その名前は、水田マリ
柚木有生
あらわれて、いなくなるまで。
彼女の名前は水田マリ。名前のとおり、水たまりである。
その日、陽平は部活をサボって帰路についていた。昨夜降った雨の残りが、いまだに道路や看板を濡らしている。町が泣いているみたいだ。
泣いている――――今朝のニュースで見た遠い異国の紛争地域の映像が頭によぎる。
気分転換にと立ち寄った公園の隅で、大きな樹木が育っていた。伸びた枝先が頭に触れるまで近づくと、足元に水たまりが見えた。ため息と呼ぶには大きく吸いこんだ息を深くはきだす。すると、目の前に垂れた葉の表面をなぞるようにして水滴が落下した。足元の水たまりで、同心円状の波紋が広がる。
なにしてるんだろ、と思いじっと水たまりを眺めていると、向こう側の自分と目が合って、段々と目が離せなくなった。しばらくそのままでいたら、いつのまにか自分じゃない自分が水たまりのなかにいるようだった。
改めて見ると、本当にそうだった。いつのまにか、そこには陽平ではない人の姿があった。
「ちょっと、そこのあなた。ここから出るの手伝ってくれない?」
水たまりのなかから声をかけてくる同い年くらいの女子。自分が着ている制服を、水のなかで彼女も着用していた。
「聞いてるの?」
「聞いてる、聞いてるよ」
辺りに人がいないのを確認してからこたえた。一人で話している学生だと思われたら困る。
「君さ、指先を水たまりにつけてくれない?」
「え、」
あからさまに嫌そうな顔をした陽平に、彼女は指先をこちらに向けて頬を膨らませる。
「いいからやって」
渋々了承し、土で濁った水たまりの水面に指先で触れる。
その瞬間、まるで電気がはしったような刺激に陽平は身をのけ反らせた。尻もちをつかなくてよかった、とほっとしていたら水たまりが淡く光りだした。なにごとかと驚く間もなく、今度は眩い光が視界を包む。
そして、
「大成功!」
視界が開けると、水たまりのなかで話していた彼女が目の前に立っていた。
「私の名前は、名前はそうね、水たまりだからえーっと」
呆気にとられている陽平など気にもせず、彼女は近くに落ちていた枝を使って地面に文字を掘り始める。その様子をじっと観察していたら、彼女がいきなり立ち上がって振り向いた。
「決めた!」
陽平もよろよろと立ち上がり、彼女の足元をのぞく。地面には名前らしき文字が刻まれていた。
水田マリ
「私の名前は水田マリ。よろしくね」
どうやら彼女は水たまりそのものらしい。それはことの経緯から考えても、彼女が現れたら足元の水たまりが消えたことからも大体察しはついていた。しかし、察しがついているからといって受け止められるかはまた別の話。家に帰って部屋にこもり散々考えた結果、考えないことにした。
だって水たまりが人になるなんて話、信じられないだろ?
陽平が家族や友人といるときにはあまり姿を現さなかった彼女だが、それ以外の場ではしょっちゅう姿を見かけた。
「つまんないね」
そのくせ、水田はよくそういった言葉を口にした。あまり気分はよくない。
「ふつうさ、私のこともっと聞かない?」
「最初に聞いた。驚いたよ、水たまりだって? 今でも信じてないけど。まあでもそれならそれで」
仰向けになって読んでいた漫画を脇に置く。横を向くと、彼女のじとっとした視線とぶつかった。
「ほんと、つまんない」
彼女は呆れるように呟いて、風で水を弾き飛ばしたように飛沫となって姿を消した。ふつう、なんて言葉を一番言われたくないやつに言われたな、と強く思った。
数日が経ち、彼女が自分にだけ見えている存在だと発覚した。
陽平がすっかり幽霊部員になりつつある放送部の全員参加ミーティングに、彼女はなぜか参加していた。教室の後方、中心あたりに置かれた机の上に座っているのに、誰も水田に目を向けない。顧問が配ったプリントも、彼女までは回らなかった。
顧問が招集をかけたのは、次の大会に向けて練習内容の一新を提案するためだった。
「放送部に大会なんてあるの?」
問いかけてくる水田に、説明の代わりとして配られたプリントを指さす。彼女は腰を曲げ、机に置いたプリントをのぞく。不思議なことに、顔の前に彼女の顔が重なっても、その奥に座る同級生の姿はぼんやりと見ることができた。まるで水中でゴークルもなしに目を開けたように、ぼやけてはいたけれど。
翌日からの発声練習には仕方なく参加した。私もやりたい、という水田の意志を無視したら、四六時中話しかけられるようになり、時には友人とのあいだに入り込み視界を阻害するようにもなったのだからやむを得ない。
練習はいつも校舎の壁に沿って立って行っていた。直射日光は避けても、梅雨の時期はもうじめじめしていて、汗で制服が張り付いた。そんななかでも彼女は真面目だった。顧問からのアドバイスにだって、誰よりも大きな声で返事をしていた。届かないのに、彼女は真剣な表情をしていた。
