『違和』①
第二話『違和』
――ピ。
――ピピ。
――ピピピピ。
――ピピピピ、ピピピピ。
無機質に繰り返す音が、意識の外側で鳴っていた。どこか遠くから呼びかけるように、硬い音が鼓膜を揺らしている。
起きたくない。そう思えば思うほど、その機械音は強さを増していく。うぅ、と煩わしい音に反抗して渚は唸り声を上げた。
徐々に大きくなる音に意識が引っ張られる。ふわりと意識が浮遊していくのに対して全身は鉛を流し込んだかのように重たい。瞼を開くことも億劫だった。
起きたくない。うるさいな。
どこか身体が限界まで上がりきったかのように熱い。全身がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。
渚は身体を捻って音の発生源を手探りで探した。それはこの身体のすぐ横にあった。鳴っていたのはスマホの目覚まし機能だ。渚はくっついていた上瞼をぼんやりと薄く開いて、停止ボタンを連打する。
音が消えた。スマホは頭の上のほうに放り投げた。まだ起きたくなかったからだ。
「うう……、う、んぅ……」
目覚めから逃げるように身体を丸める。柔らかい布団を引き寄せたところで、その手触りに違和感を感じた。
――渚、そ……、おき……い!
遠くから幻聴が聞こえる。渚はまた布団を手繰り寄せて、布団の柔らかさにまた違和感を覚えた。マシュマロみたいにふわふわ。鼻腔をくすぐる清涼で甘い香り。
――なぎ……、あ……ごはん、でき……よ!
「んぇ……?」
甘い香りの次に感じたのは香ばしい匂いだった。焼きたてのパン。いい匂いだ。意識の中でまた違和感が膨らんだ。なぜパンの匂いがするのだろう。その匂いは渚の嗅覚だけではなく、意識をも刺激した。
「はやく起きなさぁい!」
渚は布団をはね飛ばして起き上がった。ひゅ、っと心臓が掴まれたように喉が鳴る。
まず目の前の壁――シミもないましろい漆喰の壁紙。
右側の窓――薄水色のカーテンの間から明るい光が差している。
左側の家具――見知らぬ白い簡素なデスク。ワーキングチェア。本。いくつかのぬいぐるみ。水色を基調として落ち着いた部屋。
「――どこ、ここ」
渚の身体はきゅっと固まった。見覚えのない部屋だった。恐ろしく脈打つ心臓を落ち着かせるように、胸元の服を握りしめる。
見知らぬ机の上に写真立てが置いてあるのが目に付いた。
「何、この写真」
三人の人間が映っていた。満面の笑みで幸せそうに笑っている。
これは家族写真だと渚の脳が判断した。有り得ない。嘘だ。見知らぬ部屋で目を覚ましたことより、1つの写真の存在のほうがひどく異質だった。
渚は毎日、その写真の中で並ぶ男女に中身のない言葉をかけて手を合せてきた。真ん中にいる渚は、高校の制服のようなものを着ている。
制服を着て二人と一緒に写真を撮ったことなど一度もなかった。渚にはもう二人に関する記憶も残っていない。笑った顔も、怒った顔も、ひとつとして覚えていなかった。
だからそう有り得ないのだ。微笑む二人の間に、高校の制服を着た渚が立っているなど、有り得ないはずなのだ。息苦しい。寝起きのせいなのか、この現象のせいなのか、まだ思考がぼんやりとしていた。震える手を伸ばして写真立てに手を伸ばす。
こんこん。
その時、閉じられていた部屋の扉を誰かがノックした。
「なぎさー! まだ起きていないの?」
聞き覚えのない綺麗な女性の声。張りのあるその声とともに部屋の扉が開け放たれる。
「あら! 起きてたなら返事……、どうしたの?」
部屋へと入ってきたのは写真立ての中にいる女性だった。渚が毎日見ていたあの人よりも、顔に小じわが目立って見えた。
「まったく、寝ぼけてるの? 朝ごはんもうできてるから、はやく来なさい」
そのひとの顔を見た瞬間、渚の心臓は内側で変に飛び跳ねた。渚が唖然としていれば、その人はほんの一瞬だけ怪訝そうな顔をした。「もう、いつまでたっても子どものままね」女性は扉を半分開けたまま、返事も聞かずに行ってしまう。
誰かが階段を降りていく音。朝のニュースを読みあげるアナウンサーの声。涼やかな鳥の囀り。ユラユラとはためくカーテン。魚を焼く芳ばしい香り。何もかも遠くに聞こえる中で、渚はもういちど、有り得ないはずの写真に目を向ける。
「――ぇ、お、おかあ、さん……?」
