『ろく』②
「え?」
その傷跡が玄関の青白い光を浴びて鋭く光った。渚は指先から滴る水気もそのままに、巾着から黒い本を掴み上げる。
「ろく……?」
ろく。六。録。ろく?
本のタイトルにしては簡潔で、一体どのような内容の本であるかも不明だ。たいていの場合そのタイトルを見れば、その本がどのようなものであるか分かるだろう。分からなくても推測する余地が生まれるものだ。
たった二文字。
表紙の上側中央に刻まれた『ろく』の文字だけが鈍く光る。その他の情報は何もない。著者や出版社の名前も、背表紙にも、裏表紙にも。
玄関の自動点灯ライトが、動きを止めた渚を見捨てて自動で消える。渚は背筋を走る寒気に肩を震わせた。
「はっ、――くしっ!」
ぱち、と電気が慌ててついた。どこかに漂う気味の悪さだけではなくて、玄関の隙間風が、濡れた身体に沁みる。渚はまたもう一度込み上げてきたくしゃみを堪えて、自分が濡れ鼠だった事を思い出した。
鞄から水気を振り落とし、フローリングを踏む前に靴下を脱ぎ捨て、つま先立ちで床に足をおろす。パタリと落ちていく水滴もそのままに、湿った指先を延ばして、渚は自分を迎え入れた静寂に灯りをつけた。
濡れた身体と髪をぬぐって着替え終えた頃、渚は机の上に放ったままの本の前に座った。簡易な丸テーブルの上に置かれたボロボロの本は、無機質な部屋には異物のようだった。
本に手を伸ばそうとして、あ、と止まる。渚は壁際に置かれた棚の前に座った。いつもは忘れないけれども、今日は不思議な事があったから。
渚は軽くお鈴をならし、静かに手を合わせる。
「今日は居酒屋のバイトしてきたんだ。それからね、これは報告なんだけど……、来年からの就職先? が、決まったよ。なんと大手! 朝霞電子って知ってるでしょ。そこの内定貰ったの。そしたら花屋のおじさんとおばさんもお祝いしてくれて。明日からシフトも増やしたいってお願いしたんだ」
渚は写真立ての横に置かれた花を見た。老夫婦が営んでいる花屋は、渚が三年前からお世話になっているアルバイト先のひとつだ。
ガーベラは大学の進級祝いのプレゼントで――大学生にもなって進級祝いは恥ずかしいけれど――桃色の花弁は渚の部屋に優しさと安堵を与えてくれるようだった。
渚は棚の上に置かれた二人の男女の笑顔をじっと見つめた。目を閉じて、その二人が、自分に笑いかけている姿を思い浮かべる。
――どうしたって、そんな姿は思い描けない。彼らが渚に置いていったものはあの笑顔とは程遠いものだ。なぜなら、彼らは渚を捨てたのだから。
渚はそっと目を開いた。一人暮らしの部屋はシンと静まりかえっていた。
人の気配がない部屋に、鳴らした鈴が永延と鳴り響いている。ひどく、今ここにいる自分という存在が、不思議に感じてならなかった。
「……あとね、変な人から変な本渡されたんだ。宗教勧誘かなぁ。でもこんな雨の日に宗教勧誘なんて、あの人も苦労してるよね。すごい切羽詰まってたし」
身体を捻って背後のテーブルから本を取る。
本は硬くいい手触りとは言えない。どこかで水に濡れたのか、僅かに古ぼけた特有の臭いもする。横から見た中の紙はヨレヨレに波打っていた。
年代ものかな。聖書とか。歴史本とか。貴重なものなら、売ったらお金になるのかも。
「宗教なら面白そうだけど!」
渚はゆっくりと表紙をめくった。
『■■■■■■』
初っ端。そこに書かれていたのは、ペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされた文字だった。
渚は頬を引きつらせた。真白とはいえない薄汚れた紙の中央に、一行だけ、何かが書かれていたのだろう。斜めの線が細かく下へ向かって往復している。
ひとまず、次のページを捲った。
次のページからは、渚のよく知る日本語が書かれていた。
