赤い鹿 Vol.3
強力な鎮静剤に、傷口の消毒およびそれに伴う感染予防のための抗生物質などを投与していく毎に、彼女の身体には変化が生じていた。それは、外見的には奇妙な玉虫色の濁りの排出と言った形で現出し、内部的には強力すぎる恒常性を示している。
結論として、現状何をやっても彼女の体内数値は改善しなかった。ということはつまり、この異常に見える身体状況はなんとこの生き物の「正常」であり、しかも現代科学では干渉することが出来ないのだ。
変わり果てた先輩の姿を追想した電子のコガは、無い身体を震わせ、怯えていた。人間が人間ではなくなるなどと、そんな夢物語のような、しかもその中でも飛び切り邪悪なものが、どうして目の前の大切な人間の身に起こるというのか。一体如何な人体実験をさせられたのか、彼は憤りを覚えて、次に恐怖した。これと重度改造者がどの程度差のある存在であるのか、それを有意に主張する方法はあるのだろうか、しかしコガの貧相な、あるいは未熟な実存主義的感性では、その違和感に気づくことも、ましてや言語化することもできない。それ以外にも考えるべきことは、彼の中にはたくさんあったからだ。
(ダイダロスメディカルだって? 触ってもないし、そんなこと聞いてもないぞ)
ここにきて襲い掛かるのは不安である。彼は一人でこの映像を見届けることができるかどうか、自分に自信を持てなくなった。結論として保証されているのは、このツチイだったものが未だに生きているという事実と、そしてなんだかんだ医者も存命であるということと、その医者当人が人間的な死に方は出来ないとわざわざ脅していることだけだ。そして今、その理由について思い当たったのだ。ダイダロスメディカルである。正気ではないツチイが口走った、なんの理由もないその言葉であるが、どうにも嫌な説得力があって敵わない。兎に角コガにとっては、その言葉を言うツチイが、口から出まかせを放ったようにも見えなかったし、何よりそんなその場しのぎの知性すらもう残っていないようにも見えた。
ダイダロスメディカルは世界だ。世界そのものだった。宇宙を我が物としたE.Mechanicでさえも、人の内側まで支配することはないだろう。しかしダイダロスメディカルは“人”
の内側を完全にかこってしまって、彼らにすら解き明かせない深淵を除いては、その全てを人間に対して権利で優越することすら可能にしていた。人間の財産、知性、自我、自由を奪ってしまうのに、その全てを丁寧にはぎとる必要などなく──人間そのものを接収してしまえばいいのである。
コガはただの市民である。ダイダロスメディカルが一体何を考えているのか、その実暗黒面を持つ凶悪組織であるのか、秘密をひとかけらも知ることはできない。しかし知ることができないと今気づいてしまったのだ。結局のところ、人間は事実などどうでもいいので、現実は何も変わっていないのにも関わらず、その気づきによって住む世界を変えてしまう
コガは冒険譚の世界に生きていたし、ツチイも最近まではそうだった。けれども彼らは見なくてもいい場所を見てしまって、それが輝かしいゲームオーバーや名誉の戦死ではなく、歯車と電気信号のタペストリーに組み込まれた粛々とした現象の一つでしかないことに無意識下で嫌悪感を抱いたのだ。ようやく彼は、自らの置かれた世界がノワールであり、サイバネティクス溢れる邪悪なSF世界であることを理解した。
最早精神的な味方はいない。医者か、エンカルナシオンか、この二名はただ運命を混じり合わせた現象にすぎず、本当の意味で信じられる友というわけではなかった。あるいはツチイですら、今のコガにとっては現象に過ぎないのかもしれない。浮かれた熱に突き動かされたまま、南極めいた極寒の中にたどり着いてしまった。
『エンカルナシオン様』
彼は通信を飛ばして、リアルタイムで自らの見る視界を融通しはじめた。E.Mechanicの使用する回線は強力であり(特に空間位相識別技術を用いているために)、彼ら以外に覗くことはできないと彼ら自身は言っている。しかしコガは信じられなかったため、この選択はほとんど妥協である。それでもこの恐ろしい孤独感を埋めるには、何の信頼も出来ない騒音でも構わなかったのである。
古来より人間は、何の味方でもない太陽光を、ただ光であるというだけでありがたがり、そして最終的には様々な空想存在を滅ぼすものだとして崇め奉ったが、その実太陽光ですら現実に過ぎない。ただの実存現象でありながらも、人間はそれに救いを見出す能力がある。
コガにとって、このエンカルナシオンは太陽であった。巨星であり、そして人間よりはよほど巨大だが、人間には大して興味がないし、宇宙よりは矮小である。
『今読み込んでいる。君の送受信機能の低さには苦労させられるが、何となく概要はつかめてきた』それは恐れることなくそういった。理論的に恐れない理由があったわけでもなく、ただ恐れていないだけであることが分かった。コガはようやく気付くことが出来たが、こいつはどうにも、切れ者ではあるが同時に愚鈍でもある。結局のところ刃物であり、刃物がひとりでに動き回ることはない。
