プロローグ 或る世界にて(2)
「何だよあいつ、完全にイカれてやがる……! それとも恐怖でどうにかなっちまったのか?」
「おい勇者! あいつを仲間に誘ったのもお前だろ! あいつのせいで、この世界の人間が半分殺されちまうんだぞ!」
「待ってくれ! 彼を誘ったのは俺じゃない──彼が自分から仲間に入ったんだ! 頭数は多い方が良いと思って深く考えずに仲間にしたけど、まさかこんなことになるなんて……!」
仲間同士での殺し合いはすんでのところで防がれたが、仲間割れ自体は継続中だ。勇者の末裔は胸倉を掴まれ、あの命知らずな男──リンを仲間に加えたことを強く非難されている。
それもそうだろう、あんなことを口にしたために世界がとんでもないことになりかけているのだ。文字通り竜王の逆鱗に触れた当のリンなのだが謝罪や命乞いをするでもなく、自然な姿でズボンのポケットに手を突っ込み、その場に立っている。恐ろしさのあまり身動きすら取れなくなったようには見えなかった。
「あの世で誇れ、人間。この竜王にふざけた口を叩いたことをな」
とドラゴンが吐き捨てるように言った次の瞬間、あらゆるものを切り裂く竜の爪が無造作に薙がれた。ただの素振りにも見えたその動きだが、それだけでこの山頂に暴風が吹き荒れる。大の大人でも何かにしがみついていなければ立っていられないような風を受け、勇者の末裔を含む生き残りの集団は、後ろへと吹き飛ばされてしまった。
その一撃を受ければ体は真っ二つになり、死体は遥か彼方へと──となるはずなのだが、リンはいつの間にか、ドラゴンの足元へと潜り込んでいた。決死の回避が成功したという風ではなく、その表情は涼し気である。
「へえ、これが竜の鱗か。確かに硬いな。これなら傷ひとつつけられないっていう話も、まあ納得できるか」
リンはぺたぺたとドラゴンの鱗を触りながら、小さく頷いた。リンのその言葉通り、ドラゴンの体の表面を覆っている鱗には小さな傷ひとつついておらず、まさに鉄壁とも言える防御力を物語っていた。
だが無遠慮に鱗を人間の手で触られたことでドラゴンの怒りは、更に増す結果になってしまう。山頂どころかこの荒れた山全体に轟くような唸り声を上げたドラゴンは足元にいるリンを踏み潰そうと、巨体を支えるぶ厚い足を振り上げ、地面へと叩き落した。
瞬間、轟音が響き渡る。ドラゴンが踏みつけた足元は大きく陥没し、地面は地震が起きたように震える。その衝撃で周囲の岩石が四方八方に飛び散り、この山頂を中心として大量の岩石が雪崩となって転がり落ちて行った。勇者の末裔とその集団など、もうどこにいるのかも分からない。運が良ければ生きているかも知れないが。
「跡形も無く潰れたか……人間如きが。不愉快極まりなかったな」
「不愉快ってのは、こっちが言いたい。土煙を撒き散らすのが趣味か? 真面目にやれよ」
確実にリンを踏み殺したと思っていたドラゴンだったが、聞こえてきたリンの声に流石に驚いたのか、きょろきょろと頭を左右に動かして周囲を確認する。今の声は足元からではなく、上から聞こえてきた。一体何処に──リンの姿を探すドラゴンに本人が痺れを切らしたのか、「おいっ」とさっきよりも大きな声が上がった。
ドラゴンの聞き間違いでなければ、声は頭上から聞こえている。そしてそれは間違いではなく、リンはドラゴンの頭の上にしっかりと両足で立っていたのだ。立ち昇る土煙に小さく咳き込みながらも、その姿は五体満足──というより、無傷である。
「期待外れだな、今回も」
溜息交じりのその呟きは、ドラゴンには聞こえていない。「貴様!」とドラゴンが頭を大きく振り払うよりも早く、リンはドラゴンの頭上から真上へと高々と跳躍して見せた。ドラゴンは一歩、二歩と後ろへと下がりながら人間離れした跳躍力を見せ、空へ舞ったリンを見上げる。
(ただの人間ではないようだな! だが愚かだ! 空中では、もう逃げることは不可能──焼き尽くしてやる!)
ドラゴンは口を大きく開き、落下しているリンに狙いを定めた。いくらリンが速く動くことが出来ても、それは地上での話。翼を持たないリンは空中では動けず、ドラゴンの吐き出す火炎で塵と化す以外に無い。そう考えていた。
だがドラゴンが炎を吐き出そうとした瞬間、リンが空中で動きを取った。ドラゴンの目には、何かを投げたように思えた動きだった。
(何を──)
投げた? と思った次にドラゴンが聞いたのは、ぐちゃりと何かが潰れた音。そしてそれと同じくしてドラゴンの視界の左半分が真っ暗になり、とてつもない激痛が襲った。
ドラゴンの口から吐き出されたのは炎ではなく、悲痛な鳴き声。今まで味わったことのない痛みにドラゴンはまったく耐えられていないようで、尻尾を鞭のように振り周囲を薙ぎ払う。その様子は竜王と呼ばれ、恐れられた存在とはとても思えない。
竜の鱗はあらゆる攻撃を通さない鉄壁の防御。事実、これまでの人間たちとの戦いで傷を負ったことなど一度も無かった。
だがそれは同時に、痛みに対する耐性がまったくないことを意味していた。今のドラゴンは人間で言えば初めて転んだ子供のように、泣き喚いているのだ。
しかし、鱗の無い部分──例えば口の中に攻撃をすれば傷を与えるのは可能であるが、そんなことをやってのけた人間など長い歴史の中で一人としていなかった。
だがリンは手に持っていた拳ほどの大きさの石を凄まじい速度で投擲し、見開いていたドラゴンの両目の内の左目を潰すことに成功していた。ドラゴンはリンに炎を吐き出せず、その姿を見失っていた。
(痛い痛い痛い許さん許さん許さん──どこだ! あの人間はどこにいる!)