『――彼はこれが五回目だと気づいたその時、自分の腕の中に重みを感じた。その重みを感じるのも、また五回目だった』
「ん、んん?」
渚は首を傾けた。
『腕の中で感じる重さは、力もなくだらりとしていた。一回目、彼はその人のことをあまり知らなかったが、五回目になると、少しだけ分かるようになっていた。後から調べたこともあった。その女は、自分の部下の部下として、昨日からチームに加わったばかりだった。
来てすぐにこんな状況になるなんて、運が悪いとしか言えない。彼はそう思いながら、何とも言えない気持ちになった。
「おい! ボケっとしてないで早く来い!」
「……うるさいな。わかってる」
隣で部下が怒る。その部下は上司である彼に対して、5回目になっても態度が変わらない。いつも通り、上司を上司として見ていない言い方だ』
「なにこれ、物語?」
『20X7年。
この星は数多もの災害に見舞われてきた。戦争、飢え、大きな地震、津波、海がどんどん高くなって、森が火事で燃えてしまうこともあった。けれども今、この星は次なる厄災に襲われている。
今、目の前には、真っ黒な霧が広がっていた。そう。これが今、この世界で一番の問題だった。
その黒い霧が最初に現れたのは10年前のこと。そして、その霧の中から恐ろしい怪物が出てきたのは、5年前のことだ。怪物はこの星を壊し、生き物を意味もなく襲った。皆が、死ぬことを怖がった。もしこの世界を見守る存在がいるとしたら、彼らはすでに、この場所を見捨ててしまったのだろう』
「SF? ファンタジー? それにしてもなんか……」
児童向けに思える。胡散臭さとぼろ雑巾のような見た目手に反して。
渚は気の赴くまま、小説を読み進めてみることにした。
けれどもその気持ちは砂粒をふるい落とすように、次第に変わっていった。いや、変えられてしまった。
――ジャンルは現代風のファンタジー。舞台は日本のような場所。未曽有の「天災」が訪れ、滅亡に向かう近未来の世界線。
主人公の「七瀬玲梓」が世界を救うために、次々と起こる「天災」を乗り越え、天災から現れる怪物を倒し、ひたすら、ただひたすらループを続ける話だった。
渚はじっと小説を読み進めた。
窓を叩く雨の音も、気づくまもなくしんと静まり返っていた。蛍光灯がぱちぱちと音を立てる静寂の中で、その本にだけ惹かれていた。渚はこの世界から切り離されて、物語の中へと入り込んだ心地になった。
何故だろう。不思議だった。
文章は拙く、場面は飛び飛び。視点もくるくる変わる。けれども続きが気になって仕方がない。
主人公の七瀬は、一言で言い表すと「イカれたやつ」だ。物語の中での彼の紹介もそうだった。それでいて掴みどころのない人。ともあれば、真面目で優しいとも描かれているが、物語では一貫して頭のキレる怖い人という共通認識を持たれている。
渚は七瀬の物語に惹き込まれた。彼の勇敢さと、未来を切り開こうとするその姿に。一気に本を読み進めた。どんな結末が来るのだろうか。七瀬がループから抜け出し、世界を救うハッピーエンドを想像した。
「え、お、終わり? これで!?」
――けれども、そこに想像した結末は訪れなかった。
それは酷いものだった。結局その世界は滅亡した、らしい。
七瀬や彼の仲間がどうなったのかも分からないまま、中途半端な終わり方だった。
「いやこれで終わりなの? 続きもないの?」
もしかしたら続きがあったのだろうか。敗れたページはない。
続刊があるのだろうか。渚はタイトルやそれらしい内容をスマホで調べた。けれども検索にヒットしない。
いい加減な結末に、何故か心が晴れない。一晩かけてもう一度読見直しても、結末は変わらなかった。
軽やかな鳥の鳴き声が聞こえてくる。
カーテンの隙間から白む空を見て、渚は自分が夜通し本を読んでいたことに気づいた。
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