赤い実つぶれた

鷹野ツミ

バレンタインデー

「……やっぱり、こわいよ……」

 スプーンを片手に涙を溜めた顔は、石黒いしぐろゆりらしくないなと思った。

 楽観的で、いつも明るく笑っているゆりのそういう顔は初めて見た。なんというか、そそられる。


 石黒家のキッチンは掃除が行き届いていて綺麗だ。ここはすっかり甘ったるい匂いで満ち、小箱の中には小粒のチョコレートが敷き詰められている。真ん中のスペースを埋めれば完成だ。

 ゆりがスプーンを持ったまま動かないので、わたしはそっとゆりの髪に触れ、ツインテールの毛先を弄んだ。

「昔飼ってたシーズーがね、飼い主の手を噛むような犬だったんだ。だからね、耳を持って思いっきり引っ張ってやったの。ふざけんなクソ犬ってね。そしたらさ、眼球がポロって飛び出したんだー。要するに、眼球なんて簡単に取れるってことだよ」

 こんな人伝に聞いた話わたしは信じていないが、ゆりは不安が少しはなくなったのか、スプーンをゆっくりと目元に近づけていった。そして抉り出すようにスプーンを突っ込む。

「いったっ!うう、むりだよ……!」

 ゆりはスプーンを投げ飛ばし、顔を覆う。

 その様子に舌打ちをしそうになったが耐えた。

塚越つかごしさんに想いを伝えるんじゃなかったの?」

「伝えるよ……でも、やっぱり、眼なんて渡したらあおいちゃん、引くかも……」

「みんな髪の毛や血液を入れてるって言ったでしょ?みんなより想いが強いってこと伝えないと駄目じゃん」

 こんな話も勿論信じていないが、まるで本当のことのように言葉を紡いだ。

「……そうだよね」

 ああ、本当に単純だな。疑うことを知らない純粋な心の持ち主。冷静に考えれば、今やろうとしていることはおかしいと気付くはずなのにな。

 それとも、こうまでして塚越葵つかごしあおいへの愛を伝えたいとでもいうのか。

 どちらにしても純粋だ。わたしはゆりのこういうところが好きで、愛おしい。


真純ますみちゃん、一緒にチョコ作りしよ」なんて誘われた時、わたしはゆりの友達以上にはなれないという現実を突き付けられた。本命相手をチョコレート作りに誘うわけがないのだから。


 塚越葵は女子校内で有名な存在だ。

 端正で中性的な顔立ち、スタイルの良さ、優秀な成績、誰にでも優しい態度。魅力をあげればキリがない。

 誰かしらに告白されているのはしょっちゅうで、昨年のバレンタインデーには大量のチョコレートを抱えているのを見かけた。

 その頃はわたしもゆりも、存在を知っている程度だった。二年生になり、塚越葵と同じクラスになったことでわたし達の日常は変わった。

「石黒ゆりさん、だよね?」「うん……なにか?」「私もその漫画好きなんだ。読んでる子初めて見たよ」「えっ!葵ちゃんも好きなの?あっ馴れ馴れしくてごめんなさい」「いやいや全然いいよ」

 マイナーな漫画の話を楽しそうにする、そんな2人の会話にわたしはついていけなかった。

 それから二人の距離が日に日に縮まっていくのが分かった。時折頬を染め、嬉しそうに笑うゆりの顔をわたしは遠目に見ることしかできない。

 ゆりを取られた。そう思った。ゆり、こっち向いてよ、わたしを見てよ。



 キッチンには換気扇の音が響いている。無機質な音が耳の中へ流れていく。

 わたしはスプーンを拾い、ゆりを壁際に追いやった。

「え、え、ちょっと」

「わたしがやった方が早いよね」

 眼球を抉るためにグッとスプーンを押し込めば、ゆりは汚い悲鳴をあげた。こんな声も出るんだな、録音しておけば良かった、なんて思っているうちにゆりは力なく床に倒れ込んだ。痛みのせいか朦朧状態で震えている。縋り付いてくる手や涙や口の端から零れる唾液を見て、わたしの下腹部がぼんやりと熱を帯びたような気がした。


