第2話 顛末。

 ほら、と、差し出された紙に、俺は憮然としたまま、目を落とした。持ち上げて、書かれている文字の内容をじっと、読む。


「別にそんなにじっくり読まなくても、おかしなことは何も書いていないぞ」


 その声に、俺はじとり、と同じテーブルに着いて、向き合っている奴を睨んだ。


「俺はただ、大学で用意された紙をそのままお前に渡しているだけだからな」

「うるせえよ。確認だよ確認」


 確認? と、向き合っている相手ーー百瀬は、頬に湿布を貼ったまま、首を傾げる。


「確認じゃなくて、悪あがきだろう」

「分かってんなら言うんじゃねえこのアホ!」


 俺は、テーブルをだん、と叩いて立ち上がった。しかし、百瀬はふん、と憎たらしげな、嫌な笑みを浮かべるだけだった。


「マジでお前信じられねー! 普通さ、ビンタされて投げられた相手の絵を描きたいって思うか!? しかも裸!」

「そうか。俺は普通じゃないから普通がどうとか言われても理解できないな。すまないな、特別な存在で」

「くっそマジムカつくこのホモ野郎が!!」

「ホモじゃなくてバイだ。どっちもいける」

「そうかよそれは良かったなクソ!!」


 俺は、椅子に座り込んで頭をガシガシとかきむしった。


「くそ、くそ……! 何なんだよ、なんで俺なんだよ! おかげで俺は佐竹以外から遠巻きにされてるよまじふざけんなこの野郎……」


 ううう、と、何の意味もない呻き声が俺の口から出てしまう。

 そんな俺を、涼しい顔をして、どこか勝ち誇ったかのような顔で、百瀬クリスが見下ろしていた。


「俺だってちゃんとフォローしただろう。お陰で、部活も辞めなくて済んだんだろう?」

「そのフォローの仕方がマジで最悪だったよ……! お前あんな事言いやがって……!」


 俺が百瀬を巴投げし、そして百瀬を受け止めた途端頭を強く打って気絶した後、あの場は大混乱だった。

 それはそうだろう。いきなりビンタで巴投げである。平和なキャンパスでの、突如の暴力沙汰である。しかも、その理由は「何となく危ないと感じて」という直感だ。まず、少なくとも体育会の柔道部の面々には受け入れられない。


 俺は、大学の医務室で目覚めた後、まず柔道部の監督と佐竹に連れられて、病院に行かされた。そして、頭を打った事で何か悪くなってないか、検査を受けた。


 ーーこれは、俺の体調を思って、という事ではない。次に待ち受ける困難に、耐え得るかどうか、一応検査されただけ、という事。


 そして、俺は普通に平和に暮らす学生ならば縁のない、教授会に引き立てられたのである。


 議題は一つ。俺の処遇をどうするか。


 とある教授は。


『大学構内でいきなり暴力沙汰とは言語道断。即刻退学にすべし』


 と主張し。


 またとある教授は。


『警察は呼ばなくていいのか』

 

 と首を傾げ。


 別の教授は。


『大学の評判に関わるがこんな大事になっては仕方がないな』


 と、ため息をついていた。


 結論から言って、俺はほとんど退学になりかけていた。なぜか俺のことを唯一庇ってくれたのは芸術学部の教授である。その人は何故か、百瀬の意見を聞いてからでどうか、という事をやけに主張していた。しかし、他の教授達は半ばその意見を聞いていないかのように俺の退学を決定事項として話していた。


 俺の頭の中、走馬灯じみた思い出が巡る。


 俺、正直、勉強そんなに好きじゃないし、高卒で就職する、っていう奴が周りに多かったし、俺の親2人とも高卒だし、家がそんなに裕福じゃない事も知ってるから、俺は高校卒業して働こうかと思ってた。親父と同じように、土木会社で働いて、親父みたいな仕事をするのも悪くないかなって思ってた。でも、高校2年のある時、俺の、居間に置きっぱなしだったよくない点数のテストをなぜか親父がマジマジと見ていて。親父は無口な人で、勉強も叔父さんとは違って好きじゃなかったの知ってるから、なんか珍しいなって、それを見た時思った。で、なぜかその後、俺にいきなり親父が「大学に行け」って言い出した。


 当時、俺は反抗期だったのもあって、割と抵抗した。でも、何でか親父は譲らなくて、手が出る喧嘩もお互いした。親父も高卒のくせに何だよって、その喧嘩の後俺は拗ねていたんだけど、別の進学校に通ってた佐竹が、「なら、折角だし僕が目指してる大学に一緒に行こうよ」って言ってくれて。勉強も教えるって言ってくれて。小中は一緒だったけど、高校は別になったからこのまま佐竹と縁が切れるのかなって思ってた拍子にこれだったから、俺も頑張って勉強して、佐竹と同じ大学に何とか合格した。


 辛かった受験勉強。佐竹との友情。大学で会った友達達。尊敬できる柔道部の先輩達や監督。それなりに面白いなって思えてきた大学の講義。


 それらを思い出して、俺は身の危険を感じていたとはいえ、百瀬に手が出た事をすごく後悔して。全部全部失うんだって、悲しくて、俯いて涙を浮かべていた。男が泣くもんじゃないって思って、頑張って涙を堪えていたけど耐えきれなくて、服の裾で乱暴に目を擦った時、だった。


