赤い馬 Vol.4

 中途半端な静寂。遠い喧騒。正確には、街の中で──買い取られた近辺の土地より数m離れたところでの活気が、誰も何も介在することのない知性の空白地帯を跨ぐ過程で大きく減衰されている。


 地面につけられた真っ黒な、焼け落ちたかのような傷跡の上に、スクラップが三つ。ミンチ手前の人間が一つ。


 だれも、なにもみじろぎをしない。喧騒が通り過ぎていく。時間も同様に過ぎ去っていく。人は来ない。あるいは、来ても大して意味がない。彼らは起き上がることを求められていた。


 だが。


 ドレッド・チューブには意識がある。テセウスの船をただのクレームだと処理するような精神性のものが、まだ起きている。この状況下においても、それは潔く死ぬことを拒否していた。外面には動力源の切れた、他と何ら変わらない敗北の末路を辿ったかのように見えていたというのに、埋め込まれた計算機能と余剰出力をその場でリレーして意識と電源を切らさずに生き延びていたのだ。


 弱小企業にも劣る極限の状況。リソースの枯渇は免れない。思考の持続時間は限られている。ジェネレータを吹き飛ばされた以上、ここからのあらゆる動作は全て取り返しのつかないものだ。指一つを動かすのですら、思考のひとかけらに至るまで。


 だから、立ち止まっても居られなかった。最早なくなった脚への未練を捨てる。思考から消す。とうの昔に未来予測システムは動力不足によって機能を停止していた。それは自らの思考と願望、執念によって動き始めたのだ。


 手を伸ばす。セラミックスを掴む。瓦礫毎に大地を掴む。腕を引く。


 はいずる。それははいずることしかできないが、はいずることはできる。腹の下を強化ガラス片が転がって、被服と砕けた地面に大小様々な傷をつけていく。焦げついた焼け跡の中で白っぽい新たな道筋が刻まれていく。


 手を伸ばしては引き戻す。


 男との距離が縮んでいく。ドレッド・チューブ自身が、そしてあの怪物が散々にもみくちゃにして息も絶え絶えな状態ではあったが、まだ“修理”が効く。


 漸く男の目前にたどり着いた時、透明で内容物の良く見える筒に針が付いたもの(アンプルというものの発展形)を胸ポケットから取り出した。


 シンノウ──E.Mechanicとは異なる企業から購入した、多機能気付け薬だ。


 多種多様な細菌、酵素、他微生物を配合し、人類であるのなら「大体」蘇生することのできるアンプルである。


 100%生物由来のオーガニックなものだ……尚、その生物というものは大抵シンノウの誇る大型“進化加速炉”によって作られたものであることを明記しておかなければならない。


 兎に角それを──色すら発さないほど濁った、まるで掃除されていない池や河川めいた暗黒を湛えている──どくどくと脈打つ、弱まり続ける鼓動の持ち主の身体に突き刺した。


 瞬間、鼓動が爆発にも似て加速する。男は内側からノックされて目を見開き、言葉未満の呻きを吐き出しながら意識を覚醒させた。


 それは絶叫とまではいかない。体力の低下が著しいからだ。


「いいか……今から言うことを……よく理解して、間違いのない、ように動け」


 文節の間に大きな予備動作を挟みながら、錯乱する目の前の人間に対して言い聞かせるようにして、先ほどと似たような言葉を喋り始める。元から人間離れしていた、ざらついた音源が、出力の不足によるセーブ機能により、よりシャープな、感情を感じさせない声を紡いでいる。


「今からお前の規格に位置情報を渡す。そこに私を連れていけ」「時間はないが、利点の説明もしてやる。第一にこのままではお前は死ぬ、私よりももっと無慈悲でもっと人間離れした“監査職員”が、私毎お前を粛正する」「だが私ならアイツを出し抜ける……これが一つ目だ」「二つ目、そもそもお前らは私に借りがある。ここで返すべきだ」「三つ目、指針があった方が死ぬにしろ楽だろう」


 男は喋らなかった。目の前の機械が必死にスピーカーを振動させるのに合わせて、変えられない過去をずっと思い返している。遠い昔ではなく、ここ数日間に過ぎないものだが、どこかで掛け違いがあったのだと思い込んでいる。そうしている間は、これ以上酷くなる現実について考えないで済むからだ。


 だが、目の前の機械がそれを許さない。最期の力で男の腕を引っ掴む。弱っている筈だというのに恐ろしいほどの力で握り込まれて、腕の、そして指の軟骨同士が酷く擦れた。


「あの化け物を……お前の先輩だったものを、このままにはしておけないだろ……私も……お前も」


 腕を掴む圧力がしぼんでいく。男の体内に活力が急速に戻り始めていた。流れ出た分の血液が全て取り戻されたようにも感じられたし、上がり切った体温で豪雨のような汗をかいている。彼自身の膨らんだ血管が活力を伝えてくる。


 やがて目の前の機械が完全に停止した後、後には戦う前よりも活力に満ちた一人の男だけが残った。カバーに覆われたセンサの奥に、もう光も意思も感じられない。


 男はまず、逃げようと思った。昨日までずっとそういう男だったからだ。そして、彼に火をつけていたのは何時だって彼の先輩だった。彼は先輩に対して見放されることを極度に恐れていたし、そのためなら実際になんだってやってきた。


 しかし今、その先輩という人間は蒸発している。であれば、危険を冒して明後日死ぬよりも、明日死ぬにしろ穏やかな時を過ごしたいと考えた。少なくとも、昨日までであれば。


 けれども、注射された細菌や酵素は、ありとあらゆる健康状態を改善した。血流を改善し、腸内細菌を整え、規格に充填された緩衝材の淀みをクリーンアップした。


 体表の角質は更新され、ニューロンとそれにつながる神経系のダメージが独力では成し遂げられないほどに改善されている。


 視界がクリアだった。彼の瞳の汚れは波だと汗に紛れてどこかへと流れ去っていた。


 筋肉の疲れもそうだ。動くにも気分が良く、軽やかなのだ。


 そうして健康になった人間は、往々にして意欲がわく。


 先ほどまであれほど重たそうに見えたドレッド・チューブを軽々持ち上げると、彼は指定された位置へと移動する方法を考え始めた。


 近くにドレッド・チューブの乗っていた、中型の空飛ぶビークルが見える。そうだ、あれに乗ろう。そう男は考えて、ドレッド・チューブの規格コネクタを確認する。


 彼は期待していた。


 即物的な、目の前にあるモノを失わないことばかり考えていた男は、健康状態の改善により突拍子のない望みを一つ持ってしまった。


 望みというのは、先輩に褒められることである。何らかの要因で正気を失った先輩を助けて、そして企業との確執も同時に改善する。本来なら疑ってかかるべき前提条件を、いともたやすくあっさりと受け入れ、酔いしれてしまったのだ。何故、どうやってが抜け落ちた願望を。


 踏み出した靴の裏に、ガラス片が擦れて砕ける揺れが伝わった。

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