第16話

雑貨店の店主、間藤さちは判で押されたように毎日5時半に起床する。台風の日も大雪の日も戦時中もそれは変わらなかった。

よほどの悪天候でない限り店舗前の清掃、その後に家事をこなしていく。それを嫁入りから数十年続けてきた。口にはしたことはないが何もこんなに早起きせずともこれらすべてはこなすことが出来る。

だが夫より遅く起きることなどあってはならない。誰に言われるでもなくそう思い過ごしてきた。


だが夫が亡くなってもこの習慣は未だに残っている。

村の若い人たちには感心されるが同世代の女性はだいたい似たようなものだった。強迫観念も長年続けば体に染みつき習慣となり、そしてそれが崩れると得も言われぬ不快感に襲われてしまう。


それに夫の「店の前が汚れていたら誰がそこの店で買い物しようと思う? 思わんだろ。だから村が起きる前に綺麗にするんだ」という言葉には私も同感だった。

だから夫が亡くなってもこの習慣は続けている。大袈裟だがそうすることで夫の意思を継いでいるような誇らしい気分にもなる。


とは言え気分だけ継いで終わりというわけにはいかない。夫が亡くなった時家族の反対を押し切って店を残すことに決めた。その時は反対する家族に立腹して「一人でやるから手伝わなくていい」と啖呵を切ったはいいが、まともな教育を受けていない私にとって簡単な話ではなかった。

夫の生前私がしてきたことは雑用ばかり、仕入れ関係は業者さんが懇切丁寧に説明してその都度在庫状況から判断して適当な品数を運んできてくれている。


しかし帳簿関係はさっぱりだった。何も知らない私は「別にいいか」と面倒がって後回しにしていたが役場に勤める方に「それはマズい」と言われて慌てて取り掛かった。

見よう見まねで帳簿の横にそろばんを置き面倒事に対面したが1時間、2時間と時計の針だけが進んでいくだけだった。


村で自営業する人に色々聞いてとりあえずはわかった気になっても自分の状況に置き換えると途端にすべてがわからなくなる。

店に足を運んでもらい詳しく聞けばいいのだろうがほとんど道楽で店をやっている私のために生きるために懸命に働く人を煩わせるのは気が引けてダメだった。


結局隣町で暮らす娘に頼み込んで手伝ってもらった。別に勤めに出ているわけでもない娘が最初こそ苦戦していたが幾分も経たずにすらすらと帳簿の空白を埋めていく様子を見て世代の差、時代の違いを感じたのを今でも覚えている。


それから10年とちょっと経ち、なんだかんだ言いながらも手伝ってくれていた娘がある日深刻な表情で私に向き直った。

「母さん、もう店は閉めたほうがいいよ」

「どうして? 手伝うのもう嫌になった?」

そんなことが理由じゃないことは十分にわかっていた。

「わかってるんでしょ、これじゃあお父さんの蓄えも持って1年か2年。気持ちはわかるよ? でもここまで無理して残すことをお父さんは望んでたかな? 今の店を見て喜ぶかな?」

「わかったようなこと言うんじゃないよ」

娘が正しい。その時ですらそう思ったし今でもそう確信している。達観したような言い方をすれば「私もよくない年の取り方をしたもんだ」。

正論を言われて頭に来た、というより諦める理由に故人を持ち出されたことが癪に触ったのだと思う。


それがつい先月の話だ。案の定今月は娘が来てくれない。

帳簿の記し方なんてずっと隣で見ていたのだ。今度こそ見よう見まねで何とでもなる。遅くに出来た娘でまだ30を少し過ぎたくらいだ。人によっては孫だと勘違いもされる年齢差だ。嫁入りしていないのは今時の女性にしては珍しく経済的に自立しているから。それに私も夫も可愛がり過ぎて他所に出したがらなかったこともきっと影響している。

そんな娘と月に一回会えるのを楽しみにしていないわけがなかった。


今日も機械のようにぴったり5時半に目を覚ます。布団をしまい、昨晩出しっぱなしにしていた帳簿類をタンスに仕舞う。普段であれば出しっぱなしにするなんてありえないのだが娘の件で少なからず動揺しているのだろう。

それに最近膝の調子悪い。去年の秋辺りから調子が悪かったが春になり暖かくなって少し快復していた。暑い夏にも関わらず……。8月下旬とは思えないほど涼しいせいだろうか。


