第21話
今年の夏は涼しかったらしい。この村に居て夏が暑いと感じたことはなかった。
村を出るまでの知識としての夏はどこか遠い別世界の話だと本気で信じていたくらいだ。学業で村を出て初めて世間での夏を肌で体験したと言っていい。北国で緑豊かなこの村の夏はそれほどに過ごしやすい。
ただ振り返ってみると確かに袈裟を着て慌ただしく動いてきたが体力的にいつもよりは限界を感じることはなかった。慣れかとも思ったがそういうが言う外的要因もあったのだろう。
いや、慣れもあるだろう。今年は小さなミスもほとんどなく、父も大いに満足していた。いつも私が相談するまで自分からは仕事に関して何も言わない父が「何か困ったことはないか?」と逆に聞いてきたくらいだ。
全く手がかからないのもそれはそれで寂しいのかもしれない。
それに対して……。
「康生さんいつまで休んでいるのですか。落ち着いたとはいえサボっていいわけではありませんよ」
母は対照的に機嫌が悪い。
「すみません、すぐに戻ります」
母は厳しい目線で私の足元を見ている。
「康生さん、それは」
「はい片付けておきます」
まだ何か言いたそうな母は短い時間逡巡し戸の前から立ち去った。
私が膝を預けていた座布団は来客用の物だ。もうこの時期に来客の予定はない。母が片付けるのを忘れていたものだ。
だが母が言いたかったことはそのことではない。
「なんでお前が座っている」そう言いたかったに違いない。きっと幼い頃の私相手なら手が出ていただろう。
母からすれば「お前は座布団を使うな」もしくは自室から持ってこいということなのだろう。寺を客商売と割り切ってしまうのであればそこまで的外れとは思わない。
だが自室にある自分の座布団は綿が潰れもはや石のように固くなっている。それを母に訴えても何も改善話されなかった。自分で修繕しようとすると「村の重鎮たる住職が情けないことをするな」と叱責されてしまう。
世間の喧騒から解放された今心にゆとりがあるがゆえに珍しい感情が芽生えてきた。
(よくない、これはよくない)
いつか父を超える住職になれば母はきっと認めてくれる。今はそう思い込むことにした。
それからしばらくして寒い夏が過ぎ涼しい秋が訪れようという時期に飛び込むように来客が現れた。
父や祖父の代であれば用もなくふらりと寺を訪れ時間を潰すという村民もいたが私の代になってからそういう人は見かけない。私個人の人徳や威厳と言った話ではなくそういう人たちがもう出歩くのもきついか既に亡くなっているからだ。
つまりこの時期の急な訪問となると
(誰か亡くなったか)
とおよそ見当がつく。
どんどんと村の人口が減っていく。人が死ぬのは仕方がない。病気であれ事故であれいつかは必ず人は死ぬ。だがそれ以上に村を出る人間が増えている。いつからか葬式の回数よりも村を出る人間の見送りの回数のほうが多くなっている。
それでも村の老人たちに危機感はない。漁師の平均年齢が10歳上がろうと小学校のクラスが減少しようと決して焦らない。
いつかは村に帰って来ると本気で信じているからだ。それは自分たちが持っている郷土愛、残す家族への感情が今の若い人たちも持っていると思い込んでいるから。
少なくとも私の世代、いや私にはなかった。だが帰ってきた。私は村に縛られている。
座布団から腰を上げ玄関へ向かうと一人の男性が母と話をしている。二人とも青い顔をしている。
「こんにちは、
宗像健三。年は私より少し上だが若くして檀那の代表を務めている。
「こ、康生さん」
珍しく母が動揺している。その様子から誰かが亡くなったのは間違いないのだろう。しかし仕事柄特別珍しい事でもない。つい先日も雑貨屋の間藤さんが亡くなった。いくら年配者が多いとはいえこう連続で不幸が続くことを訝しんでいるのだろうか。
「忙しい所をすいません、康生さん」
宗像さんはボロボロの作業ズボンに垢で汚れたTシャツの上にジャケットを着ている。
「いえいえ私はいつでも大丈夫ですよ」
そう言うと彼は目元を緩め少し落ち着きを取り戻した。年齢以上に苦労を感じさせる皺が刻まれた額は汗で光っている。村で誰か亡くなるとまず彼のもとに連絡が入る。そうなると彼は寝ていようと仕事していようとすぐに私のもとへ走ってくる。
(彼も苦労している)
そう思うと彼の滑稽な格好も同情したくなる。
「それで……今回はどなたが?」
「さすが康生さん。話が早くて助かります」
彼も口ぶりに悪意はないがまるで最初から私が誰か死んだことを前提にしているようで気分はよくない。横目でチラッと母を見るが相変わらず動揺したままだ。
「ああ……。小田原さんです」
「小田原さん?」
名字だけではスッと思い出せない。誰だかわからないというより候補者が複数人いるためだ。
「そうですか。それでは今後の予定を……」
「いや、たぶん康生さんは勘違いされます」
「勘違いですか」
何のことだかわからない。不幸があったことは確認したはずだ。
「亡くなったのは源蔵さんのお孫さん。勝次君です」
「小学校に上がったばかりなのにねえ」
母はうっすらと涙ぐんでいる。
「夏風邪が酷くなって最後は肺炎だったってことです」
子供の葬式ほど嫌なことはない。何度か経験しているが明らかに空気が違う。葬式ばかりではない。しばらくは村全体が見えない闇で覆われたかのように静まり返る。
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