赤い鹿 Vol.2

 何かが目の前でちらついている。瞳と脳の間に、電子的に再現された揺らぎが挟まっている。記憶媒体がチリチリと脳に情報を焼き付け始めた。


 コガは幾度も、この感覚を味わってきている。銃の練習が面倒な時は、銃の達人の軌跡をこうして追いかけたものだ。実体験と遜色なく追想することができる技術によって、彼は幾度も自分の命を救ってきたのだ。今回に限っては、その逆と言える。


 見覚えのある場所に、見覚えのある肉体。しかし、この視点から眺めることは決してなかったものだ。医者の多椀の感覚が、幻肢痛に似たメカニズムで脳に不自然に馴染み始める。


 なんであれば、医者の中に渦まく感情ですら感じ取れそうなほどだった。コガは静かに、感情のフィードバックを切った。ひどく不快な怒りと諦めの感情は、若いコガにとって未体験の、膿みすぎた要素でしかない。


 彼は毎日何らかの形で更新されていくインプラントのカタログを視界の端に置きながら、立ち尽くした従業員の整備を行っている。その時だった。


 一名予約待ち→ツチイ・スイ


 自らが作り上げた、この診療所という一つの生き物を円滑に回していくための自動化システム──無人予約筐体に、ひとりの客人が記名をした合図だ。


 ツチイと言えば、つい最近大口でインプラントの整備を頼んできた探偵だったし、何より古くからの付き合いで、高い製品を次々買っていく太客でもあった。販路代と契約更新料を差し引いても尚、大企業の製品を一つ売って、そして施術をすることは、かなり大きな利益を生む。


「まだ死んでないのか」


 数年前初めて共通規格をぶち込んだ時から、大口と大枚を叩いてばかりだったこの女。医者は早死にすると思っていたし、前例どもは悉くそうだった。毎日死にそうな顔で地下都市の底を舐め回すように安い仕事をぼやきながら熟している探偵の方が、煌びやかで自信に満ちていて、そしてクレバーな探偵よりも長生きするのだ。奇妙なことではあったが、しかし事実である。


 ツチイは豪胆を気取ってはいたし、実際無謀ではあったが、破れかぶれには見えない人間だった。どんな不利な状況でも自分が勝つと心から信じていたし、その一方でそう思うに足る準備を静かに敷き詰めている、バランスの取れた性質を持っていたのだ。少なくとも、医者からはそう見えている。


 コガにとってはただの何でもできる先輩に過ぎなかったのだが。彼は、あのいけすかなくそっ気のない医者がここまでツチイについて詳しいことに面食らい、多少嫉妬した。


 迎えに行くようなことはしない。椅子の上にどっぷりと座り込み、従業員の整備を続けてやる。ツチイに関してはどうでもよかったが、彼は探偵が嫌いである。


 本来市民に向けて開業したこの医療施設が、腕故に探偵のたまり場になったのは何時からだろう。それを、報酬目当てで拒むこともなくなったのは何時ごろからだっただろう。


 ぼんやりと焦点の合わない回想を続けていながら、手元に関しては正確無比だった。みるみるうちに従業員の見た目は新品同然にまで回復していき、そこではたと気づく。


 我に帰ると、表面研磨まで終わってしまった。所要時間なんと数十分であり、あのせっかちのツチイがずっと黙って待っている筈もない。


 さてはシステムが、バグか何かを起こして案内をすっぽかしたな? めんどうなやつめ、詰られたらどう言い訳しようか。システムの構成照合を始めながら、椅子と張り付いた腰を浮かせる。普段のわざとやる緩慢な動作を脱ぎ捨てて、すこしばかりせかせかと待合室へと向かった。結局、自分でやるのが間違いない。


『受付予約システムの構成をバックアップと照合──正常です。バックアップとの相違は確認されませんでした。システムは問題なく運用されております』


 


 彼の作り上げた自動化プログラムには、なんら不備が見当たらなかった。実際、彼の側に過失は存在しない。であるならば、何故ツチイは診察室に現れなかったのか。


 結局のところ、物理的に不可能だったと言える。医者が待合室までわざわざ足を運んでやってきたときにまず目に入ったのは、血液とも緩衝材ともつかぬ玉虫色の液体と、冒涜的な輝きの中に頭を抱えて蹲るツチイの姿だった。


 彼女は普段の聡明さ、冷静さを失っているようにも見える。会話の機先はかならず自分で握らないと我慢ならない性格をしていたのに、今の彼女は誰かに話しかけられることを待っているかのようだった。喋り方がわからない、交流の仕方がわからない、そんな孤独な人間の挙動と相似していたのだ。


「……」


 二人は沈黙している。この状況を誰もが測りかねている。そうしている内にも、彼女の肉体からはいくらでも液体が流れ出てくるし、それに反比例するように彼女の肌の内側は邪悪な瑞々しさに満たされていくようだった。


(妙なナノマシンでも喰らったか? それともシンノウのクソ病原体でも貰ったのか)


 脳の中では様々な可能性が首をもたげて、浮上し、膨らんでいく。ツカツカとツチイへと歩み寄りながら、しかし決して触れることはなく、丁寧な感染対策を心がけていく。


「どうした、ツチイ。死にかけているのか? 今度は何処の企業にちょっかいかけてこうなっているんだ」


 これ以上けばけばしい液体を辺りに撒き散らされないよう、加工された医療用ビニルを彼女に巻きつけながら問うた。分裂し繊細になった四つの手先を器用に動かしながら、返事を待ちつつ作業を続ける。