『失礼します!!』


 初めて聞く、大きな、でも、よく知っている声に、俺は扉の方を振り向いた。


 そこにいたのは、荒い息の佐竹と、疲れ切った顔の、百瀬だった。


 本来学生は立ち入り禁止の教授会に、2人も学生が乱入である。多くの教授はなんだなんだ、早く出ていきなさい、と、佐竹と百瀬を追い出そうとしたが、佐竹は譲らず、そして、2人が所属する芸術学部の教授の取りなしで、佐竹と百瀬は教授会で話をするのを許された。


 ほら! お前の口から言え! と、佐竹は珍しく乱暴な口調で、百瀬の背を押した。百瀬は、俺をチラリ、となんか拗ねてるみたいな表情で見た後、教授達に向かって、頭を下げた。

 そして、口から出たのはこの言葉である。


『俺は、一ノ瀬悠くんに無理矢理キスしようとしてました。すみません』


 俺は、真っ白になった頭の端で、『だからあの時身の危険を感じたのか』と、納得していた。


 いきなり同性愛のカミングアウト染みた告白をされた教授達は、唖然としていた。そして、次に「いくら何でも、何でいきなりそんな事をしようとしていたのか」と、なぜか平然とした様子の芸術学部の教授からの問いに、百瀬はバツが悪そうに目を背けてから、こう言った。


『一目見た時から、みわ……好みで。先に唾つけて置こうかと』


 俺は頑張って百瀬をぶん殴ろうとした拳を堪えた。そんな俺を、心配そう見つめつつ、もう顔が赤く汗まみれな様子で、佐竹は『先生方!』と声を上げた。


『た、確かに一ノ瀬はやり過ぎだったのかもしれません。でも、それと同じぐらい、性犯罪は許される物ではありません! いきなりキスとか! あわよくばそれ以上とか! 本当に、許される物ではありません!!』


 佐竹は、真っ赤な顔で、興奮した様子で、何歳も歳上の人間だらけの教授達に、向き合っていた。佐竹が、ここまで勇気を出している姿を、俺は、初めて見た。


『一ノ瀬は、いわば自衛をしたんです! 悪いのはこいつです! この変態です! 先生方!!』


 お願いします! と、佐竹は、思い切り頭を下げた。


『どうか、一ノ瀬には、寛大な対応をお願いします! 僕、親友なんです。一ノ瀬は、無闇に暴力を振るう奴ではありません! だから、どうか、どうか……』


 俺は、佐竹の言葉に、もう涙が抑えきれなかった。

 胸が一杯になって、佐竹との沢山の思い出が頭を過ぎる。親友って、言ってくれた。こんなに毛並みが違うのに、野生動物みたいな俺に、佐竹は親友って言って、庇ってくれた。俺は、それだけで、もう胸がいっぱいで、堪えきれなかった。


 佐竹は、頭を下げ続けている。お願いしますって、言い続けている。俺なんか庇わなくていいって、言わなきゃいけなかったのに、俺は、色んな感情がぐちゃぐちゃで、言葉を発することが、できなかった。


 俺の泣き声と、佐竹の懇願の声が、会議室に、長く響いていた。


 結局、場をとりなしたのは、先程から穏健な意見ばかりの、芸術学部の教授だった。


『百瀬くん。確認をしたいんだが、君は、この件で、警察を呼びたいかい?』

 

 芸術学部の教授ーー東堂教授の言葉に、百瀬は首を振った。


『その、絵を描かせて貰えれば、それで』

『お前、まだそんな事を!』

『佐竹くん、落ち着きなさい』

 

 東堂教授の言葉に、佐竹は悔しそうに口を噤む。


『皆さん。この件は私に預からせていただけませんか』


 東堂教授の言葉に、色々と困っていた教授達の視線が、東堂教授に集まった。


『聞けば、百瀬くんにも原因があった様ですし、何より、百瀬くんは、事を荒立てたくはない。違いますか?』


 百瀬は、頷いた。


『ほら。被害者がこう言っているのです。それに、佐竹くんの主張も最もです。犯罪の被害に遭いかけたから抵抗をする。それ自体、間違った事とは言えません』

 

 東堂教授以外の教授達は、顔を見合わせている。

 なんか、教授達もどこか疲れている様な顔をしていた。


『私の学部の学生が2人も絡んでいるのですから。私に預からせてください。よろしいですか、皆さん』


 はあ、と、ため息の声が聞こえた。

 そのため息をついた人間は、俺たちの入学式の時、長々と話をしていた、白髪の教授だった。そして、その教授は深く座り直した後、分かりました、と口に出した。


『一ノ瀬くん。それと、百瀬くん。学長として言っておくが、金輪際、この様な問題を起こさぬ様に』


 学長、という役職が、どん、と俺の頭にのしかかる様だった。しかし、俺は何とか解放されそうで、何度も、はい、はい、と言って、頭を下げた。


 そして、教授達は出て行った。会議室に残されたのは、俺と、佐竹と、百瀬と、東堂教授だった。


 そして、俺が泣き止んで落ち着いた頃、東堂教授がこう言った。


『百瀬くんの裸体画課題のモデル、やってくれるね、一ノ瀬くん』




 天使が悪魔に見えた瞬間だった。

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