昇降機の頂 Vol.1

 整然としたオフィスの中。黒を基調とし、有機物がそこにはない。ただ無色の輝度によってのみ印象が規定されていて、たった一つの大きなデスクの上に、類を見ないほど複雑な構造を持ったサイボーグが座っていた。これは肉体の100%を機械に置換しており、共通規格以外に人間と同一の部位を持たないが、権利上は人間であり、そしてかつて人間であって、故に今も人間である。そのため、おそらく明日も人間であろう。


 壁面は四つ存在する。その内三つは様々な防衛機能(最上級の機械歩兵や、室内でぶっ放しても壁面を傷つけにくい機銃など)が収められた収納器具としての意味合いを持つ。唯一別の形式を持つ一つの壁は、透明でひとつ障害を隔てた先の光景を素通ししていた。


 宇宙である。常人にとってはまさに暗黒が広がる孤独な世界であり、踏み込めば死を免れない未踏の地である。


 しかしE.Mechanicの役員ともなると、それはただ広いだけの庭と言っても過言ではない世界であった。このサイボーグは、E.Mechanicの最上位役員であり、整列する軌道エレベーターのうち一つの研究室の責任者であり、同時に自在にそれらを使用することのできる研究者でもあった。


 したがって彼は、宇宙についてこの星出身の生物で六~八番目に詳しいと言える。

 これの眼には無数の光がしっかりと見えている。如何に小さな星の光であろうとも、どれほど遠い星の光であろうとも、その眼は旧世代の宇宙望遠鏡よりも鋭く、光を分解することが出来た。


 仮に今ここで軌道エレベーターが爆発し、そして緊急脱出用のシステムが満員になっていたとしても、単身生き残ることすら可能にする。例えばエンカルナシオン等、比べ物にならないほどに頑丈であった。


 それが経済活動の中における、明確に必要な格差である。


 同時、のしかかる責任というものも莫大であった。整然としたオフィスは、最早これの認識の外にある。


 仮に視界を共有した場合、並の人間(改造したものを含む)ではその情報量のみで脳髄が焼け爛れるであろう。当然、共通規格の側がそのような自殺行為を許すはずもなく、視座を同じくすることができる人間は地球上にほとんどいない。


 にも関わらず、人間性というものは摩耗しないままでいた。もちろんそれは、彼の意識が強靭であるだとか、そういった属人的な要素で担保されているわけではなく、企業として持つ特色と、それを可能にするテクノロジーによる産物であった。ようするにやりたがれば誰でもやることのできる代物ではあるが、彼以外にやろうとしてここまで苦労した人間は居ないのである。


 何がそれだけ情報量を喰っているのか──それはE.Mechanicが契約するあらゆる企業のあらゆる“個人”単位を監視する、というこれの役割定義そのものである。人間の人生は、人間が一人でかけたすべての労力の結実であり、通常ひとつしか選択することができない。だがE.Mechanicという巨大な文明のあらゆる能力をもってしてブーストされたこれの耐久力は、そんなもの知ったことではないとばかりに、関係する人間すべての情報を集積することができる。


 これの監視は、概ね選択権のない数多の人生を生きていると表現することができるだろう。リストアップされた人間は毎日大なり小なり「効率的ではない」やり方を執る。故意的な犯罪であったり、ただの不注意だったり、まず前提を取り違えていることがある。


 また、その結果何が起こるかどうかも、ある程度は予測を立てることができる。──人間的な経験則でもあれば、E.Mechanicの未来予知システムによっても。


 眼下に広がる地球は、遠方に緩やかに曲面を形作っている。カルマンラインをはるか下に望むここからでも目を奪われるほどに、巨大企業群の輝きは恒星よりも強大で、鋭い。地球は青かった──過去形である。役員の瞳にはおそらく、玉虫色にけばけばしく光るLEDのひとつひとつまでくっきり見えていたことだろう。


 彼はそこから、在る一点を凝視している。日本──外科生命研究所が実効支配を行うYotta Corp支配直下地点の一つであり、ダイダロスメディカルに次ぐ勢力が根城とする魔境である。


