『違和』③

 状況を整理し直す必要がある。渚は再び深く息を吐き、机に向かって座った。

 

 自室の机、几帳面に置かれていたノートパソコンの上蓋を開く。薄くて軽いパソコンだ。大学生だった渚には金銭的な余裕もなくて、いつも大学にある共用のパソコンを使っていたというのに。ここの渚には自分用のパソコンがある。

 

 パソコンを起動してインターネットを開いた。キーボードを打ちながら、何かこの世界について情報を得られないかと検索をかける。

 画面に映し出されたのは、知るはずもないニュースや、見慣れない用語の数々。それは先程と同じく、聞き覚えがないが、見覚えのある言葉だった。


『特務機関からのお知らせ――発生危険度推定値を更新しました――』

『天災から身を守るための鉄則』

『弧洞は何が為に出現するのか――南東京大学教授へのインタビュー全文』

『大人気エージェントに迫る! その私生活は……!?』


 渚は勢いよくパソコンを閉じた。

 自分が本当に「別の世界」にいるのだと確信した瞬間、じわじわと侵食していた不安と恐怖が一気に爆発し、大波のように彼女を飲み込んだ。

 

「……私がいた世界じゃない」

 

 彼女は部屋を飛び出した。


「渚? どうしたの慌てて……!」


 階段を駆け降りてきた渚に、みつえが驚いた声をあげる。

 家を飛び出て、ひたすら走り続けた。息が切れることも気にせず、ただ無我夢中で足を動かした。周囲の景色が変わっていく。見知らぬ住宅街を抜け、次第に人々が増える中、彼女は立ち止まった。

 

 目の前には高層ビルが並んでいた。ビルに塡め込まれた巨大なスクリーンが、渚の視界に映る。そこで流れていたのは、炭酸飲料のCMだった。

 

『新発売は――爽快! スカッとレモンジンジャー味!』


 画面には明るい笑顔の男性が映る。

 彼は炎を纏いながら空中を駆け回り、豪快に缶を開けて炭酸を飲み干した。

 

 『この炭酸、俺の炎より強烈だぜ!』


 その手から激しい炎が噴き出した。炎をまとったまま空を駆け巡る。飛び上がって、手から炎……。

 彼は空中で勢いよく缶を開けた。レモンジンジャー味の炭酸を豪快に飲み干し、炎を消して地上へ軽やかに着地する。

 画面には「爽快感MAX!スカッとレモンジンジャー味!」の文字が浮かび上がった。

 

 周りの人々は、当たり前にCMを眺めている。


 「加賀知さん、相変らず派手な力だよねー。炭酸のが強烈ってナニ?」

 「ねー、ウケる。でも加賀知さんのあの炎、見るの好き!」


 渚の横を通った二人組の女性が、そんな会話を広げている。

 

「ファンタジーだ」


 信じられない。言い聞かせるように呟く。脳裏に母親の声が蘇った。

 

 ――C級の界律能力なんだから。

 

「界律能力……」

 

 周囲を見回して、人目を避けられる路地裏に入る。渚は自分の両手を見つめた。「もしかして」と、恐る恐る手を広げる。

 

 ――使いたい。


 ただそうするだけ。無意識にすり込まれた感覚。


「わ!」


 その力を使うことができると、渚は本能的に理解していた。

 ゆっくりと手の上に、水のしずくが球体となって現れる。それはほんのわずかな量でしかなかったが、ぷかぷかと浮かぶ水滴は地球の重力に逆らって浮かんでいた。


「すごい、なにこれ――う、痛いッ!」

 

 その瞬間渚の体が一気に悲鳴をあげた。

 喉が焼け付くような渇きに襲われ、思わずその水滴を握りつぶした。水は潰れて飛び散り、霧となってすぐに消え失せる。


 渇きは一向に収まらない。渚は急いでまた家に戻った。

 

 「今度はどうしたの?」と、声を掛けてきた母親を無視し、急いで部屋に入る。


 渚はなりふりかまわず、ベッドサイドに置いてあったペットボトルの水を勢いよく飲み干した。


「はっ、は、は、ひゅ――はぁっ! な、なんなの、これ!」


 渚は荒い呼吸を止められず、膝から床に崩れ落ちた。

 

