『ろく』③
*
じじじ。
みーん、みーん。じじ。
『――世界各国で発生している黒い霧の正体は未だ解明されていません。国連はこの状況について綿密に協議を――地域住民の安全確保に向けた対応が――……』
「なぎちゃーん。これそっち持って行ってくれるかしらぁ」
「はぁーい」
生花を入れたバケツを持ち上げながら、渚は店の奥から聞こえる声に返事を返し、腰をトントン叩いて凝り固まった上体を起こした。
黒い霧。
その言葉を耳で拾って、渚はふと、あの本のことを思い出す。黒い霧が出たというニュースは、世情に疎い渚でも一度は聞いたことのある時事問題だった。
黒い霧は、世界各国で現れては消えていく謎の怪奇現象だった。
最初に確認されてから一、二週間ほどだろうか。人間に害はないというが、果たして人間や環境に本当に害がないのかもいまだ不明だ。
それこそ世界の不思議や怪奇現象を見つけるバラエティ番組で取り上げられそうなテーマだが、発生した地域では、人々が正体不明の霧への恐怖と不安を膨らませているらしい。
人は不思議な現象が好きなのだろう。日々その話題がメインニュースのひとつになっている。
けれども黒い霧は、ここ日本ではいまだ確認されていない。
そのこともあってか、渚はとても自分のことのようには思えなかったし、興味もなかった。
――あの本にも、黒い霧って現象が出ていたっけ。でもあれはファンタジー小説だし、偶然だよね。
世界のどこかで起きている怪奇現象よりも、渚にとっては、自分の生活の方が大事だった。
「ごめんねぇ、重たいものばかり持たせちゃって」
「何言ってるんですか。これくらい」
パタ、パタと、ゆっくり聞こえてくるスリッパの音に合わせて、「ありがとうねぇ」と朗らかな声がする。
「柳瀬さん、こっちの花は?」
「それは右側の方がいいかしら」
「はぁい」
『次のニュースです。天賀財閥による裏金問題が表面化しています。国際市場でも名高い天賀コーポレーションおよび複数の関連会社において、裏金による不正取引や汚職の疑いが浮上したことにより、今日午後14時、警視庁は天賀コーポレーション代表取締役の――』
バケツを持ち上げると、大輪の向日葵が揺れ動いた。夏だ、と心の中で呟いて汗を拭う。花屋には似合わない店先の風鈴は、風のない暑さに揺れることすら忘れている。
「ひゃっ!」
「ふふ」
ぴと、と頬に冷たさを感じて、渚は飛び退いた。この店の店長である柳瀬が、渚の頬に冷えたグラスを当てて、その丸い頬をにこやかに揺らした。
「麦茶。暑いからねぇ」
ありがとうございます、と受け取って、二人は店の中程にある椅子へ腰掛ける。
あの謎の本を得てから、一週間が経った。
いまだすっきりしない気持ちもある。たまに本を手に取って、最後の結末だけを見た。数え切れないループを重ねた主人公は、何度読んでもループを終わらせられていないようだったし、彼の仲間は死に、さんざんな結果だ。
一週間は、渚を本の中の非日常から日常へと戻すには充分な時間だった。あの存在はひっそりと渚の部屋の隅に、渚の頭の片隅に追いやられて、気になりはするけれども、もうそれほど気にしてはいなかった。
「この後はまた違うお仕事かい?」
「あー、はい。夜まで」
夜中まで、とは言わずに、渚はコップの縁に口をつける。
「もっと稼がせてあげれたらいいのだけどねぇ。お金も……、なぎちゃん、ね、もうウチのお店は手伝わなくても」
みんみん。じー。じじ。
みーん。みーん。
「あっ! あのラナンキュラス、元気なくなっちゃってます!」
「ラナンキュラス? あら、切り方が良くなかったのかしら」
「少しだけ水切りした方がいいでしょうか?」
「そうねえ」
失礼な変な切り方だった。無理やり話を遮ったことに気づかれているだろう。それでも朗らかに微笑む姿を見ない振りして、渚はぼってりと重い花弁を支えるラナンキュラスの花桶に視線を向けた。
みーん。みーん。
じじ、じじじ、ジジ。
「なんだか今日は、蝉がうるさいですね」
「セミかい?」
ジジジジジ。
訝しげな反応だった。渚は茎に添えた手を止めて視線を戻した。柳瀬は眉の端を落として渚のことを見ている。
ジジジジジ。
「え、だってこんなに鳴いているじゃないです、か……」
暑く燃える外を見遣る。そして渚はぐっと息を止めた。
黒い霧が、青い空を覆っていた。
それはまるで大きな目のようで、ぐるりとした黒い眼が地上を見下ろしていた。
「なぎちゃん、どうしたの?」
呆然と立ち竦む渚の視線を追って、柳瀬も空を見上げた。
