3

*


 地方都市のやや外れにある山の麓の寺院で、Kの葬儀は行われた。梅雨の時期であったが、幸いにも天候には恵まれ、その日差しは夏の近さを感じさせた。


 参列者はKの親戚と地元の友人がほとんどだった。優秀な彼女のあまりにも早すぎる死に、皆悲痛な表情を浮かべていた。特に彼女の両親と高齢の祖母の嘆きようは筆舌に尽くしがたいものだった。


「ねえ、あれ」


 ささやくようなTの言葉で、私たちは参列者の中のある人物に気づいた。あの教授だ。私たちの視線にさすがの教授も気がついたようで、彼はズンズンとこちらに歩いてきた。研究室でもたびたび見かけた、不機嫌そうな顔。正直話などしたくはなかったが、この状況で挨拶しない訳にもいかない。


「お久しぶりです」と、私たちはそろってお辞儀をした。自分から近づいてきたにも関わらず、教授は「どうも」と気のない返事を返した。


「君は誰だったかな。顔は覚えてるけど、名前が出てこない」


 私が名乗ると、「ああ、帝大の院を蹴ってわざわざ別のところに行った学生か」と教授は呟く。彼の言葉にはいちいちトゲがある。だが、信じられないことに、教授はイヤミをイヤミだと思っていない。彼は思ったことをすぐに口にするだけなのだ。


「Kの件、ご愁傷様でした」


 Sがそう言うと、教授は憤慨した表情を作った。


「いい若者が、こんなことで死ぬなんて全くけしからんよ。ご家族の嘆きようを見ただろう?  全くひどい話だよ」


 教授が大声で吐き捨てるように言ったので、参列者たちの目線が私たちに集中することとなった。このまま放っておけば、教授は何を言い出すかわからない。


「ところで教授。⚪︎⚪︎大学に移られると聞きましたが」


 空気を読んだSの言葉に、教授は一転、嬉しそうな表情を浮かべる。


「さすが、よく知っているね。9月には異動する予定なんだ」

「そうなんですか? もうすぐじゃないですか」

「彼女の一件でね、私を悪し様に言う人が結構いるんだ。迷惑な話だろ? だから、予定を早めたんだよ」


 教授の話を聞いた私の頭に、一つの疑問が沸いた。だが、それを尋ねようとする前に、教授は「じゃあ」と言って私たちに背を向けた。彼の歩みの先にはあの准教授がいた。私たちが卒業した翌年、准教授は別の研究機関へと移っていった。二人はケンカ別れに近い別れ方だったと聞く。彼らが一体何を話すのか、聞きたくもなかった。


「ねえ、おかしくない? 教授は今年で辞めるの? Kの博士号はどうなるのよ」


 Sが口を開いた。私と同じ部分を疑問に思ったらしい。


「確か、去年は博士論文のレベルに達していないって教授にはねられて、それであいつ、留年したんだ」


 Sのつぶやきに、Tが答えた。


「確か審査申請もできなかったんだよね? 査読付き論文も2報出してたし、条件は満たしてたらしいけど」


 疎遠になっていた私と違い、SとTはずっとKと連絡を取り合っていたという。二人は修士卒で就職して、今は有名メーカーの企業研究者だ。同じく博士課程に進んだ私には話せないことでも、立場の違う二人になら話せたのかもしれない。


「え、でも教授がいなくなるんじゃ、今年の博論審査も無理だよね? さすがに指導教官なしで博論審査は無理がありすぎるよ」


 私の言葉に3人で顔を見合わせる。一つの答えが脳裏をよぎるが、私にはとても口には出せなかった。代わりに、Sがポツリと言った。


「教授はKを見放した?」


 教授ならやるだろう。私たちは暗い顔で視線を交わし合った。


 葬儀が終わり、私たちはホテルに戻った。日帰りはさすがにきついので、駅近くのビジネスホテルに部屋を取ったのだ。私たちは口数も少なく、3人別々の部屋に入った。


 喪服を脱ぎ、シャワーを浴びて服を着替えた。気が重くなるような線香の臭いが体から消えると、少しだけ頭がすっきりした。


 ベッドに寝転がってぼんやりとしていると、突然部屋の電話が鳴った。出ると、Sからだった。飲み直しに行かないかという彼の誘いに、私は乗った。


 支度して部屋を出るともう彼が待っていた。Tには「疲れたから」と断られたらしい。私たちは連れだって駅近くの居酒屋に入った。


 各々生ビールや酎ハイを飲みつつ、テーブルに並んだ冷や奴や唐揚げをつまむ。あれこれ頼んでみたものの、お互いあまり箸は進まず、ドリンクばかり飲んでいた。何を話していいかわからず、最近の研究トレンドについて話し合ったが、私も彼も、お互いの話なんてろくに聞いていなかった。


 やがて沈黙が訪れた。少し古いヒットナンバーや陽気な酔っ払いの笑い声が響く中、私たちの周囲だけが別の空間のように静寂を保っていた。


 ふと、Sが口を開いた。


「Kのメモのこと、聞いた?」

「ううん、そういう雰囲気じゃなかったし……」

「さっきKのお母さんから聞いたんだけど」

「……なんて書いてあったの?」


 私が思わず身を乗り出すと、彼はボソリと呟いた。


「『走れない女王は消えるだけ』って書いてあったんだって」

「それって……」


 いつかのKの声が、ふいに耳に響いた。


『赤の女王仮説。走り続けなければその場にとどまることは出来ないっていう__』


 走り続けられなくなった女王はどうなるか? 生物は常に進化し続けていないと、生き続けることが出来ない。


「意味がわかるか尋ねられたけど、答えられなかった」


 Sはビールジョッキをあおって、再び口をつぐんだ。


 私たちはそれ以上、何も話さなかった。


*


 Sと別れて部屋に戻ると、上着だけ脱いでぐったりとベッドに横たわった。Kと私はどこで分岐を違えたんだろう? ぼんやりした頭で思いを巡らす。


 教授とそりが合わず、心身を病んだ。それでも研究に情熱を注いだけれど、努力と熱意の甲斐なく、博士号の取得さえ危うくなった。そして、そのあげくに未来をなくしたK。


 方や、3年ですんなり博士号を取れた私。今はポスドクだけど何とかやっている。好きなことを一応仕事に出来た。


 だが、やりたいことだけやれる訳じゃない。同僚のために実験の代行をしたり、学生の論文の手直しをしたり、いろいろ書類を書いたり、雑用も山ほどさせられる。その合間を縫って自分の実験をして、契約期間が終わるまでに成果物である論文を出さなければ次の職を得ることはできない。


 とにかく走り続けなければ、生き延びることは出来ない。


 研究者の人生は厳しい。予算か契約期限がつきたらそこでさよなら。また次を探さないといけない。アカハラやセクハラだってあるし、あの教授もどきは山のようにいる。


 ベッドに投げ出してあったハンドバッグに手を伸ばす。中を弄って取り出したのは白い錠剤の束だ。私はその束を握りしめるとよろよろと起き上がり、一粒取り出すと、ペットボトルの水で一気に飲みくだした。


「……死んでしまうなんて、馬鹿なやつだ」


 毎日がプレッシャーとストレスだらけで、今では薬なしで眠ることすらできない。病院で処方されたのは、皮肉なことにあの教授が飲んでいたのと同じ睡眠導入剤だった。


 私は再びベッドに横たわると、目を固く閉じて、眠りに落ちるのをひたすら待った。暗闇が意識を飲み込む直前、私はふと、Kの最期が同じように安らかだったかが気になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ありふれた死 芳野ガリ @nemurenai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