分からぬ顔を描け

くぅちょ

第1話 きっかけ

 美術学部が併設しているマンモス大学に通っていると、絵のモデル、なんて珍しいアルバイトが構内で募集されることがある。


 俺なんかはマネキンとか、適当に人間の写真を撮ってそれを描けばいいんじゃないか、と思うが、芸術を愛し、それで食っていこうと虎視眈々とチャンスを狙っている人間にとっては、そうもいかないらしい。モデルも、ただ椅子に座っていればいい、という訳でないらしい。立ってポーズを取る? 想像するだけで疲れる。絶対に嫌だ。それも、裸体。つまりは、ヌード画、なんて。


 それでも、俺がこうやって裸体画のモデルのアルバイトに応募し、今のように美術学部の学生とアルバイトに応募した学生達が集まる、大学で一番大きな大講堂に集まっているのは、昔から知っている幼馴染、佐竹に土下座の勢いで懇願されたからだった。


 曰く。


『お前以外に伝手が無いんだ決められたバイト代にプラスするし食事も好きなもの用意するから長い付き合いのお前がモデルになってよ頼む』


 とのことらしい。


 それはそれで「アートで食っていこうという奴がそんな弱腰で大丈夫か」と思ったが、金はあればあるだけ嬉しいし、実家が裕福で大切に育てられた佐竹の料理は栄養バランスも味も素晴らしいし、はっきり言って貧乏で育ちがよくない俺とも昔からよくしてくれているし、一緒に温泉とか行ったことがあって、裸を見せるのも初めてではないので、俺は人助け半分、佐竹の金と食事目当てが半分で、応募したのだった。


 そんな風に、事前に打ち合わせを済ませていた俺と佐竹だが、そんな風に取引していたのは俺たち2人だけではなかったらしい。よく見れば、俺が並んでいるモデル側と美術学部の学生側でも、俺と佐竹と同じように目配せしあっている奴らがいる。考えてみればそれはそうだ。ただのモデルだけならともかく、裸体画なのだ。なら、大方の人間は打ち合わせを済ませていてもおかしくない。


 逆に、事前にモデルを用意していない側の方が不用意だ、とも言えるかもしれない。


 まさしく美大の教授、というイメージにぴったりな見た目の教授も一声で、ゾロゾロと美術学部側が動き出した。裏取引を済ませているのが大半とはいえ、名目は集められた応募モデルの中から、最適な人間を美大生側が選ぶ、というのが形式だ。美大生の数と応募モデルの数はぴったりに揃えられているという。なら、どちらもあぶれる事なくそれぞれの相手は決まるだろう。


 佐竹は、そんなに真っ直ぐ俺の方に来たら、事前の打ち合わせがバレるだろ、という勢いで、俺の方に真っ直ぐに向かってきた。いくら人見知りで、俺がいなきゃいじめられっ子まっしぐらな奴だったが、もう少しこう、誤魔化せ、と言いたくなるぐらいの純真さだ。でも、佐竹と似たような奴は他にもいた。だから、俺は佐竹が俺の目の前に来るのを、ため息まじりに待っていた、その時だった。


「お前、名前は」


 すぐ近くから声が聞こえて、俺は自分の顔を上げた。


 そこにいたのは、肩までつきそうな長さの髪を後ろで一まとめ結んだ男だった。

 白い顔。不機嫌そうな目つき。真っ黒な服。絵の具が不注意についた、無骨な手。


 男の背後に、俺の方にやってきていた佐竹は、唖然と口をあんぐりと開けた後、瞬時に顔を真っ青にした。そして、混乱したように、パクパクと口を動かした。その口の動きで、佐竹が何を言っているのか分かった。「ももせ」と、佐竹はおそらく人の名前であろう、その言葉を口にしていた。


 モモセ。百瀬、だろうか。人付き合いが苦手な佐竹も知っているような人間だ。美術学部の中では、有名な人間なのだろうか。


「名前は」


 百瀬は、そう横柄に俺に言ってきた。俺は身長173センチだが、百瀬は俺よりも身長が高い。180センチぐらいはありそうだ。


「……一ノ瀬です」

「俺が聞きたいのはそっちじゃない。下だ。下の名前だ」

「悠です」


 正直、女と間違われそうになるから、好きではない名前だ。全く。あの親父は普段は粗野のくせに、なんで息子にもっと男らしい名前を付けなかったのだろう。大吾郎とかでもよかった。別に、俺は女になりたいというような人間でもないし。


「あの」


 俺は、そう中身のない相槌のような事を言いながら、男の背後を見た。

 名前も知らない黒い男の後ろに、佐竹が落ち着かなくソワソワしている。そんな様子を見ていると思い出す。俺たちがまだ小学生の頃、佐竹が転校してきた時のこと。佐竹は元々私立の毛並みがいい学校に通っていたのに、親の転勤でいきなり雑多な野生味ある小学校に転校してきて、他の児童との明らかな毛並みの違いに怖気付いていた。たまたま、佐竹が割り振られていた席の隣が俺で、俺は佐竹のランドセルにぶら下がっていた有名な画家の絵のアクリルキーホルダーに興味を持って、それを佐竹が俺にくれたので仲良くなった。そうじゃなかったら、佐竹は小学校でずっとひとりぼっちで、もしかしたら酷いいじめにあっていたのかもしれない。