『ダイダロスメディカルにちょっかいをかけた上でウチに来たのか? キャリアーめいた疫病神だ』『どうした、さっさと進めろ。君が読み込まない限りは私もそれ以上の情報を得られない』
彼は自分が読み込む手を止めていたことに気づいた。意識的ではなかった。
ニューロンの電流が何かにひっかかったように堰き止められていて、読み取りを再開するのに時間がかかる。というよりは、出来ない。どうしてもできない。
密かに尊敬していた先輩の、恐ろしく醜い姿に打ちひしがれたのか。医者の言う言葉に今になって足を引っ張られているのか。『早く』
エンカルナシオンが急かす。人類は多分、宇宙の滅びより先に太陽の滅亡に向き合わねばならない。意を決し、読み込みを進めた。
処置はなだらかに進んでいった。追想の中の医者はあらゆる手を尽くしたし、知らない人間が見てもよくやったものだと感じさせられる手際であるが、同時にそれが全く意味のない、滑りだけを生む児戯に終わったということも見て取れる。いつの間にかビニルが破れていて、使い終わった医療器具が辺りに散乱し始めていた。部屋中に流れ出した液体から、生臭い人間の匂いが辺りに充満している。
ツチイはここにきても尚、まだ人間のにおいをしていた。あるいはそれが、共通規格のにおいだった。人間は皆、人間だけの独特なにおいを纏っている。
「もういいよ」
どれほどの時間が経った頃だろうか。汚染は広がり、使い終わった機材が辺りに散らばり、新規予約が積み重なり始めるほど長い時間が流れた。丁度、コガがエンカルナシオンに叩き起こされたのと同時刻、ツチイはふいに、未だ手を止めない医者へ向かってそう言った。ながら、彼女は上体をおぼつかない挙動で起き上がらせて、ゆらゆらと揺れながら地に足を降ろそうとした。
うまくないと思ったのは医者だ。コガもそうだった。
「待てよ、まだどこも正常化してない。薬剤なら追加で買ってきてやる、その分金は払ってもらうが、あるだろ? 探偵なら」「だから今歩いたって意味がない、やめろ」
聞く耳持たず。繋げられたチューブが次々に引きちぎれて行き、ボロ布のごときビニールは完全に役割を終えて、あたりにこびりつき始めた。
「おい、弁償だぞ」医者は困惑を隠すために咄嗟に言葉を出したが、振りむいた彼女の形相によって次ぐ言葉を失った。
「悪い」
鮮血にも似た腫瘍。皮膚の内側に差し込まれたそれが、今になってまた活性化し、彼女の肉体を覆わんとしていた。首元の共通規格ポートから、練り飴のようにずっと、赤く細長く肉が漏れ出してきている。
「悪い、私の身体がおかしいんじゃなくて、多分もう私がおかしいんだ。だからもう、治らないんだと思う。犬を人間には出来ない、権利がない」
胡乱な言葉を吐きながら歩き始める。変形し始めた彼女の肉体は、ひたすらに赤く、しなやかである。彼女は金を支払っていない。
「素人が何を言ってるんだ、私に任せておけばいい」
当然それを引き留めようとする。赤く棚引く触手と、ところどころに滞留する玉虫色の表皮とが返事の代わりに医者の表情を照り返す。ゆがめられた表情パターンがこれまで以上に恐怖心を刺激して、コガは涙を脳に浮かべた。帰りたいとすら思った。彼女は金を支払っていない。
「悪い。トウジには黙っておいてくれ。もうアイツは十分巻き込まれたし、その割にはまだ弱いんだ」コガ当人はこの光景を遅れて眺めさせられている。声から感情は読み取れない。猫でも犬でも人でもない、何か遠い世界の生き物泣き声のようにすら感じられた言葉を、共通規格が無慈悲に翻訳して、脳に叩きこんでいく。しかし明白に、感情は“無”を当てはめられていた。
かつてのコガなら、それが悲壮感を押し殺した必死の演技だと信じることもできたであろうが、ここ数十時間で精神性は大きく歪んでしまっていて、今ではただただ暗闇に恐怖している。彼女は金を支払っていない。
姿勢が崩れる。脊椎が溶けていく。動作は獣に近づいていき、声は低く、そして震えていた。反して、速度はどんどん上がっていく。この短距離においても尚、そのエスカレーションは劇的であった。彼女は金を支払っていない。
結局彼女は金を払わないままに、医者の高精度義眼ですら追うことのできないスピードで医院を飛び出し、やがて痕跡もきれいさっぱり消えてしまった。
彼女は結局、金を支払っていない。それは社会からの逸脱そのものであり、人間であるという事実の放棄であった。
この世界では、人間であることはすなわち経済活動の主権に従属していて、その実種族、思想、哲学の領域で扱われるものではなかった。人の形は例に挙げるのも億劫なほどに増えていたのだ。
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