水田マリが現れてから数日、雨が降っていない。そう思っていた矢先、彼女は姿を現さなくなった。翌日も、翌々日も見かけないからなんだか不安になってきた頃、彼女はまた飄々と現れた。
その日は、久しぶりに雨が降っていた。
「つまり水田は近くに水たまりがないと消えちゃうってこと?」
「そういうことになるのかな」
ベットに広げっぱなしだった漫画を読みながら、水田は伸ばしていた足をじたばたさせた。他人事みたいだ。
「こないだの雨は強かったからここ数日はいれたけど、今回は弱かったからまたすぐ消えちゃうかな」
「消えてるあいだはどうしてるの?」
「雨が降った別の地域で過ごしてる。そうだ、君も行ってみる?」
「……行けるの?」
彼女は意外そうに眼を見開いてからゆっくりとうつむき、首を横に振る。
「行かない方がいいよ。ううん、違う。行けないことが、幸せなんだよ」
諭すような、優しい声音だった。
その日の晩、リビングでニュースが流れていた。テレビ画面のなかで、砂埃が舞い、銃声が鳴り響き、男の人の怒鳴り声がする。火に背を向けた親子が、雨に濡れながら懸命に走っていた。
視線をずらすと、カレンダーに書かれた祝日の赤色が目に入った。来月にはもう夏休みがやってくる。陽平にとって、サボろうか迷うほどの大会が迫っていた。
涼しい部屋で考えごとばかりしている自分が腹立たしくて、ソファに拳を押しつけた。
大会について詳しい説明を聞いていなかった陽平を、顧問は勝手にアナウンス部門へとエントリーしていた。アナウンス部門は、自分で作った原稿を読みあうらしい。大会までは、あと一か月もない。
あれから一週間も雨は降らず、水田マリは姿を見せなかった。会いたいとは思わないが、最後に言葉を交わしたときの彼女の表情が忘れられず嘆息していた。
原稿も題材は自由らしく、一向に進まない。人の前で読んで伝えたいことなどなにもなかった。
なにもない? 本当に?
考えるだけ無駄だと、諦めたフリをして逃げていたことが、頭のなかを徐々にうめていく。それもこれも水田のせいだ。だいたい、このまとまりのない感情をどう伝えればいいというのだろう。
休日は一睡もできずに終わった。
けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止め、カーテンを開けた。外はまだ薄暗いが、朝だからではなさそうだ。空は曇で満ちていた。
窓を開けると雨のにおいがする。部屋のなかで気配がした。確信をもって背後を振り返る。
「久しぶり。少しは変わった?」
「そんな簡単に変われないよ。僕は僕のままだ」
水田はふっ、と笑いをこぼし、陽平に顔を近づける。
「あなたにしかできないことなんて、きっとどこにもない。それでもあなたが望むなら、やらなきゃいけないことは、いつだってすぐそばにあるはずだよ」
ああ、そうか。だからいまできるのなら、しなくちゃいけないんだ。
おそるおそる、水田の肩に手を触れる。静電気のような刺激が指先に伝わってきたが、今度は離さない。肩に触れた指がゆっくりと彼女のなかに沈んでいく。指、腕、つま先、肩、膝、顔。時間をかけて、少しずつ。
やがて陽平は、水田マリに包まれた。
そこから見えるものはテレビの映像と違い温度があり、手触りがあった。火は熱く、瓦礫は堅く、ガラスは鋭利で、漠然とした恐怖にすべてが支配される。
そこでも私は生きていて、逃げ惑う人々ともに生きていた。
外はまだ雨が降っていて、気づくと壁にもたれてベットに座っていた。
水田マリの姿はどこにもない。
きっと、もう永遠に会うことはない。
大会当日の朝。陽平は食パンをかじる手を止めた。テレビのなかで、一人の女性がインタビューに答えている。声は吹き替えられていて、字幕がつけられていた。
「どうかわたし達の暮らす世界が、平和でありますように」
女性は指を絡め空を見上げていた。頬を伝う涙の落ちた行き先は、水たまりだと思った。
投げた言葉を受け止めた空。
言葉の雲から降らせた雨は、想いを人から人へと紡いでいく。
町はずれにある大学の講堂で、制服の種類が違う多くの生徒が原稿を読んでいた。
陽平はブレザーを脱ぎ、カッターシャツ姿で一人、舞台の中心に立つ。マイクを口元の高さに合わせ、声をあげた。
「〇〇高校二年、柴山陽平。原稿の題名は、遠い国のわたしたち、です」
原稿の内容は頭に入っていた。ずっと前から、頭にあった。すらすらと、淀みなく言葉がついて出る。上手いかどうかなんて分からない。もしかしたら大会の趣旨と違うのかもしれない。それでも、言いたかった。
読み終えて、ゆっくりと息を吸う。離れた椅子に腰かける審査員をざっと見渡し、お辞儀をしてから舞台をはけた。
講堂の隅にはめこまれたガラス窓越しに、雨が降っているのが見えた。窓を開け、陽平は手を伸ばす。
指先に、雨粒が落ちた。
その名前は、水田マリ 柚木有生 @yuki_noyuki
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