 その事を思い出すと、俺は佐竹を放って置けなくなった。佐竹がくれたアクリルキーホルダーは、今俺が暮らしているアパートの部屋の鍵に付けられている。ポケットの中のそれを、ポケットの外からそっと触りつつ、俺は百瀬に囁いた。


「すいません。俺、もう相手がいて」

「だから?」


 百瀬は、高身長を存分に活かして俺を見下してきた。


 もしかしたら、見下していないのかもしれない。ただ身長が高すぎて、俺にはそう見えただけかもしれない。でも、俺が見下している、と感じたのだったら、俺にはそうなのだ。


「いや、だから」


 俺は、百瀬の後ろの佐竹をじっと見た後、百瀬の顔を見上げた。割と顔がいいが、でも、百瀬は男なので、別になんとも思わない。


「モデルならさ、他当たってよ。俺、そこの佐竹くんともうモデルの約束してる訳」

「佐竹?」


 百瀬は、ようやく気がついた、と言わんばかりに、佐竹を振り向いた。


 じ、と百瀬は佐竹を見た後、ため息をついた。そして、何かを思い出すみたいに、佐竹、佐竹、と名前を呟く。


「ああ、佐竹。お前、ゴッホが好きな佐竹」


 佐竹は目の前にいるのに、なんだろうその言い方。


「そ、そうだよ、百瀬。悠はさ、僕ともう、約束、してるから。だからさ、ほかに行ってよ。頼むよ」


 佐竹は、今ものすごく勇気を振り絞っているんだろうな、というような態度で、そう百瀬に言ってきた。視線は真っ直ぐだが、俺には分かる。佐竹は百瀬ではなく俺を見ている。よかったな、佐竹。視線の方向は同じだから、多分違和感はないぞ。


「そうか。済まないが、よそを当たってくれ、佐竹」

「……は!? なんで!」

「もう決めた」


 そして、百瀬は、俺の肩を両手で掴んできた。そして、ぐい、と俺に顔を近づけた。百瀬の大きな瞳の中、俺の、親父似、というよりは、叔父似の顔が、映っている。


「うん。お前だ。お前しかいない」


 百瀬は、ニヤリ、と笑った。


「お前が、一番見分けられる」

「……は? はっ!」


 補足しておこう。


 俺の親父は、ガテン系の土木会社勤めだ。そういう会社って、こう、昔は悪さしてたっていうおっさんが何人も何人もいて、俺は実はそういう雰囲気、嫌いじゃないので家に来る親父の同僚の昔の武勇伝も、割と楽しくワクワクしながら聞いていた。


 その流れで、小学生になる前から空手とか、柔道とかに通わせてもらっていて。

 俺、体育会の柔道部所属で。

 今もバリバリに活動していて。

 正直身の危険を物凄く感じて。



 だから、俺は反射的に、近づいてきた百瀬の顔をビンタした後、腕を取って胸ぐらを掴んで思いっきり巴投げた。



「あーーーーー!!!!」


 投げている瞬間に、俺は思いっきり後悔に叫んだ。


 何処もそうかは知らないが、少なくとも俺は通っていた空手とか柔道の教室とか、今の体育会の活動でも、素人に極力暴力を振るってはいけない、と叩き込まれるかのように教え込まれていた。


 そりゃそうだ。小さな子供同士ですら、稽古を付けられた子供と何も教えられていない子供が暴力込みの喧嘩をしたら、何も教えられていない子供の方が大怪我をする確率が高い。真っ当な指導者であれば、自分が教えた事で教え子が誰かを傷つけた、なんて起こってほしくないだろう。なので、仮に言い分があったとしても、教え子が誰か素人に暴力を振るった、なんて事があったら、そのまま辞めさせられる事も十分あり得た。


 なので、俺は今大ピンチを迎えていた。


 空に投げ出される百瀬の体。俺の今後が瞬時に脳の中を駆け巡る。


 大怪我。警察。退部。退学。刑務所。損害賠償。人生終わり。


「あああああああああああ!!!!!!」


 俺は、瞬時に行動に移った。


 百瀬の体が軽かったせいで帯空時間は僅かに同じ柔道部の奴よりも長い。俺は瞬時に起き上がり、百瀬が落ちる位置までダッシュして、そのまま百瀬の体を抱き止めた。


 ごがん、と、いう音が頭に響いて、頭が真っ白になる。そして、俺は、佐竹の「悠ーー!!」という声だけ聞いて、目の前が、真っ暗になったのだった。

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