第5話 百瀬クリスという男 3

「例えば、今俺は悠と向き合って話している。その時、俺は悠の顔が分かる。けれども、俺が今目を閉じて、その暗闇の中、悠の顔を思い出そうとするとそれができなくなる。輪郭が何となくできるだけで、具体的な目の位置、鼻の位置、口の形とかは全てぼやついたようで、一向に描けない」

「それは……その」

「俺たち人間が見ている世界はな、一度目で世界を見た後、頭の、脳の中で再構築された世界なんだ。だから、脳がおかしくなれば、いくら見えていても分からないものは、分からないだ」


 それは、本当なのだろうか。

 俺は、試しに瞳を閉じてみる。そして、百瀬の顔をその中で描く。


 白い肌。薄い色の瞳。鼻筋が通り、全体的に彫りが深い。


 目を開けてみる。暗闇の中、描いた通りの顔が、また俺の目の前にあった。


「聞いたことがある。生まれつき、なんだっけ」

 

 慎吾は、そう神妙な声音で百瀬に声をかけると、百瀬は頷いた。

 

「ああ。まあ、大雑把にいえば脳の障害の一つだ。その症状が重い人だと、表情すら分からなくなる。俺は、そこまで重くないが」

「困らないのか?」

「……生まれついてこう、だからな。色々と工夫のやりようがあるし、話が分かる人間には話しているから、最初はともかく、慣れてくればそこまで」


 へえ、と、俺は相槌を打つしかなかった。

 今まで、とんでもない変人でろくでなし、と思っていた百瀬の真実に、どう思えばいいか分からなくて困ってしまう。馬鹿にするのは駄目だろうし、拒絶も違う。ただ、百瀬はたまたま、そういう風に生まれついてしまった。それだけの話なのだから、そこに深い意味なんて、いるのだろうか。


「あれ、お前、あの絵の中、アニメっぽい作品の中じゃ、顔しっかり描いてなかった?」

「イラストの人間の顔は見分けがつく。実際の人間の顔は分からないが」

「……。百瀬、まさか、定規事件って、だからやったの?」


 慎吾の遠慮に満ちた言葉。それに、百瀬はしっかりと頷いた。


「ああ。もう、数字でどうにかするしかないかと思って……」

「う、うーーーーん」


 慎吾は、深いため息を吐き、腕を組み、心底から困ったように、唸った。

 

「あの講師の人に言っても、難しそうだね……」

「葛西講師は、なかなか昔気質の人だからね……。それに、クリスくんと私の関係もよく思っていなくて」

「芸術家は、若い頃は苦労してなんぼって人ですから……」


 どういう事だ、と首を傾げていると、慎吾は説明してくれた。

 何でも、人物デッサンの講師が、かなりのおじいちゃん先生で、あまり障害とかに理解があるタイプではなく、また、努力根性忍耐がモットーの人であるらしい。恵まれている、と感じる学生には、どうにも当たりがキツくなってしまうとの事だった。


「……生まれとか、育ちは変えられないのに」


 俺は、つい呟く。


 俺は、はっきり言うとあまり育ちが良くない。地方育ちだし、実家はあちらこちら古くなっていて、芸術なんて叔父がかつて使っていた部屋の中の画集とか、慎吾に教えてもらったことぐらいしか分からない。

 でも、それは俺が選んだ境遇でもない。慎吾は親が金持ちだ。でも、それも、慎吾が自分で選んだ境遇でもない。金持ちなりに色々あるのは、俺だって知ってる。


 親への感謝はある。自分の生まれ育ちを卑下したくはない。でも、それだけで人は語れない、と思う。


 百瀬の性質だってそうだ。相貌失認。人の顔が分からない。実家はアートの本場、ニューヨークで、芸術に理解もある親に恵まれた。


 確かに、百瀬はその恩恵を受けただろう。良いこともあっただろう。でも、それだけで百瀬は語れない。ただ、そういうラベルが百瀬という人間に付けられているだけ。そのラベルだけ見て、気に食わないと当たりがキツくなる、なんて、ひどいことだと思う。


「クリスくんのお父さんも、クリスくんの相貌失認は気にかけていてね」


 なぜか黙り込んだ慎吾と百瀬の代わりに話を繋いだのが、東堂教授だった。


「日本に来たのは、クリスくん自身の希望なんだが、まあ反対で」

「……お袋さんは? 自分の出身国だろう」

「母か? 母は、その」


 百瀬が目を泳がせた。東堂教授も困ったような顔をしている。


 よく分からない。でも、日本から出て他国でその国の相手と結婚ーーようは移住するからには、色々と事情があったのかもしれない。俺は、同じくよく分かっていなさそうな慎吾の肩を軽く叩いた。


「あー、まあ、お前も色々とあるって事? いいよ、全部話さなくて」

「……そうか」


 百瀬は、頷いた後、また口を開いた。


「まあ、とにかく俺は父から留学を反対された。大学に通うことも、反対で」

「……え、マジか」


 俺は、大学に行け行けと言われてきた側の人間なので、大学に通うな、は正直イメージし辛い。いや、まあ。これだって家庭ごとの色んな事情があるのは分かるが。奨学金をもらいながら、高校の時からバイトしながら学費を貯めて進学、なんて例もあるから、俺みたいに親から学費出してもらって、というのが、当たり前ではないのは知っている。


