赤い鹿 Vol.4

 書きこまれた情報の森を抜けて、目の前に現れるのはボロボロの医者。


「言っただろ?」


 手触り、充満する臭気、ほどけて散らばった彼女の自慢の高級肉体に、譫言のようにつぶやかれる要領を得ない言葉の数々。言葉が脳に響くたびに、共通規格が嫌な熱を持ち始めることを細やかに感じた。


「結局……ダイダロスメディカルと先輩の間に一体何が?」コガは縋るような目で医者を見たが、彼は哀しみの表情を浮かべる代わりに、わかりやすく頭を振ってこたえた。


「ダイダロスメディカルに一々言及するってことは、たとえそいつが狂人になったとしても、大抵の場合どうしようもなくなった場合に限る。窒息死する瞬間に大気の実存を感じるのと同じだ」「この世でアレと関係していない奴がいると思うか?探偵ならそれくらい知っておけ」


 キャリブレーションを終えた旨が医者の頭脳に響く。パフォーマンスは76.4%低下、他部位のトルクを上手くコントロールしようとも、絶対的な性能の低下は避けられない。しかし、このまま腕を取り替えるまで何も起こらないとは思えなかった。


「そういう哲学的な話をしているわけじゃないっすよ」


「この世に哲学なんてものはない。アイツらが決めたラベルがあるだけだ、ほんとは分かっているだろ」


 コガはうつむき、医者は顔を上げた。傷ついた肩口の駆動部から、先ほどの映像でもくさるほどみた緩衝剤が漏れ出している。


「私が教えられるのはここまでだ。行き先は知らん、聞く前にどこかに行ったのもお前は見ただろ」「あの口ぶりならお前の方が知っているんじゃないか。どうせあんなぼんやりした頭で動いてるんなら、かかわりのある場所をしらみつぶしに調べりゃいい」「お前は後でちゃんと金を払うんだぞ、クソ師弟」


 コガは何も言い返せない。強要した負い目もそうであったが、目の前の医者の凄味は、事実を経てさらに強烈な印象を与えたのだ。仮にもその精神と記憶を通じてリンクした彼は、自らでは及びもつかないほどの怒りと憎しみ、そして深い諦めについて、理解はせずとも視認することが出来た。信じざるを得ないのだ。


 だから彼は、ただお辞儀をしてその場を後にした。得られた情報と言えば、今まで背景だと思っていたものがこちらに手を伸ばす深淵そのものだったということと、そしてE.Mechanicの死神がすぐそこまで迫っていて時間が無いということだろう。


 医者はただ、背中を睨みつけている。彼にとって、コガは別に大切な人間ではない。なんであればツチイですらも、特別な人間だとすら思っていない。ただ付き合いの長くて、金払いの良い客に過ぎない。


 ただ医者は、医者という仕事をするうえで、たったそれだけの人間を助けてやれない存在にはなり下がりたくなかった。言いたいことは言った上で、助けてやるのがあるべき姿だと信じていた。それが何物をも信じなかった彼の宗教であり、在り方であり、規定された世界そのものだった。


 コガという小さな探偵が歩き去ってしまった後、しばらく脳内で幻想が流れていく。意識的に再生したものなのか、あるいは機械ではなく自らの脳が限界を迎えて走馬灯を見ているのか、彼には区別する必要が無い。境界線はうやむやになっていて──兎に角浮かび上がってくるのは、幼いころからころころ見た目の変わる両親の様々な姿だった。


 医者は探偵の家庭に生まれて、そして大学への進学が決まり、一人暮らしを始めた矢先に、下手を打ってしまった両親が纏めて消えた。一方の自身は、企業のコンプライアンス判断によって生き永らえた。大の大人に差し掛かり、雑務がためにプリインストール(おそらくこの時代の人間が受ける中では最も大掛かりな手術であり、共通規格を中枢神経に近い位置に増設、そして緩衝剤を用途に応じて代謝する機能を得る)を済ませた後であっても、突如の肉親の死には大きなダメージを受けた。


 それが電子人格や、ひいてはBBで再生することが出来たとしても、彼の信じる世界の中では、確かに親が死んだのだ。


 だから、医者となって様々な“人体を冒涜する方法”(と彼が信じている、事実として非合法なBBの活用による人格再生、移植技術および蘇生法)を知ることになっても尚、あの日から両親に会ったことはない。何より、どの姿で生き返らせればいいのか、彼には皆目見当もつかなかった。


 遺体の姿を知らないというのは、彼にとって、そして彼が生きる時代にとって、21世紀とは違う意味を持つ。両親は死ぬ寸前ですら、きっととびきり危険な仕事をなんとかするために、専用のインプラントを自分の肉体の中に次々作って、また見た目を変えていたであろうことは想像に難くない。知らないことを、認めなければならない。


「……コガはどうした?」


 ふと気が付くと、目の前にいたのは死神──先ほど交戦した探偵だった。開け放たれた扉から入り込む人工的な光を、まさに神様だという風に背負っていた。


 けれどもあからさまにぎらつく頭部のセンサーが、ポインターが、実際のところただの企業のテクノロジーの結晶だということを示している。あるいは、それが今の時代の神なのであろうか。


 彼は丁度、コガと入れ替わる形でここに訪れたようだった。


(あいつは運がいい。)(それに比べて私はどれだけ間が悪いんだろうか)


 うらやむ気持ちが無かったわけではない。妬む気持ちすらあった。だからと彼を裏切ることはなかった。


 探偵の質問には答えないし、実際答えようも無い。ツチイとコガの人生において、医者は医者でしかなかったからだ。役割以上の意味を見出されていない彼に、どうして二人の行き先がわかるだろうか。


「教えてくれれば、悪いようにはしない。私と、そして私の雇い主はそれを望んでいない」「信じがたく、傲慢な物言いかもしれないが、堪えてくれはしないか」

 探偵は恭しく膝をつき、最早抵抗すら出来ない医者と、存在しない目線を合わせた。


「これ以上、私に堪えろというのか?」


 彼は自嘲気味にそういうが、半分は誇りである。彼は堪えることを選択してきた。自らの手によって。


「そうだ。真摯に保証する」


「堪えること自体は嫌いじゃない。人間らしい、知性的な選択だと信じてる」「だけどお前は気に入らない。健康体そのものじゃないか、これ以上病んだ人間を追い回して何になる、そのために堪えろというのは、その実堪えろと言ってるんじゃない」「今ここに居る私に、そして私の信じる世界に、死ねと言ってるんだ。わからないのか、この時代ではそれが全てだ」


 仮に肉体があっても、医者は涙を流さなかっただろう。だから敢えて、彼は表情インターフェイスに、荒れ狂う波とわかりやすい泣き顔の顔文字を表示した。探偵は頭を振り、「私は貴方ではなく、故に永劫分からない。ただ、今だけは譲歩する余裕がある」とだけ言った。


 探偵は腕を感情インターフェイスに近づけ、そのシステムを書き換えた。結局、彼のインターフェイスは壊れたと言っても過言ではない。最早何も表示されず、ただ暗黒だけが広がっている。それが正しい在り方だった。一瞬記憶の読み取りを走らせたが、それ以上には何もしなかったし、それを気取らせることも、脅すことも無かった。


 果たして、医者は申告通り何も知りえなかったし──患者を守ろうとしていただけだという事実を、ただ視ることしかできない。


「コガというやつは、これをわざとやっているなら相当な詐欺師だな」「なるほど、確かに探偵に向いている」


「向いてないよ、坊は」


「貴方はそう信じたいんだろう。私もそうだ」

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