「もしかして、熱中症かしら? ね、今日はもういいからね、具合悪い時は休んでいいのよ」
「え、……あ、あれ、見えてないんですか?」
「あれって何のこと?」
見えてないのか。
渚は自分の目を擦った。瞬きを繰り返してもう一度空を見上げる。
「み……見間違いだったみたいです」
「本当に大丈夫?」
巨大な黒い霧が、薄雲のように空を覆っていた。ごくりと唾を飲み込むと、渇いた喉が引き攣る。やはり熱中症なのかもしれない。熱中症で、意識がもうろうとしているのかも。
黒い霧に睨まれて、全身は金縛りにあったかのように動かなかった。
ジジ。ジジジジ。
「ひっ!」
店の前の横断歩道で信号待ちをしていた男性が、上を見上げて小さな悲鳴を上げた。その視線についられて手元のスマホから顔を上げた周囲の人が、何もない青空に眉を顰める。そして青白い顔をした男性に変人のレッテルを付けると、また手元のスマホに顔を落とした。
見えているんだ。
渚は気付いた。あのひとには見えている。
「どうしたのかしら」柳瀬が首をかしげた。
「――きっと、みちゃいけないもの、みちゃったの」
いよいよおかしいと思ったのか、柳瀬が心配そうに渚の顔を覗きこむ。
「本当に大丈夫? 具合が悪いの?」
「だい、だいじょう……でも、あの。そら、空が」
「空?」
柳瀬に、「あの彼と同じものが見えている」と、伝える余裕もなかった。伝えたかったのに、伝えられなかった。
耳の中でずっと、壊れたラジオが鳴り続いているように、蝉が鳴き続けているように、五月蠅くてしかたがなかった。ジジ、ジジジ。ぐわんぐわん。みーん。みーん。
周りの景色が揺れているのか、自分の身体が揺れているのかも分からない。足がふやけて浮いている。顔を上げればあの黒い瞳に見下ろされている。何かに監視されているような圧迫感と痛みに頭がおかしくなってしまいそうだ。
渚は頭をかかえて蹲った。次第に、誰かの叫び声が聞こえた。悲鳴も聞こえた。
誰かが言った。黒い霧が見下ろしていると。渚は、そうだ、それだよ、と心の中で返した。
誰かが言った。あの黒い瞳から何かが落ちてくると。黒い何か。雨のような。煙のような。黒い何かが世界を覆った。
渚は、そうなんだ、と心の中で返した。
頭を抱えて蹲る渚を覆うように、柳瀬が渚の背中をさすった。
さすっていたが、その腕は震えながら渚を抱き締めるような形になった。なぜそんなことをするのか、ぐっとかたく目を閉じていた渚は、自分のことに精一杯で気がつかなかった。
『――黒い霧が見下ろしたあと、赤い空が世界を囲む。血のあめが涙のように降った。全部、全部を洗い流していく。それが、この世界の終わりだった』
あの小説の一節が、ふと鮮明に浮かんだ。一番最後の言葉。あの小説の結末――。
ああ、と。
力のない柳瀬の声が頭上から落ちてくる。あぁ。自ら声を出したのではなくて、諦念と驚愕から押し出された音だった。
「なに、かしら、あれ」
渚は固く閉じていた目をゆっくり開いた。
空は真っ赤に染まっていた。夕焼けの色ではなかった。それは血のような、赤黒い色をしていた。
赤い空の中に漂う黒い霧の、そまたさらに中央から、ゆっくりと、雨粒のように、何かが地面へ落ちてくる。まるで涙みたいだと渚は思った。
涙は空と同じように赤黒く、世界の全てを真っ赤に染めた。地面も、木々も、建物の壁も、外に立つ人間の頭から足先まで。
ざぁっと全てを洗い流すように。
店の中に充満した花の匂いにクラクラとして、相変らず耳の中では不快な耳鳴りが鳴り響いて止まらない。
「なぎちゃん……!」
渚にしがみつく柳瀬の腕は震えていた。ぎゅっと力を入れて抱き締められる。
その次の瞬間、地面が揺れた。真っ赤な世界が二重三重にかさなった。
いくら日本人が地震になれたとはいえ、それは、地震というレベルを超えていた。
地球はスーパーボールて、渚達はその中に詰め込まれたゴムの繊維だ。それは勢いよく床に打ち付けられて、跳ね飛んで、どこかに落としてぶつけられたかのような音だった。
落とされて、跳ねて、またぶつかる。落とされて、跳ねて、転がされる。ぐわんぐわん。じじじじ。みーん。みーん。きーん。耳鳴りが最高潮に達した。
頭をグチャグチャにかき混ぜられる。気持ちが悪い。自分の意識や感覚もグチャグチャだ。
やめて。やめてよ。もう――!
ぷつ。どこかで音が鳴る。ろうそくの火をけしたみたいに、渚の意識はそこで消えた。
店の花の香りだけが、どこかで漂っていた。
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