激痛と半分見えなくなってしまった視界の中、ドラゴンはリンの姿を探す。そしてすぐさまリンを見つけるのだがその本人はと言えば、ドラゴンに背中を向けて、不安定な足場の中をスタスタと歩いていた。右手には鋭く光る抜身の刀が握られていたが、左腰の辺りに差している鞘にその刀を収めると、柄から手を離してしまう。そして一度立ち止まりだるそうに両手を上げて体を伸ばすと、背後にいるドラゴンのことなどまったく気にする様子を見せず、歩くのを再開した。
「貴様──!」
ドラゴンは口を開き、今度こそ炎を吐き出そうとした。だがそこで不思議な現象が起きた。
ごとりと音がしたかと思ったら、ドラゴンの視界に映るリンの姿が真横になったのだ。リンだけではない、地面までも真横になっている。一体何が起きたのか──考えようとしたドラゴンの視界が真っ赤に染まり、リンの姿が見えなくなったと同時に、そこで竜王と呼ばれたドラゴンの意識は完全に途絶えた。
リンは確認すらしなかったがドラゴンの頭部は首から両断されており、ある種の芸術のように滑らかな切断面からは血が零れ落ち、頭部を失ったドラゴンの巨体は大きな音を立ててその場に力なく倒れた。ドラゴンが痛みで平静を失い暴れている最中、リンは地面に着地する瞬間に刀を抜き、首を落としたのだ。
激闘と呼ぶには余りにも呆気ない結末と、勝利の余韻に浸りすらもしていないリン。だがそれらを目撃した者はいなかった。
「おい、しっかりしろ……生きてるか?」
「ああ、何とか……他に何人生きている?」
「勇者のお前と俺を含めて五人。岩の下に生き埋めになった奴らもいるだろうが、とても助けられないな……おい、落ち着いたら見てみろよ。とんでもねえものがあるぞ」
「? とんでもないもの?」
ドラゴンが暴れた際の余波を受けながらも、幸運にも生き残った勇者の末裔を含む数少ない者たちは頂上に残されていたそれを見て、まずこれが夢かどうか疑った。だが体に走る痛みが、現実であることを教えてくれていた。
血溜まりの中心には、頭部を斬り落とされた竜王の死骸が転がっていたのだ。呆然とした顔でドラゴンの死骸に近づく勇者の末裔は、長きに渡りこの世界を支配していたドラゴンを殺したのはまさかあのリンという男なのかと思い至った。
「彼は──リンは何処に行った? まさか岩石の下に生き埋めになっているんじゃ……皆で手分けして探そう!」
「落ち着けよ。俺たちもざっと探してみたが、見つけられなかった。それよりも……なあ、竜王を倒したのは俺たちってことにしねえか?」
「何を言ってるんだ! 倒したのはどう考えても彼だろう? 手柄を横取りするのか?」
「横取りじゃねえよ。あいつも一応は、お前が率いる集団の一員だっただろ? 生き残ったのはここにいる俺たちだけだ、誰にもバレねえよ。それに……こうでもしなきゃ、俺たちがここまで来た意味が無くなる。何人死んだと思ってんだ?」
噛み潰すようなその言葉を聞き、勇者の末裔は言葉を詰まらせた。少しの間、何を言うべきか迷っていたようだったが、こくりと首を頷かせた。仲間の提案を受け入れたのだ。
──この後、竜王が住む荒れ果てた山から近隣の街へと戻った勇者の末裔を含む生き残りの者たちは、竜王の討伐成功を報告した。勿論俄かには信じられないと軍による調査隊が派遣され、死骸を発見したことにより竜王の恐怖から解放されたという報せが駆け巡った。
勇者の末裔とその仲間たちは世界を救った英雄として、惜しみない賛辞が多くの人々から送られた。彼らが欲した名誉と富を得る結果となったのだがその数か月後、自責の念にかられた勇者の末裔は竜王を討伐したのは自分たちではなく、リンという男だと声明を発表した。当然、勇者の末裔たちは人々から誹謗中傷をされたものの、竜王を倒したリンという男に興味が移り、その行方はしらみつぶしに探された。
だが結局リンを見つけることはできずに、竜王の恐怖から世界を救った謎の英雄として、人々の間で語り継がれていくこととなるのだが──当の本人にとっては、どうでも良かった。
そもそも、見つけられないのは当然である。何故ならドラゴンの首を斬り落とした後、すぐにリンはその世界からいなくなってしまったのだから。
◇
何もない、ただ真っ白な空間をリンは歩いていた。表情は冷静なもので、この状況に戸惑ったり焦ったりという様子は見られない。まるで何回も、何十回も繰り返してきて、当たり前になっているかのような落ち着きだ。
リンの目の前に突然、扉が現れる。リンはその扉の前で立ち止まると扉に手を当てて、迷うことなく押し開いた。そして扉の先へと進んだリンの周囲は虚無な白い空間ではなく、また別の景色が広がっている。
扉の先にあった部屋は大きな本棚で囲まれており、そしてその本棚には隙間なくびっちりと本が埋まっていた。部屋の中心には高価そうなテーブルと、それを間に挟んで向き合うようにして椅子が設置されている。その椅子の一つに座っていた人間──腰にかかるぐらいまでの金髪が特徴的な少女がリンに歩み寄り、正面に立つと、優雅な動きで頭を下げた。
「おかえりなさいませ、救世主様。此度の戦いはいかがでしたか?」
その言葉を聞いたリンは、あからさまに顔をしかめたのだった。
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