ベッドの上から身動きすらとれず、かすれた声がぽたりと布団の上に落ちた。
死んだはず人が、渚の母親の姿をした誰かが、いま、目の前に立っていたのだ。
◆◇◆
椎野みつえと椎野豊は渚の生みの親である。
渚に二人の記憶はほぼなかった。彼らが交通事故で亡くなる前まで一緒に暮らしていた時の記憶を、渚はどこか遠くに落としてきてしまったからだ。
「私の部屋……」
一度状況を整理する必要がある。
渚はベッドから立ち上がった。自分の身体では無いはずなのに自分の身体よりも軽く、どことなく調子も良い。
部屋を出るとすぐに下の階へと続く階段があった。渚はゆっくりとその一段一段を踏みしめた。階段はしっかりとしていて、築数年の新しくも使い慣らした音がする。
階段を降りるごとに暖かな匂いが強くなった。トントントン、と軽快な音も聞こえる。他人の生活音が聞こえる。ただ階段を降りているだけであるというのに、渚の心臓は下に向かうにつれて早鐘を打った。
階段を降りきった先は、キッチンとダイニングに繋がっていた。リビングルームもあって、壁際に置かれたテレビからはアナウンサーが淡々とニュースを読み上げている。
うつくしい家の内装をぼんやり眺めていると、背後から「おはよう、渚」と声をかけられた。言い慣れた言葉をそのまま口に出したような、低くも落ち着いた口調だった。スーツ姿の男が渚の横を通り過ぎて、手にしていたパンの載る皿をダイニングテーブルに置いた。
「渚、これも運んでちょうだい」
母親の姿をした女性がキッチンの奥からそう声をかけた。お盆に味噌汁を載せながら、父親の姿をした男性が、「どうしたんだい?」と少しだけ心配を滲ませて言った。渚が立ち尽くしていることを、不信に思ったのだろう。
渚の全身は痺れたように動かなくなった。
気づけばただ指示された通りに動作するロボットのように、言われるがまま動く身体が、渡された皿をテーブルの上に並べていた。
母親がエプロンの裾で手を拭きながらやってきて、彼らはそれぞれの席に座る。油が切れた機械ように、渚は箸が置かれた席に座った。向かい側の二人は、ごく当たり前のように朝食を食べ始めている。
渚は太腿の上に置いた手を、ゆるりと机の上まで持ち上げた。目の前に、パンと味噌汁。野菜サラダ。自分の前に並べられた朝ごはんを眺めて、ちらりと二人の姿を順番に見る。恐る恐るお椀を触ってみると、握れる程度の温かさが指先に染みた。それは夢ではないと分からせる温度だった。
「今日はどうしたの」
いつまでも動かない渚に、母親が言った。
「具合が悪いの?」
「顔色も良くないな。何か、あったのか?」
「い、……」
歯切れの悪い返事に、二人は顔を見合わせた。
渚は、ひどく混乱していた。先程までのあの揺さぶられる感覚に、まだ頭の中をかき混ぜられているみたいだった。
俯いていた顔を上げると、箸を止めて、眉を下げて、渚を見つめる二つの顔がある。渚の中で居た堪れない気持ちがさらに膨れ上がった。この場にいることにも耐えられないが、それ以上に、二人が心配そうな顔で渚を見ているという光景に、心が締め付けられる。
――何か、言わないと。何か。
言いようもない感情が膨れ上がって、頭の中が燃えるように熱い。止められない衝動が目から零れ落ちそうだ。渚はグッと下唇の裏を噛んだ。
「渚、やっぱり病院に行った方がいいんじゃない?」
「びょ、病院?」
渚は素っ頓狂な声をあげた。もしかして、自分が
「だってほら、この前、大怪我したじゃない――、あの
「こ、え? こどう……?」
「あそこで何かあったんでしょう? お休みだってもらってきて。何も話してくれないんじゃ、私たちもわからないわ」
「そうだぞ、渚。俺達は力になってやりたいんだ」
「いつも怪我してばっかりで。何かあるなら、もう無理しないで機関も辞めた方が良いんじゃないの」
――何を言っているのだろう。
頭の中に何かがひっかかった。「こどう」という言葉。その言葉を渚は知っている。聞き覚えがあるのではない。見覚えがある。心臓の動きを表す言葉でも、古い道でもなかった。けれども、渚はその言葉を、つい最近見た覚えがあった。
あれはそう、「弧洞」と書かれていた。
渚の思考が、自然と、その言葉に漢字を当てはめた。
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