた。
薬師は小さい弁当を少女に手渡そうとした。
「私も同じものを頂いておる。もう腹が減って動けそうにない。一緒に食べようではないか」
少女は薬師のそばまで来て隣に腰掛けた。
渡された弁当を広げて二人は食べ始めた。
「娘、名前を聞いて良いか?」
「教えない。誰にも教えるな、と言われてる」
「誰から?」
「お婆ぁ」
「偉い人?」
「村の長」
やはりな、と薬師は思った。
名前を伝える相手は河の民にとって特別な存在なのだ。
弁当を食べ終えても二人は話を続けていた。
薬師は河の民について探りを入れるようなことは避けていた。
好きなもの、嫌いなもの、ヒトについてどう思っているかなど少女の事だけを聞いていた。
同じだけ薬師は自分のことも少女に話した。
薬を売ったり病を診たり、特に旅先で出会った怪異の話に少女は目を丸くして聞いていた。
「ヒトの世界は誰かを嫌ったり、除け者にしたりということはないのか?」
「何故そのようなことを聞くのだ?」
「・・・」
「半分ヒトの血が流れているから?」
「知ってるのか?」
「話を聞いた。だがかなり前の話だとも」
「ヒトとアタイらでは歳のとり方が違うから」
「ではお前は何年も生きておるのか?」
「三十年くらいかな、河の民は千年以上も生きるっていうから」
「お前はそうではないのか?」
「ヒトの血が成長を早くしてるからせいぜい五百年くらいだろうって」
それでも人間の寿命より遥かに長い。
長寿故に子孫を残すという考えが希薄なのか、滅びることが運命づけられているのか…
「郷にいてお前は幸せなのか?」
薬師は敢えて聞いてみた。河の民の郷でこの少女はあまり良い扱いを受けていないのではないのかと考えたからである。
「郷に居たくないからこうやって外で過ごしているのではないのか?」
少女は少し寂しそうな顔を見せていた。
「お婆ぁ以外相手にしてくれんからの・・・それでも郷から離れることなんて、考えたこともない・・・」
「ヒトの中には悪い心を持った者もおれば私のように澄み切った心を持ったものもおる。他の地で暮らした方がお前にとっては良いと思うがな」
「自分で澄み切った心とか言う奴にろくな奴はいないと思うけど?」
少女は初めて薬師に笑い顔を見せた。
「アンタの心が綺麗なのかどうかはアタイにはわからないけど、アンタの事は嫌いじゃない。アンタとはずっと話をしていたい・・・気がする。
しばらく
少女は郷に戻ろうとしたので薬師は呼び止めて買い求めてあった飴玉を小袋ごと渡して別れを告げた。
「お前のことをどう呼べばいい?」
「
「童では他の子らと区別がつかんであろう」
少女はもらった飴玉を陽にかざして覗きながらこう言った。
「郷にはアタイの他に子供はおらん。河の民に子供は長い間産まれておらんからな」
童はそう言い残して郷の方へ帰って行った。
第拾四話 了
扉絵はこちら
https://kakuyomu.jp/users/eeyorejp/news/16818093073831296057
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