『ろく』①

 第一話 『ろく』


 

 雨が降っていた。

 風に押し出された雨が、地面を穿つように降っていた。地面を蹴る勢いが水を散らして、あわただしい輪を飛ばしている。


 靴はスポンジのように水分を吸ってぐずぐずの状態だった。靴下まで濡れた足の感覚はただ不快で、今すぐにでも履き替えてしまいたかった。


 七月二十日、金曜日。夜の十時。渚はアルバイトを終えて、駅から家までの約十五分を急いでいた。


 突然降り出した夜雨は勢いを増して、折りたたみ傘は役割を放棄している。

 ごうごう唸る風と、ザアザア打ち付ける雨粒。大きくしなる庭木は腕のような影を伸ばしている。明かりの消えた家も多い。少し先に見える歩道の街灯は不規則に不気味な点滅を繰り返していて、今にも消えてしまいそうだ。


 もはや三年以上は通った道だった。普段と変わりのない道だというのに、今日はやけに不気味に感じる。渚は心なしか不安を感じながら、その下を通り抜ける。


 しかし不意に、何かが地面へと落ちた音がして、歩いてきた道を振り返った。


 点滅する街灯が地面を丸く照らしている。その円の中に、青色のパスケースが落ちていた。


 それは間違い無く自分の持ち物だ。

 

 渚はひどく嫌な気持ちになった。嫌な予感が、パスケースを拾うことを億劫にさせた。

 パスケースは水浸しだ。さらに嫌な気持ちになりながら、渚はパスケースを屈んで拾い上げた。


 そして起き上がろうとした時、ふいに道路の右側に目を向ける。

 

 ――目を、向けてしまった。


 そこには、塗りつぶしたかのような暗闇が広がっていた。


 ただその暗闇を見ただけで、暗闇の奥底から、何かが此方を見ているような気がしてならなかった。恐ろしさにまるっと飲み込まれてしまうような、身の竦む恐怖。何故か、暗闇から目が離せない。


 渚は屈んだ状態で、ごくりと喉を鳴らし、パスケースを掴んだ震える指先に力を入れた。


 パチ、パチ――パチチ。


 頭上の街灯が消えかけた音を鳴らしている。

 冷たい雨粒が頬をつたいシャツの襟の中に落ちた。止まっていた息を吸い込んで、小さく白い息が口から零れ出た。ザアザア波うつ雨の勢いは収らない。


 その冷たさが渚の意識を暗闇から逸らし、渚はいつのまにか傾けてしまっていた傘を持ち直した。

 

 早く帰りたい。

 

 そう足を街灯の外に踏み出そうとした時。重心が傾き、渚は強い力で右腕を後ろに引かれてたたらを踏んだ。


 誰かに強く掴まれた。あ、という声も出なかった。持っていた傘を地面に放り投げるまま、濡れた地面に勢い良く尻餅をつく。すぐに立ち上がって逃げようとしたのに、全身が金縛りにあったかのように動かない。

 

 その一瞬の出来事は、衝撃と恐怖の波で渚を覆った。大粒の雨が地面を叩き付け、恐怖に侵された視界は跳ねる水滴を見ていることしかできなかった。

 

 視界に黒い靴の先が入る。ボロボロの靴だ。


 渚はゆっくりと顔を上げる。

 

 黒いパンツ、黒いコートの裾。全身真っ黒で、頭にはフードを被った――人。小柄な人だ。男にしては背が低く、全体的に細身。渚と同じくらいの身長。フードと街灯の逆光で顔は見えなかった。

 

 渚は恐怖の中でもあることだけが気になった。


 傘を差していないのに、その人のコートにも、靴にも、水気がないのだ。

 

「これ」


 濡れて頬に張付いた髪をそのままに見上げていると、得体の知れない人はただ一言そう言った。声は、女のようにも、男のようにも聞こえた。

 

 これ、が何のことを言っているのか、渚は理解できなかった。


 その手に黒い巾着の袋を見るまでは。


「おねがい。これ、何も言わずにもらって!」


「――え?」


「いいからおねがいなの! もらって!」

 

 有無を言わせない勢いで、その人は渚のずぶ濡れの手の中に巾着を握らせた。それは硬くて重たかった。

  

 怖くて、寒くて、恐ろしくて、不気味で。何が起きているのか分からない現状に、口から出た言葉は繋がらない。

 

 ただ言われるがまま。押しつけられるがままに。その袋を受け取ると、その人は転がった傘も渚に押しつける。

 

「ぜったいに変えてね、『――――』」


 最後の言葉は雨の音にかき消された。雨粒か睫毛を濡らし、目を閉じたその一瞬で、目の前の人物はいなくなっていた。


 そうして気が付けば、渚は自分のアパートの玄関で、ずぶ濡れのまま立っていた。


 全身からぽたりと落ちる雫を追って足元に溜まる水溜まりを見る。手にはあの黒い巾着を握りしめている。


 巾着の口に指をかけて、ゆっくりとその皺を解いた。


 そこには、黒い表紙の古びた本が入っていた。煤けたような黒だった。その片面には、何か鋭利な物で跡をつけたかのように、金色の文字が彫られていた。


 ――『ろく』、と。

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