第4話 百瀬クリスという男 2


「でもこうやって悪あがきしてたんだけど、講師の先生も流石にそれに気がついて。きちんと顔も描くように指導したんだよ。そしたら、こいつ……」

「おい、それを言うのはやめろ」


 流石に焦った様子の百瀬に、慎吾は口を閉ざして、じとー、と、百瀬を睨んでいる。まあまあ、と、なぜか東堂教授も引き攣りながら慎吾を宥めている。


「どっちのこと言ってます」

 

 腕を組んだ慎吾は、しっかりと百瀬と東堂教授と向き合っている。


「定規事件と写真事件。どっちを言って欲しくないですか」

「定規」

「写真の方がよっぽどだと思うんだけどね」


 即答した百瀬に、慎吾が深いため息を吐いていた。定規に写真。俺はこれから、百瀬の前で服を脱ぐのだが、大丈夫なのだろうか。どっちも碌でもなさそうだぞ。


「絵を描くときのマナーとしてさ、モデルの写真撮影は厳禁って言われてるんだよ。絵を描く時は、スマホも電源オフにして、鞄にしまうようにって事になってるんだ」


 へえ、と俺は相槌を打った。

 以前、慎吾は「制限時間内に作品を完成させるのも大事なこと」と言っていたし、俺も裸体画のモデルに応募するにあたって少し調べたが、プロの絵画モデルなんかは短い時間の中でポーズをとり、休憩を挟んで、また別のポーズをとってまた描かせる、なんて事が当たり前らしい。その中で写真をこっそり撮って、他の学生が例えば30分で描いた絵に、自分だけ写真を見て30分以降も描き足す、なんて、一言で言えばずるい。ルール違反だしマナー違反である。


「それを、したのか」


 俺は、じい、と百瀬を睨んだ。

 他のモデルにした、と言われたら正直、へえ、としか思えないが、俺はこいつの裸体画のモデルになるのだが。いやなのだが。流石に局部まで出して描かせる、と言う訳ではないが、殆どパンツ一丁の姿を撮られるとか、本当に嫌なのだが。


「そう。すぐに講師が気がついて教室から叩き出されたんだよね。その前に定規事件があったから、もう「まだ反省していないのか!」って、あの時は講義中断で講師も出て行っちゃって……」

「……」


 百瀬は、思いっきり顔を背けている。

 俺は、その百瀬の白い頬をじっと見た。そっぽを向いている。子供がやるならともかく、百瀬は俺よりも一つ年上とはいえ、同じ学年の男なので、可愛くない。


「このヌード画課題は、夏休み中の、1年の人体デッサンの中間点みたいな課題なんだけどさ、一学生をモデルにするからには、顔はぼかして、男女とも水着着用って条件ではあるんだけど、百瀬だけ顔は絶対に描けって、その講師に厳命されてて」


 悠が許可出さなきゃ百瀬の絵は表には出ないと思うけど、と、慎吾は付け加えた、が。


「教授。俺、百瀬のモデル降りていいっすか」


 俺はもうそれを言うしか無かった。


「悠!」

「だって。いや絵を見て確かに上手いなとは思ったけど、嫌だよお前、碌でなしじゃん」


 百瀬はガタン、と椅子から立ち上がって俺の名前を呼んできたが、俺は首を振った。

 服を着ているモデルなら俺もまだ写真も多分おそらくきっと定規も我慢できそうな気がするが、ほぼ裸である。嫌である。後、慎吾の付け加えた話、初耳なのだが。この変態の前に裸晒して顔も描かせて、とか、嫌なのだが。

 

「そ、そこを何とか、一ノ瀬くん」


 東堂教授も、両手を合わせて懇願してきた。東堂教授は、白髪頭の、学校の音楽室に貼ってある音楽家のような髪型の俺よりも何歳も年上だ。大学教授なんて地位のある立場である。そんな人に懇願されて、俺は別に悦には浸らなかった。なんか、かわいそうに思えてこの東堂教授の教授室からすぐに出て行きたくなった。見てはいけないものを見てしまった気分になって、懇願する東堂教授から顔を背ける。


「……教授」


 静かな声を東堂教授にかけたのは、慎吾だった。


「以前から思っていましたが、百瀬に対して甘すぎやしませんか」

「さ、佐竹くんは、さっきから私たちにキツすぎやしないか」

「親友のために出す勇気ほど、出しやすいものはありませんでした」

「慎吾ぉぉ!!」


 俺は、感激のあまり隣に座る慎吾の両肩を掴んだ。


「昔からの付き合いなのは分かりますけど、でも、職権乱用と公私混同が過ぎませんか、教授」


 俺に両肩を掴まれつつ、慎吾ははっきりと東堂教授と百瀬を見つめる慎吾に、その視線を向けられた2人は、互いに目を合わせて、何か考えるように顔を顰める。そして、ため息を吐いたのは東堂教授だった。


「クリスくんのお父さんが、ニューヨークでギャラリーをしているのは、もう話したね」

「はい」


 ニューヨークといえば、俺でも知っているぐらいの現代アートの本場である。至る所にギャラリーがあって、その分、それを買い支える客もいて。日本の良くも悪くもお堅く、なかなか羽を伸ばしたアートができない環境とは大違いなのだと言う。


「で、その。お父さんは勿論、芸術に理解のある方で、クリスくんの才能も認めている。しかし、その、クリスくんが日本の大学で学ぶ事は反対だった、というか、その」


 東堂教授の話に、俺と慎吾は顔を合わせる。


「それは、なんで」

「あー……」


 慎吾の言葉に、東堂教授は、気まずそうに百瀬を見る。その視線を受けて、百瀬はため息を吐いた。


「俺から話す」


 百瀬は、両手を組み合わせて、机の上に置いた。


「俺はな、顔の見分けができないんだ」


 その言葉に、俺と慎吾は再び、顔を合わせた。


「Prosopagnosiaーー相貌失認、というらしい。俺は、人の顔が分からない。顔が、全て同じに見えてしまうんだ」


 百瀬は、しっかりと、俺の顔を見つめた。

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