第2話

「はぁ……」

藤田美紀は深いため息をつく。キッチンで煮込まれているカレーのいい匂いと窓から差し込まれる燦燦とした夏の陽光に美紀だけが不似合いな重い空気を纏っている。

(今年もこの時期がやってきた)

もうすぐ粟坂村に住んでいる親戚連中がこの家にやってくる。

盆と正月は毎年のように飽きずに集まり重厚な挨拶をかわし、そして私を虐げるのだ。

皆が遠くに住んでいて滅多に顔を合わせないのであれば私も納得する。しかし狭い村内に住みほとんど毎日会う、会える距離にいるのだ。

「本当にしょうもない連中よ」


煙草入れから最後の一本を取り出し火を付ける。吐き出される紫煙は行儀よく換気扇へと吸い込まれていく。

そもそもこんな村で生活しようなんて子供の頃は少しも考えなかった。むしろ「絶対にこの村から出て都会で暮らすんだ」と意気込んでたくらいだ。

幼心にも、いや今はよりこの村に魅力を感じない。

かび臭く、閉鎖的で、何よりも娯楽のない村民の楽しみは噂話しかないことが我慢できない。プライベートなどないに等しい。


高校を出て美紀は市内の二年制の女子大へと進んだ。本当は普通大学に行きたかったが母が反対した。

「女が勉強したって仕方ないのよ」

自分が無学だからってそれを私に押し付ける。それで折衷案として二年制の短大で我慢した。


短大生活は楽しかった。あっという間に2年の月日は流れた。

とにかく村から出られたことに満足した。閉塞的で息苦しい生活から解放されていた。


その後は幸運なことに市内にある地方銀行に就職することが出来た。その銀行の将来性なんてどうでもよかった。

「ああ、もうこれであの村に帰ることも無い。自分で自分の人生を決めたんだ」そう思うと幸せだった。

しかしそう上手くはいかなかった。どこかで我慢するべきだったのだと思う。

そうすれば少なくとも今よりはずっとましな生活を送れていたと思う。


「ただいま!」

玄関から息子の翔平の元気な声が聞こえる。

「ちゃんと手洗いなさいよ」

短くなった煙草を水で消しゴミ箱へ捨てる。夫は自分も吸うくせに翔平の前で私が喫煙することを窘める。

「最後の一本だったのに、タイミングの悪い子」


銀行での仕事はお茶くみにコピー、買い出しと雑用ばかり。数年待てど何一つ銀行らしい仕事は与えられなかった。偶に自分の勤め先の記述のある書類を見てようやく「ああ、そういえば銀行勤めだった」と思うほどだった。

それで満足するべきだったんだ。だが私は上司とケンカ別れの形で銀行をやめた。

「どこも特別な資格のない女なんて欲しがらないよ」

上司の言葉は正しかった。


転職は全くうまくいかなかった。面接で手ごたえすら感じない毎日。

少しづつ蓄えも減っていく。青森よりも仙台や東京に出れば雇ってくれるところもあるかもしれない。そう思いながらもずるずると市内で貯金を減らしていった。

さっさと行動に踏み切らなかった自分が憎らしいが今思うに最初から青森を出るつもりがなかったのかもしれない。きっと予防線が欲しかっただけなのだ。


そして貯金が尽きる前に私は両親のもとへ、この大嫌いな村へと帰ってきた。完全な敗北宣言だった。

母は自分の発言の正しさを証明できたと言わんばかりに嬉々として私を責めた。

「だから言ったでしょうよ、女が勉強しても意味ないの。だって雇ったってすぐ結婚してやめていくじゃない、そんなのどこが欲しがるのよ」

言い返したかった。「女にも家庭以外に生きてる人はいる、それは特別なことじゃない」って。

だがこの封建的な村にいる人間にそれを言ったって無駄だろうし、何より自分自身がその生き方で挫折したばかりだ。


その後私は市役所に勤める藤田敬一郎という男と結婚した。無口な男だ。毎朝同じ時間に起きて同じ時間に出勤し同じように帰宅しそして同じ時間に寝る。判で押したように毎日同じことを繰り返している。

休日は翔平と村の中を散歩するか昼間からテレビを見ながらビールを飲んでいるくらいだ。


つまらない男でも市役所務めというのは私にとってチャンスだった。

村から市役所まで距離にして1時間以上、朝の込み具合を考慮すれば2時間はかかる。この村を出て市内に住んだほうがずっと楽なはずだった。

しかし何を思ったのか義両親は村の空き地に夫のために家を建てた。それがこの家だ。

「あなた、毎日この村から通うの大変でしょ? 家の件は断るか場所を市役所の近い所にしてもらえないの?」

「父さんと母さんは俺たちに近くにいて欲しいんだよ、それくらいわかりそうなもんだけどな。君だってご両親の傍に住んでるほうが安心だろ?」

二度目のチャンスがあっけなく砕け散ってしまった。


古臭い村の中では浮くほど立派な家ではある。普段畳の上で生活している年寄りには珍しいらしく新築祝いで親戚連中が集まった。

いくら家主とはいえ実質金を出したのは義両親だ。私はほとんど給仕のような扱いだった。それでも短い時間の辛抱だと思っていた。

「ジジババどもには洋式の家など合わない。すぐに飽きてこなくなるはずだ」

そう考え歯を食いしばりひきつった笑顔で対応した。

「集まるときはこの家にしましょうよ。広いし綺麗だしみんなの家のちょうど真ん中にあるじゃない」

さすがに夫も事あるごとにこの家に集まられては困ると思ったのか困惑した表情でいたが、やはり強くは言えない。そんな夫に歯痒く思ったが立場を考えれば無理もない。それでも断ってほしかった。


それから1年もしないで翔平を身ごもった。少しもうれしくなかった。それどころかこの家に集まる理由がまた一つ出来たと考えたほどだ。

「これで一生この村に縛られた」そう思った。

偶に思うのだ。何もかも捨てて粟坂村を出てもう一度やり直すことを。

しかし空想の中ですらうまくいかない。いつも必ず翔平が私を見つけ出し村へと連れ戻してしまう。


「お母さん、今日のご飯は?」

毎日外で学校の友達と遊んでいる翔平の顔は真っ赤に日焼けしている。汗で髪の毛もぐっしょりと濡れている。

「カレーよ。翔君、夏休みの宿題やってるの? 去年は苦労したでしょ、毎日少しずつやっておきなさい」

「わかった」

去年夏休みの宿題をため込み半泣きで消化していたことをもうこの子が忘れている。

「返事ははいでしょ」

「はーい」

翔平は私の後ろの鍋をチラッと見た後、自分の部屋へと走っていった。


あの子を産んで8年になる。初めて自分で立った時や入学式の時には感動だってしたし愛情が無いと言えば嘘になる。それでも、それでも。

「産むんじゃなかった」


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