『違和』②


『今週のDDAニュースのお時間です。それではまののキャスター、お願いします』


 渚は弾かれたように顔を上げ、音の出どころを探した。今まで意識の外にあったテレビの音が、その時だけ音量を倍にしたかのように響いた。男性アナウンサーの声掛けでポップな音楽とポップなフォントとともに画面が切り替わる。


『ハーイ! アナウンサーの真野乃です! 私は今、DDA本部の入口前にいまーす!』

 

 軽快な女性アナウンサーの声に、渚も、両親二人とも、つられて顔をテレビへ向けていた。

 テレビの中では、明るい笑顔を見せる女性が、大きなビルの前で元気よく手を振っている。女性はマイクを片手にそのビルを指し示し、用意された原稿を読み始めた。

 

 ――それでは、今日のDDAニュースをお伝えします。

 ――DDAの特務部隊第一班は、東京都台東区第五十八孤洞での作戦を終了しました。周辺市民への緊急避難指示は、昨日午後6時をもって解除されました。

 

 アナウンサーの声は滑らかに響く。渚には、それがまるで遠い夢の中の出来事のように感じられた。ニュースの内容が、どこか異様に思えた。

 それでも、彼女が話す言葉一つひとつが、なぜか自然に渚の中に染み込んでいく。知らないはずの世界の情報が、渚にとって奇妙に馴染んでいる感覚がある。


 ――当局によると、一般市民への被害は現在確認中であり、現時点での被害は確認されていないとの事です。一か月前に起きた第五十三弧洞作戦後、初の中規模孤洞を対象とした作戦であり、DDAにとって重要な回復の一歩となりました。しかし依然として世論からは厳しい意見があり、今回の特務機関側の被害状況についても未発表のままです。

 

 心の中に膨れ上がっていく違和感。それが思考を鈍らせ、渚を一層混乱させる。


 ――次は「発生危険度推定値」のお知らせです。DDA本部は新たな弧洞の発生に関する情報を提供しています。

 ――科学研究部によると、神奈川県館浜市に新たな弧洞の出現可能性が高まっているとのことです。DDA本部は市民に対して冷静な対応を呼びかけるとともに、各市町村へ弧洞の発生に備えた避難計画の確認を促しています。長和主席研究部長は……。

 ――本日、大手株式会社アマガホールディングスは、DDA研究開発部門と、正式に提携を結ぶことを発表しました。この提携により、DDAは天賀財団の最先端技術と資源を活用し、天災への対応能力を大幅に強化することが期待され……。


「……ぎさ、渚!」

 

 急に声をかけられ、渚は短く息を吸い込んだ。

 母親が心配そうな顔で渚を見つめている。その姿に、渚の心のしこりがぐっと押された。


「本当にぼうっとして。明日から機関に行くんじゃないの?」

「きかん?」

 

 母親は眉尻をさげた。その顔は少し青ざめている。

 

「特別休暇、今日で終わりって言っていたでしょう」

 

 特別休暇。また知らない単語が飛び出した。だが、まるで自分がずっと知っていたかのように、それが自然に渚の頭に入り込む。

 父親がテレビを消した。アナウンサーの柔らかな声が余韻を残しながら消えていく。しんと静まり返った食卓。茶碗に盛られた白米がふっくらと白く輝いている。ゆっくりと立ち上る湯気に、渚はぼんやりと視線を落とした。

 

「もう少し延ばして貰うことできないの?」母親の心配はやぶを突いたようにざわめいた。「それに……、ねえ。この間の任務で分かったと思うけど、やっぱりオペレーターになるのは、あなたの能力じゃ無理なのよ。C級の界律かいりつ能力なんだから」

「――かっ、……」

 

 勝手なことを言わないで――そう言いかけた言葉が喉元で詰まった。違う、これは自分の意思じゃない。この身体の主が、渚ではない渚が、そう言いたかったのだろうか。

 界律能力。その言葉も知っている。不思議な力、異能の力。限られた人間が持つ、『天災』への対抗手段。

 

「前の前の時だって大怪我で帰ってきて、お母さん、心配しているの。怪我の後遺症だって、まだ完全に分かってないってお医者さんも言ってたじゃない。それなのにまた弧洞に入るなんて。ご飯も食べないで部屋に籠もる渚なんて、もう見ていたくないの」

 

 母親の声はどこか震えていた。言葉の端々から溢れ出た心配が、空気をさらに重くする。「心配している」――その言葉に渚の胸が締め付けられる。自分の親が、自分を心配している。長年縫い付けられていた傷口の糸が急に緩み始め、無理矢理引きずり出されようとしている。

 渚はその場にいるのが居たたまれなくなって、口元を引き結んだ。


「お母さんも、お父さんも、渚のことが心配なのに、どうして分かってくれないの?」


 抑えきれない焦りと心配がその奥底に潜んでいるのが感じ取れた。渚は、心の奥に重く沈んでいく感覚を覚えながら、湯気を立てている茶碗を手に取った。


 『心配している』なんて言葉を、一度も言われたことがない――。

 

「……わ、わかって、る」


 それが精一杯だった。

 自分の言葉ではなく、どこか遠い場所から出てくるような感覚。現実が夢のようで、夢が現実のようで――どちらか確かめたいのに、その術はない。渚は目の前の白米をほんの少し口へと運んだ。

 甘くて、温かい。この味は知らない。初めて感じた温かい白米が、余計に渚を異物たらしめている。


 母親は、さらに何か言いかけたようだったが、結局その言葉をのみ込み、静かにため息をついた。

 残りのごはんは、もう喉を通りそうにない。だが残したら、またあの顔をさせてしまうだろうか。渚は通らない喉に無理やり朝食を押し込んだ。


「……ご、ごちそうさま」

「もういいのか?」

 口を閉ざしていた父親が言った。

「うん」


 渚は立ち上がった。食器をキッチンの流しへ入れて、食卓の重苦しい空気から逃げるように、早足で階段を上った。二人の視線が背中に刺さるのを感じながらも、振り返ることはできなかった。


 部屋に入ると、渚はゆっくりとドアを閉めた。静寂が包み込む中、彼女は自分のベッドに腰を下ろし、膝を抱え込む。深く息をつきながら、部屋の窓越しに見える薄暗い空をぼんやりと眺めた。


「ここは……どこなの? どうなってるの……」

 

 空は青い。それは変わらない。しかしその下に群れをなす建物は、渚がかつて暮らしていた日本の景色とは似て非なる。

 まだ完全には現実を飲み込めていない自分がいた。目の前の光景は、確かに彼女が知っている日本ではない。近未来的な建物が立ち並ぶこの世界は、まるでSF映画の中に迷い込んだようだ。


 ――会えるなんて、思ってもみなかった。


 ずっと逢いたいと願ってきたころの自分はもういないはずなのに。窓の外を眺めながら、渚はそう思った。

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