 なんとか取り出した眼球を小箱の真ん中に飾る。周りのチョコレートが眼球を引き立たせていて可愛らしい。さて、もう片方も取り出そうかとしたところで玄関から音がした。

「ただいまー。あら、お客さん来てるのかしら」

 ゆりの母親が帰ってきたのか。わたしは小走りで玄関へと急いだ。

「こんばんは、お邪魔してます」

「あらー!真純ちゃん、お夕飯一緒に食べましょうか」

「えーっと、今日はもう帰らなきゃならなくて」

 倒れているゆりをみたら、きっと取り乱すだろう。面倒臭いことになる前にさっさと出て行かなければ。

「では、お邪魔しました」

 小箱を持って、わたしは石黒家を後にした。


 明日のバレンタインデー、ゆりは病院で過ごすのかな。とりあえずまあ、塚越葵に告白する機会が失われて良かった。

 この小箱を開ければゆりはわたしをじっと見つめてくれる。片眼しかないのが残念だが、塚越葵に勝った気分だった。ゆりが今見つめているのはわたしなのだから。

 周りのチョコレートを1粒ずつ食べながら、幸せな気持ちに浸った。ゆりの眼球に唇でそっと触れ、布団に転がり甘い吐息を漏らした。ゆりのぐちゃぐちゃになった表情を思い浮かべる。独りぼっちの冷たい部屋に、シーツが擦れる音と荒い呼吸の音が響いた。

 じっとり汗ばんだ身体が熱くて、気怠い。心臓が興奮している音を聞いているうちに眠気に襲われた。



 アラームの音で目が覚めた。

「んー……ん、おはよう、ゆり」

 一晩中ゆりに見つめられていたのかと思うと、嬉しさで頬が緩む。

 どんよりとした曇り空の下を晴れやかな気分で学校へと向かった。


 校内の騒がしさが、バレンタインデーの明るい騒がしさでないことに気付いたのはすぐだった。救急車があったからだ。なにがあったのだろう。それを横目にぼんやり不安を感じながら教室へ入れば、クラスの人に話しかけられた。

「あっ、久我くがさん!聞いた?」

「ん?なに」

「塚越さんが刺されたんだってよ!告白した一年生が、振られた腹いせにやったって!しかも自分のことも刺したみたいで、廊下に血の海ができてたって……やばくない!?」

 塚越葵が刺された?なんだそれ。最高じゃないか。

 そういえば前に、「私を好いてくれる子も多いけれど、私を嫌う子も同じだけいるんだよ。もしかしたら刺されたり、突き落とされたり、そんな日が来るんじゃないか、明日にでも死ぬんじゃないか、ぼんやりしてると色々考えちゃうんだ」と言っていたことを思い出した。わたしも塚越葵が嫌いな一人だから、この言葉はよく覚えている。もちろんわたしは殺そうという考えには及ばなかったが。まさか本当に刺されるなんて。


 血の海を見たという生徒達は相次いで体調不良を訴えた。その体調不良は連鎖して、授業どころではなくなり、今日は休校となった。

 どこか浮ついた気持ちで下校していると、スマートフォンに通知が沢山あり、それがゆりからだと気付いた。

「もしもし、ごめん気付かなくて。体調は大丈夫?」

『……やっと出てくれた』

「どうかした?お見舞いに行こうかと思ってたところだよ」

『よく、そんなこと言えるね……ママが言ってたの、真純ちゃんは頭がおかしいって、眼をくり抜くなんて正気の沙汰じゃないって。ねえ、なんでこんなことしたの?こんなことしても想いが伝わるわけないって言われたよ?真純ちゃんなら、告白に協力してくれると思ってたのに』

 ゆりの怒気を含んだ声にわたしは少し怯んだ。

「だ、だって、ゆりが、わたしを見てくれないから。ゆりのこと、こんなに好きなのに、なんでわたしじゃないの?わたしを見てくれないゆりが悪いんだよ……」

『……なにそれ、気持ち悪い……葵ちゃんのこともさ、友達に聞いたよ、刺されたって。真純ちゃんがやったんでしょ?あたしと葵ちゃんが上手くいかないようにしたんでしょ!最低だよ!絶対許さない』

「違う!違うよ!」

 返事はなかった。電話を切られてしまった。ゆりに嫌われた。どうしよう。


 信号が赤になっていることに気付かなかった。車が真横に見えた時にはもう、駄目だった。

 ああ、これが天罰か。ぼんやりとそんなことを思った。もしこれが、ゆりの恨みとか呪いとかそういうものだったらいいな。

 最期まで、ゆりに想われているわたしは、塚越葵よりも幸せ者だよね。





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