 その首都である東京の、更に北側に、星睨市と呼ばれる場所が存在する。一見何の変哲もない地方都市のひとつではあるが、実は歴史上重要な意味を持つ場所であり、故に彼ら企業は、その土地を常に気にかけている。


 この土地は、ダイダロスメディカルの重要な飛び地、植民地、あるいは支配領域である。本来日本の全土は外科生命研究所が一強という状態であるのに、この土地だけはダイダロスメディカルが優勢と言ってよい。市民の目線からはそう見えている。


 実際巨大すぎる故に尻尾が一体どこに存在するのかですらわからない、かの企業の貴重なサンプルとして、ある程度世界の真理に手をかけた企業はこの都市を無視することができないのだ。


 だからこそ、関わるものは例外なく慎重になる。外科生命研究所もまた、沈黙を保つ奇妙な巨人であるからだ。ダイダロスメディカルと外科生命研究所は、技術体系の異質さも相まって常に関係が悪い──これもまた、歴史に形作られた事実である。


 かつての南極戦争では、まるで天使と悪魔のように(互いが相手側を悪魔と称した)きっぱりと世界を二分して、企業と国家の威信をかけて争った。


 その際、ダイダロスメディカルは独立した経済活動による人民の相互支配──究極の自由主義──を掲げた改革を標榜したし、対する外科生命研究所は、国連を含めた旧体制のために尽力した。彼らは元々公的組織であったために、現在の企業然とした姿になるまではかなり保守的な組織であった。


 星睨もまた、ダイダロスメディカルと外科生命研究所の間にDNA螺旋のようにして続く因縁が生み出した成れの果てであったのだ。


 彼は宇宙などよりも、この地球という星に巣食う深淵の方が恐ろしいと感じていた。例えば宇宙には、閑散と広がる無がほとんどを占めていて、そしてその内情は事細かく視認することができる。


 そう、それほどE.Mechanicという組織は宇宙という概念について優越していたし、宇宙開発が出来ていないわけではない。むしろ、空間跳躍を用いた代替FTL技術により、間違いなく星間に帝国を作り出せるほどの能力を持っていた。


 星は隠そうとしないし、宇宙もそうだ。そこにはあるものがあるだけ存在していて、危険も安全も意思が介在せず、ただ闊達である。縛るものは何もない。故に、恐怖は完全に自分の持ち物である。


 だが地球はどうだろうか。彼の眼には、大地を覆うネットワークと、加えて物理的な巨大建築に加えて、裏側に潜む人々の非物質的な綱引きの片鱗を捕らえていたが、E.Mechanicに匹敵する、あるいは上回る質の技術によって覆い隠されている。その実、閑散とした宇宙は、このるつぼのごとき地球という惑星ひとつで伍するものなのかもしれない。


 もしくは、謎という概念は密度で考えることすらおこがましく、無限遠にまで堆積していると言い換えることもできるだろう。


 目の前の慣れ親しんだペットボトルですら、中に含まれる原子の数一桁台まで言い当てられる人間は居ない。監査役員にとっての謎とは、そういうものだった。


 人を糸だとする。かつて、人は同じ視座の人のみを見ていた。つまり、糸から見えるものは糸だけだ。


 しかし、監査役員は違った。こいつは紡がれたタペストリーを見ている。コガが、エンカルナシオンが、探偵が、医者が、そしてツチイが、糸を眺めているのにも関わらず、こいつだけはその全てを見通していた。


 同時に、タペストリーの裏側に潜む生き物を見ることができない。


 それは凝視している。他者が見れば、それはデスクチェアに瞑想のように鎮座し、何も動きのないオフィスの中で宇宙を背負って佇んでいるように見えるその脳内に、探偵の送ってくる数多の情報、街中の監視カメラ、電子空間上の戦闘によって手に入れた様々な記録が流れていった。


 探偵──ヤガミ・ケイゴの報告した“追跡の再開”と、同時に欠落したコガの行き先について、監査役員は拡張された脳領域を最大限に使用し演算を開始する。

 一先ずは、彼の受けた仕事について洗いざらい調べ尽くすことにした。

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