 あ、でも確か、アメリカの大学の学費ってバカ高いのだったか。なら、その。あまりその辺も、突っ込まない方が、いいだろうか。


「その、かなり過保護なんだよ、クリスくんのお父さん」


 東堂教授が、ため息混じりに言った。


「クリスくんは相貌失認であるし、クリスくんはアートの才もある。なら、大学にわざわざ通わなくても自分の経営するギャラリーを手伝わせておけばそれでいいだろうって話だったんだよね。大学で理論や技術を学ばなくても自分が教えるし、ギャラリーで現代アートにも直ぐに触れられるし、自分の後ろ盾があれば芸術家として直ぐに大成できるだろうって」

「……それは」

 

 慎吾が、何か言いかける。でも、直ぐに口を閉ざした。俺は慎吾の親友だ。だから、慎吾が何を言いたかったのか、すぐに分かってしまう。だからこそ、俺は口を開いた。


「その。百瀬は百瀬で、色々とあるってことっすよね。分かりました。俺らも、そういうのが分からないほど、馬鹿じゃないつもりっすから」


 俺の言葉に、東堂教授が「そうかい」と、どこか安心したようにこぼす。


「俺は景政おじさんを頼って、日本に来た。父も、自分の知り合いがいる大学ならならと目を瞑ってくれてな」

 

 一応言っておくが、ちゃんと入学試験は合格したからな、と百瀬は言い添えたが、いちいち言わずともいいだろう、そんなこと。


「分かってるよ。お前、絵、うまいもんな」

「……」


 なぜか百瀬は俺を見た後、何かを伝えようとでもしているかのように慎吾を見た。慎吾は、少し顔を赤くしてから俺の脇腹をなぜか小突いた。痛いぞ、親友。


「そ、それで、百瀬のお父さんと知り合いで、百瀬の事を頼まれたから、教授は百瀬に甘いんですか」

「…………あーーーー」


 慎吾の問いに、東堂教授が思いっきり目を逸らして、なぜか鳴き声を上げた。


「これは、その。本当に他言無用で、お願い、したいだが」

「……。なんすか。まさか、金?」

「い、いや違う。そ、その」


 東堂教授は目をぎゅう、と瞑って天井を仰いだ後、意を決した様子で、俺と慎吾の事をじっと見た。


「景政おじさん。俺から話すか」

「……一緒に話そう」


 なぜか通じ合っている2人に、俺と慎吾はもう分からないとしか言えなかった。


「さっきも言ったが、クリスくんが日本の大学に進学するにあたって、私の存在以外にクリスくんは一つ、こう、名目を作って。それで、なんとかお父さんから許されたんだ」

「なんですか」

「『将来、父の経営するアートギャラリーを手伝うにあたって、日本で新しい才能を見つけてくる。俺が卒業した暁には、そのクリエイター達の個展をやろう』とな」

「…………」


 俺と慎吾は、顔を見合わせた。


「つまり、ね」


 東堂教授が、咳払いをして言い添えた。


「クリスくんのお父さんは、クリスくんはずっと手元に置いておきたい。クリスは、日本に行って勉強をしたい。で、将来的にはお父さんの庇護下から抜け出したい」

「……はい」


 慎吾が頷いた。


「でも、そのままそれを言ったんじゃ、絶対了承してもらえない。なら、『将来、お父さんの元で働く為の勉強をして、その為の人脈も作って帰ってくる』と、お父さんに言ったわけなんだよね、クリスくんは」

「……」


 俺は、百瀬をじっと見る。

 なんでか、俯いていて、不安げな様子だった。


「まあ、お父さんはそれにとても感激して許してくれた訳だ」

「名目ってことは、それは、百瀬の嘘、で、」

「全てが全て、嘘にするつもりはない」


 慎吾の言葉に、慌てたように百瀬が遮った。


「俺が卒業した時、本当に日本の若い芸術家達を集めて、その展覧会をうちのギャラリーでするつもりだった。それで、父にまず俺の審美眼を認めてもらい、俺の目指す道を認めてもらおうと思っていた」

「……だから、私もクリスくんに協力する事にしたんだ」


 東堂教授はため息混じりに認めた。


「この職についているとね、何人も何人も、若い才能が色んな事情でアートから離れていく現状に、思うところがあって」

 

 東堂教授が、やっと本題に入れた為か、落ち着いた様子で、話し始めた。


「実際、アートは金がかかる。時間もかかる。手間もかかる。実際、実家が裕福だとか、パトロンがいなければ、やっていけない世界だ。でも、そんな幸運に恵まれる学生は一握り」


 東堂教授は、何か思い出したように、そして、それを払うかのように、首を振った。


「理論や技術は教えられても、私にはチャンスは与えられない。その事に、長年、歯痒く思っていてね」

「……」


 慎吾が、じっと東堂教授を見つめている。


「でも、クリスくんの実家のギャラリーで若い才能を海外に紹介できれば。そして、アートを諦めかけている才能に、光を与えられれば、と、思って。クリスくんに協力する事にしたんだ」

「……今まで何人か、景政おじさんの紹介のクリエイターはいたが、うちギャラリーと合う画風のクリエイターしか景政おじさんも紹介しなかったし、違う作風は、俺の父が断る。だが、俺主催の展覧会には、その縛りはない。だから、幅広く色んな才能を紹介できる、と、景政おじさんも乗り気になってくれて」

「それ、は」


 慎吾の、声色。

 それに、あ、と、俺は気がついた。


「もちろん、紹介しただけで見向きもされない、ということもある。けれども、誰かが目を留めてくれるかもしれない。だから、私は……」


 東堂教授は、顔を上げた。そして、俺をじっと見た。


「今回のヌード画課題は必修だ。この単位を取らなければ、クリスくんは卒業できない。展覧会の話は無しだ。だから、工学部所属の一ノ瀬くんには勝手な話かもしれないが、どうかヌード画のモデルになってもらえないか」


 頼む、と、東堂教授は、俺に頭を下げた。

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