 自分の手から現れた水。

 紛れもない、本当に自分の力。有り得ないと思いつつ、有り得ると認識している。その解離が渚を蝕んでいる。


 渚はふらふらと立ち上がって窓の傍に立った。

 

 巨大スクリーンに映し出される特務隊員のCM。彼の手から燃え盛る炎。空を飛びながら豪快に飲み干す炭酸のシーン。

 ――炎はCGではないように見える。自然な炎だった。そしてそれをこの世界の人は、当たり前のように受け入れている。

 

「私、どこにいるの?」

 

 渚は呆然と呟いた。ふと、母親の言葉がまた頭に響いた。


 ――界律能力。


 渚は震える手を見つめた。天災、特務機関、異能……。あの本――『ろく』の中の世界と同じだ。


「『ろく』……」


 信じられない結論が渚の中で急に現実味を帯び始めた。

 まさか、本当に。自分はその世界に入り込んでいるのだろうか。


「ななせ。そうだ。七瀬、玲梓」

 

 無意識のうちに、渚の口からその名前がこぼれた。

 

 『ろく』の主人公、七瀬。彼は強い力を持ち、数々の危険な任務をこなしていた。そして最も重要なことは、七瀬が「ループ」をしていたことだ。彼は世界を救うために、何度も時間を巻き戻して戦っていた。

 

 七瀬の過去について、詳しい描写はなかったように思う。けれども彼は、高校生の頃に特務機関へとスカウトされたという情報は覚えている。


 渚は急いでパソコンを立ち上げた。

 七瀬の存在を確かめるために彼の名前を検索する。『ろく』の物語の中で、彼は数多の特務隊員の中でも人気が高かった。よくメディアにも取り上げられている描写もあったはず。検索すれば、名前くらいは出てくるだろうと思って。


「なんで出てこないの?」

 

 何度検索しても、結果はゼロ。

 ニュースにも特務機関のホームページにも、匿名の掲示板にも、どこにも七瀬の名前は出てこなかった。


「そんなはずない! 七瀬は確かに特務員として活躍していたはずなのに」


 渚は手を止めた。そしてふと、パソコンの右下に視線を向けた。

 日付は――2X05年6月13日。

 『ろく』の物語で出てきた年は2X07年、だったはず。記憶は朧気だった。

 

 ――もしかして、まだ七瀬が「ループ」を始める前?


 彼が時間を巻き戻すきっかけとなったのは「第二次大天災」。それは日本に甚大な被害をもたらした大きな天災であり、そこから『ろく』の世界は滅亡を始めた。

 その大災害がまだ起こっていないということは、この世界は前段階に在る。つまり、渚はその天災が起こる前の物語の中にいるのだ。


「もし、この世界が本当に『ろく』の世界なら……、第二次大天災がこれから起こってこと?」


 心臓が早鐘を打ち始めた。七瀬がループする前、まだ時間がある今なら、彼に何かを伝えられる? そうすれば。そうすれば――。


 その時、渚の試行を遮るように、机に置かれていた腕時計型のデバイスがぱっと光って振動した。画面に通知が浮かび上がっている。


『明日:特務機関へ復帰』


「さっき言われたのはこれのこと?」

 

 ――C級の特務隊員の命は砂よりも軽い。たしかそう『ろく』に書かれていた。


「……わたし、元の世界に戻れるの?」

 

 渚は震えた手で顔を覆った。自分の存在が揺らいでくようだった。物語が終われば、元の世界に戻れるのだろうか。渚がここにいて、一緒にいた柳瀬はどうなったのだろう。この身体の持ち主の渚は、どこへ行ってしまったのだろう。


 この世界の椎野渚がどのような存在なのか分からない。どうして渚はここへ来たのだろう。自分が本当に何者であるのかも、全くはっきりしない。

 

「まずは、明日。それから七瀬を探して……」


 渚は息を大きく吐いた。きっと七瀬はいる。渚はいると信じている。

 七瀬を見つけ、この世界で何が起こるのか確かめなければならない。もしこのまま放っておけば、あの大災害が再び訪れる。自分がこの世界にいる理由、それを知るためにも、まずは動くしかない。

 

 渚は複雑な感情を抱えながら、パソコンの画面を閉じた。

 


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