痛む膝を庇い庇いサンダルを履き、ほうきと塵取りを手に扉を開ける。

既に日が出ているがまだ肌寒い。3平米程度の小さな庭は背の低い雑草がチラホラ見える。庭いじりの趣味はないがこのまま放置するわけにもいかない。この後の雑草取りの雑用まで考えると頭まで痛くなる。

住居用の出入り口から狭い道を通り店のシャッター前へと回り込む。歩いているときも右膝がジャリジャリと気味の悪い感触が体重が乗るたびに響いて気分が悪い。


正面に回り込むと村では大きめの道路に出る。車道に引かれた白線の外側は側溝程度の幅しかない。歩行者がすれ違うには狭すぎるがここを通る車は数える程度。今まで誰も危ないと思ったことはないだろう。

人通りはないが近くの家からは物音がする。村民にとってこの時間は外に出るには早いが起きるのは決して早すぎることはない。


「今日は少ないわね」

交通量が極端に少ない道路、それを毎日掃除してたった一晩でどれくらい汚れるだろうか。それがこの時期は驚くほどゴミが散らかっている。

温泉街に向かい若者が車から捨てて行くゴミ。市の中心街と温泉街を一直線に結ぶこの道路は夏のこの時期だけ夜に交通量が増える。しかしその時間は既に村は眠りに落ちている。


祭りの時期が落ち着いてもパタリと人が絶えるわけでは無い。そこから数日、長い人だと数週間も温泉街で過ごしたりする。ここ数日はそういった夏の残滓が道路に捨てられていた。

だが今日は少ない。


体調を考えて半纏を着てきたが正解だった。まだ冷えた空気が衣服を間隙を縫って肌を刺激する。

(さっさと終わらせましょう)

秋は枯葉、冬は雪と所要時間が増えがちだが春と夏は自然物が少なく掃除自体は比較的に楽ではある。もちろん捨てられたゴミは夏が多いが回収するだけであればそれほど苦ではない。


店から東西に伸びる道路にそれぞれ10メートル程度が彼女の掃除範囲だ。もちろん誰が決めたわけでもない。広すぎても狭すぎても不便があり、いつの間にかこの程度になっていた。

市内へと向かい道路の掃除を終わらせ温泉街方向へとほうきをかけながら歩き進む。落ちているビールの空き缶を拾い上げると中身が僅かに残っていた。

「もう、やだわ。せめて飲み切りなさいよ」

一旦空き缶を道路脇に置こうとした時、視界の端に見慣れないものが映った。


さちは身体をぶるっと震わせる。

誰かに頭を掴まれてるような感覚に襲われ、異物の方向へ顔を動かせない。

動けず同じ姿勢のままいたせいか、膝が痛みだし足が震えだした。恐怖と痛みの限界で座り込むようにしりもちをついた。

先程まで肌寒さを感じていたのに今では冷たい汗で肌着が濡れて気持ちが悪い。


状態は変わったが状況は変わらない。「このままではずっとここから動けない」滑稽だがその時は本当にそう考えていた。

しばらくそのままでいると、後方から轟音が聞こえてきた。大きな振動とともに近づきそして横を通り過ぎて行った。

温泉街で工事でもするのか音の正体は10トンダンプだった。

歩道がない道路だ、ほとんどさちの真横を通る。彼女はほとんど反射で体をよじり隣家の駐車スペースへと退避した。


状況も変わった。さちは異物の正体をしっかりと確認した。そして拍子抜けした。

「あれあれ、カラスだったのね」

ただのカラスの死体をまるで魔物のように恐れてた先ほどの自分が恥ずかしくなり誰に聞かせるでもなく独り言を口にする。

「車にでも撥ねられちゃったのかしら」

近づいてみるが外傷の有無はわからなかった。


「どうしましょう。このままじゃ可哀そうよね」

それに放置するのは清掃という目的にも反する。

「死んだ動物に構うな。同情するのもよせ」

「どうして? 可哀そうじゃない?」

これはどれほど昔の会話だろうか。あの時は確か人懐っこい野良犬だった。夫は「死んだ動物に同情すると憑かれると言っていた。

「さて、どうしようかしらね」


掃除と同情、どちらが夫にとって大事だったか。そしてどちらが私にとって重要か。やはりあのままにしておくことは出来なかった。

簡単にだが庭の土を掘りそこに埋めた。これを機に庭を整えるのも悪くはない。もう少し膝がよくなってからだが。

「これで祟らないで頂戴ね」

さちはそっと泥だらけの手を合わせた。

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