赤い鹿 Vol.1
狂乱が街を掻きまわしていくこともなく、ただ喧嘩の残り香だけが辺りに漂っている。どこもかしこも共通規格、そして人に溢れていた。そうでなければ、人権を持っていないだけの知性に監視されているか。
共通規格の補正プログラムを最大限に活用しても、医者の腕はそこらの一般人に劣る。ナチュラリズム(無改造主義者、共通規格反対活動家)を拗らせた人間と同レベルである。
震え、ひきつけを起こしている腕をなんとかかばいながら、医者はコガに自らの共通規格に備わった規格直結ポートを指した。
「口で説明して、理解できるような出来事でもねえ。坊もそこまで賢くはないだろう。データを書きこむ、媒体持ってないか」
コガは自らの身体、被服のあちこちをまさぐり、医者に微妙な顔をさせた後に、ようやくひとつの小さなスティックを取り出した。
記憶素子を幾つも積層させた大容量記憶媒体である。これは、旧人類の人格程度であれば問題なく格納できるほどの性能を持っていた。とはいえ、2200年代においては全てを記録しておくには不十分ということも付け加えておかねばならない。今回は任意の範囲の記憶を必要な文だけコピーするだけに留まるので、問題はなかった。
「ほんとにやる気あるのか……?」
彼は側頭部のポートにそれを突き刺しながら言った。同時に、システムがウイルス、マルウェアの存在を探し回る。その間コンマ数秒、特に会話に間を持たせる必要もないが、あえて毒づいた。
「やる気はありますし、やるしかないんすよ」
「逃げ場を自分から制限するやつの言い草だ。何時だって決められたとおりに行動する人間が何処にいるかよ、皆解釈を挟んで好き勝手するんだ。お前だってそうだよ、責任自覚してんのか?」
“接続の確立を確認しました。”仮装インターフェイス左上に透過率40%程度で表示されたアナウンスを見ながら、自分の中の記憶を探っていく。システムと、直感と、脳。魂もあるのかもしれないが、それは証明できない。兎に角医者は、思いつく限りの精神的要素を多角的にまとめて再生していく。端から、記憶媒体に書きこんでいく。
作業は続く。喧騒は変わらず、ただ緊張だけがこの場に満ちていく。何時あの探偵がここを見つけ出すかはわからない。何せBBを持っている。目撃者情報を勝手に抜き出してくるかもしれないし、下手すると街中の監視システムを乗っ取ってくるかもしれない。ともすれば既に捕まっていて、せめてもの慈悲で幻覚でも見せられているのかもしれない。
考慮するだけ無駄な恐怖が脳を支配する。しかし、共通規格によってそれは脳の中にのみとどめられていた。純粋な恐れだけがある。コガは微動だにせず、医者もいつの間にか言葉を失っていた。
『どこまで進んだ? 探偵』
ふいにエンカルナシオンの声が、恐怖に満ちた脳内を打ち払うように聞こえてきた──最も、エンカルナシオンもまた別の恐怖の種にすぎず──自転車操業のように、精神の健康が流転していく。
『説得に成功しました、情報を抜き出すことが出来そうです』
『よくやった、こちらも今我々を取り巻く状況についてある程度探りを入れることが出来た。作業中なら聞かせるが、どうだ?』
『丁度、手すきでした』
『では──』
曰く、探偵はやはり監査部が放ったとみて間違いがないようだ。監査部はなんと、今回の件に関して直接部長が動いているらしい。何がそこまで彼らを駈り立たせるのか、エンカルナシオンにはわからないという。
『通例的に、このような初期時点で動くのは監査部でも下っ端に過ぎない奴らだ。それも人数は少ない』『だが今回に限っては何故か違っていた。少なくとも部長は直接仕留めにきている、あの探偵はやり手ではあるが飛び道具に過ぎない、本命ではない上に対処すること自体が手札を明かすことになる』
『どうするんです?』
『逃げ切りだ、証拠はほとんど処分した。残るはあの女、あの女こそがカギだ、あの女が悪い』『個人的な勘だが、上層部を動かすに足る爆弾だったに違いない』
物々しい言い方である。エンカルナシオンは常に自分以外をモブか何かのように喋るが、ツチイに関してはどうにもそうは思えないようで、憎い、目障りだという感情を隠しきれていない。
『先輩は確かに偉大……っぽく振る舞うような方でしたが、しかし企業に狙われるほど横暴な方ではありませんでしたよ』
『だが状況と結果が全てを物語っている。監査部は同好会じゃないんだ、動くには理由が絶対にある。そして私が今観測している限りでは、部長が出てくる理由は他にない』
声に力が宿り始める。無機的な筈だったのに、今は人間のように甲高く生々しい。それほど怒っているのだろうか。コガは困惑した。先輩は一体何をしたのか、医者とエンカルナシオンの口ぶりから恐ろしさと不気味さを感じ取らずにはいられなかった。
まさか自分は、何かとんでもない、触れても見てもいけない範囲に触れてしまったのではないか。
医者の感情インターフェイスには穏やかに、青と赤の波模様が揺れていた。
「坊、ろくな死に方は出来ないなあ」「文明的に死ねる最期の分水嶺だ。ほんとに……受け取るか?」
コガの手先が震えた。震える筈も無かった。震えているのは精神そのものであり、何か、第六感めいたものが、ここにきてコガの決意と消極的楽観を攻撃している。
あたりに重苦しく乗り上げる黒い雰囲気が肺を満たしていく。
かっこいい啖呵も、荘厳な決意も何もかもが吹き飛ばされ──『まだなのか、探偵』
エンカルナシオンのせっつく恐怖が、また別の恐怖を押し戻した。
医者が力なくつまんでいる素子を引き抜く。何の抵抗もなく、それはコガの手に移った。彼はそのまま、自分の端子へとそれを向けて──指し込んだ。方向をたがえることなく、行く末を違えた。
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