赤い馬 Vol.3

「なんだってんだ!死にぞこないやがって!」


 風切り音というには大きすぎる音が、真っ赤な閃光に遅れてドレッド・チューブの目の前を掠めていく。恐怖による後退りが無ければ解体作業は既に完了していたことだろう。感情が役に立つときは案外素早く来たようだ。


 それでは止まらない。この世の物理学からまるで独立したかのように見える赤い怪物は、醜く縦横無尽に肉体を伸ばして機械の身体を破壊しようと跳ね回っている。


 女の人間だった頃の肉体が、無理な動きによって破壊されていくそばから、皮をむくように、かぶれていくように、次から次へと赤い腫瘍が膨らみ始めている。後ろ脚はもう五本に増えていて、同じころ前足と後ろ脚の境目は限りなく薄くなっていった。尖った爪を持たないのにも関わらず、ただの膂力でセラミックスをひっかき、握り、掘削しながら、空間跳躍移動を繰り返すドレッド・チューブに追いすがる。


 窓が次々と割れていく。建物の内側と外側を高速で点滅するドレッド・チューブに対して、ただの反復横跳びで同じ位相へと跳躍するからだ。


 余波で砕け散っていく照明機材。それぞれの強化アクリルが大きな破片になって空を飛んでいる。瓶がもう一度舞い上がった。


 左右、光の筋が走って、そのすぐ後ろにぴったりと赤い肉塊が滑っていく。


 ドレッド・チューブの胸中には数多ものクエスチョン・マークが飛び交っていた。


 奪われたインプラントにこのような効果はなかったはずだ。


 今目の前で暴れまわっている化け物が女の延長線上にある生命体であるとして、何故一度死にかけてからこのような姿になったのかがわからないのだ。


 この状態をインプラントによって制御できるのであれば(つまり技術的な仕様による現象なのであれば)、最初からこの出力を振り回しておけばよかったのに。


 撤退する考えが頭をよぎる。このままずっとここで時間を稼ぎ続けても、自分が助かる展望は見えてこない。援軍は期待できないのだ。


 盗品をこうして微かな手勢のみ連れて取り返しに来たのも、そもそも失敗責任を厭う思惑があってのことだった。つまり、秘匿作戦である。


 そして、秘匿作戦であらねばらならない。


 脳裏のインプラントが発熱していく。最大解像度での最速、最多手数を求める敵行動予測は常に更新されていく──未来と過去を同時に見通すとまで言われたE.Mechanicの演算システムが、たった一人の女(厳密には、そうだったもの)の軌道を補足することが出来ていない。


 未来予知だけでは飽き足らず、過去復元機能ですら「更新」を挟む様は、彼女の常識のうちにおいて異様という他に無かった。


 戦闘行為が続く。続くにつれて、女だったものの動きは文字通り「更新」され続けていく。


 一体どこにそのような出力を確保する機能を隠し持っているのか、肉体を常に膨らませ続けながら、比例するようにして速度が上がる。


 内、外、内、外。空間の枷は既に両者を捕らえていない。降りしきる瓦礫の中を縫うように走る閃光、地面は一瞬のうちに無数に踏みしだかれて、不規則な足型が量産されていく。


 怪物によって、無音の触腕が振るわれた。大気の流体としての動作が限界を迎えて、凝り固まったゲルじみた塊を伴いながら、惑星図めいた軌道を描く。


 対するドレッド・チューブは限界を迎えた予測演算を切り捨てた。


 防御行動に専念する。駆け引き、反撃を考えない。差し合いはこの速度では行えない。


 迫る、迫る。触手が迫る。触手というには硬すぎる。E.Mechanicの軌道エレベーターを編み上げた炭素の硬線でさえも、ここまでの頑健さは持たなかったであろう。


 着弾直前、抱えるような態勢で自らの頭を守る。展開する不可視の障壁に、腕部に仕込まれた衝撃吸収システム。全身の動力伝達機器がロックし、インパクトの瞬間に備える。


 そんなものは役に立たない。


 障壁は完全に切断された。振り回される触手の運動エネルギーは常軌を逸していて、一瞬受け止めただけで発生装置の保証圏外負荷を超える力積を発生させたのだ。


 減速のそぶりを見せない。機械は頭を守っている。関節のロックも意味を持たなかった。


 触手が遂に頭部へと辿り着く直前に、慣性を完全に無視した軌道を描いて腹部へと吸われていく。この世界で最も高い品質一歩手前の装甲がいともたやすく分離されていき、元からそうであったかのように機械は二つに増えた。腹部で両断されたのだ。


 勢いが遅れて伝播し、横っ面を地面に叩きつけるようにして倒れ込む。腰から下は遥か遠くに吹っ飛んでいき、そこでようやくドレッド・チューブは自らの置かれた状況を認識した。


 遅れて、空気が叩かれた破裂音が辺りの静寂を破壊した。


 時間の密度がほどけていく。まるで普通の動物かのようにみじろぎした女だったものは、ガラスの破片や蹴り飛ばされた瓦礫が地面に落ち始めても、しばらくはあたりをちろちろと見回していた。


 やがてそうした、重力に従った落下が終わって辺りに動くものが無くなった時、満足そうにかぶりを振って歩き始めた。

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