 ツチイは口を開こうとした。同時に頬が裂けて、瞳に奇妙な色彩が広がり始める。小刻みな震えが止まらず、みるみるうちにビニルの内側が液体によって汚染されつくしている。最終的に彼女が口を開き、言葉を発するまでには数分の開きがあって、そしてその頃には従業員と医者の手によって、治療室まで持ち込まれていた。


「ただの……ホームシックだよ」


 自嘲するように吐き捨てる。その実、原因に思い当たる節も、そしてこれからどうなるのかも、彼女という一側面には理解できていないようだった。


「これがホームシック? 私が見てきたどの企業の社宅でも、こんな奴は一人もいなかったが」


 ゆらゆらと揺れる表情インターフェイスに乗せて会話を続けながら、精密検査に向けて多数の(医者本人よりも多い)作業用アームを備えた椅子兼ベッドにツチイを寝かせながら、機材との物理接続によって感覚を拡張していく。今や彼の腕は四本どころには収まっておらず、伴って作業速度も上がっていく。ビニルの上から皮膚毎、そして肉体を支える共通規格フレーム毎切開が始まり、溢れ続ける体液を吸い出し始めた。


 思考が加速する。戦闘以外でも、こういった火急の際に人間は時間の価値を高めるものだ。静かに、肉体の破損をリストアップしていく。


(さて、何処から正常に戻していくべきか……ウイルス兵器なら免疫系を弄る必要があるだろうし、ナノマシンなら対抗ナノマシンのチューニング……在庫はまだあったな)


 全身の筋肉組織の赤い痘痕。真皮周辺の赤い変色。そして共通規格特有の緩衝材が多量に生成されている。共通規格インプラントに付属する緩衝材は有機的に生産することを前提とした構造を持っており、共通規格を埋め込んだ人間は代謝によってある程度の整備・維持をすることが可能になる。故に、こういった体調の異常に伴って、生成量の過不足が発生することもあった。鼻水みたいなものだ。彼は何度か、そういった不調を放置したことが原因で骨格部品が関節に入り込み神経を断裂させた事例を受け持ったことがある。


 今回に関しては多い方であり、伴う不具合としては“内圧の上昇”、それに伴う“血管の損傷”、および“身体可動域の制限”である。繋いだ管からどくどくと液体がタンクへと上り詰めてくることから察するに、内圧はかなり高そうに思える。診断システムを走らせた。


「で、結局何処の企業にちょっかいをかけたんだ」


 本来であれば、こうして何と関わったなどと聞くことはご法度であり、加えてこの医者も大して関わりたがらない部分でもあった。けれど何の気まぐれか、あるいはこの特異的な惨状によるものか、今日に限って尋ねた。コガは自分を重ねるようにこの状況を俯瞰していて、医者のなんとも言えない知的好奇心について思いを馳せていた。


「ダイダロスメディカルだよ。間違いない、全部アイツらが仕組んでたんだ。全部だ、全部」


 うわごとのようにつぶやかれたその言葉に、医者は困惑というか、奇妙な恐怖を感じた。ダイダロスメディカル、という存在の名前そのものに対して、それを語る女のもがきが、どこかしら片手落ちな、そういった印象を放っていた。


 意外にも、叫び声や狼狽に似た感情は湧き出してこなかった。自らもそれを受け入れ始めていて、あるいは以前よりその準備が行われていたかのように、ああ、彼女はダイダロスメディカルの逆鱗に触れてしまったのだと、諦めに似た納得が胸中を支配している。


 彼女は既に、正気ではなかったのだ。


「いや、違うな……E.Mechanicだったよな? 出る前に……トウジと喋ったもんな」


 焦点を合わせる眼球機能の大部分を喪失していく。というより、筋力を発揮するはずの筋肉部分が溶けだしていて、液体の中に瞳孔だけが浮かんでいるかのように見えた。そんな異常性を差し引いても尚、玉虫色に光を反射している瞳は、人としての表情から逸脱しているのだ。


 存在しない電子音が頭蓋の中に鋭く響き、コンプレッサ内部にも匹敵するほどの超高圧数値を叩きだしていた。続く化学的物質濃度もその全てがマトモではなく、概ね高すぎるエネルギーを体内に包括しているようにも思える。


「どれくらいで治りそうだ。ずっとここに居ちゃあ……迷惑かけちまう」


 弱弱しいぼやき。ふと顔を見ると、際限なく大口が開き始めており、横へ後ろへと亀裂が伸び始めていた。どうやって声を出しているのか、舌のようなものも確認できず、テレパスの如く意義のみを押し付けてくる。


 医者は一瞬、この場の二人が同じ言葉をしゃべっているのか疑問に思った。もしかすると、共通規格の翻訳機能が働いているから目の前の化け物と未だ会話が通じているだけで、本当は下水のヘドロがしたたるような音と意思疎通のラリーを図っているのではないかと。


「もう十分迷惑だ。今算出してるんだから騒ぐんじゃない」


 けれども彼は、義務を果たす人間でもあった。仕事を受けた以上、目の前のそれがなんであれ、共通規格によって契約されているのであれば、果たすべきだと考えていた。

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