第17話 勧請祭①
志島はボランティア委員会のメンバーに別れを告げ、ひとり夜の新東京市へと躍り出た。乗客のいない循環バスに乗ると不意に胸が苦しくなった。人差し指を曲げ、無意識のうちに噛む。幼い頃からの癖だった。痛みによって我に返ると、指にはにくっきりと歯形がついていた。
「やれるさ。これまでだって、そうして来たじゃないか」
車窓に映る己の影に志島はそう言い聞かせた。
バスを降りると、停留所で待っていたのはダン・クローヴァだった。キャフェテリアで送信したのはダンへのメールだった。たったひと言『私は挑む。あなたはどうする』と。
「待っていたよ。カラテ・ガール」
ダンはニヤリとして二本指で合図を送った。
「来ないと思っていた」
バスのタラップを降りると、志島はいつものように薄く笑った。
「女性からの誘いを断るほど野暮な男ではないさ。それに私も探求者だ。一度好奇心を駆り立てられたら、抗えない性質でね」
ふたりは肩を並べて歩き始めた。向かう先は決まっていた。
「ここから先はレッドラインだ。踏み外したら助教授という地位を失うやも」
「それは君だって同じだろう。成藍学園の女生徒がこんな夜中に神社を家捜なんて、バレたら洒落にならないぜ」
「私は踏み越える覚悟を決めた。もう後戻りはしない」
「そうやって何もかもひとりで背負い込み過ぎるな。どうして私がここにいると思っているんだ?」
志島は歩を止め、ダンに向かい合った。
「判った。もちろんドジ踏むつもりなんて毛頭ないけれど」
「それじゃ、今日のところはバディというわけだ」
ダンは志島に手を差し出した。志島もダンの手に応じた。ふたりは堅く握手を交わした。
新東京神社へ近づくにつれ、ふたりは徐々に異変に気づき始めた。最初は人の気配。宵の口だが、それにしては往来が多かった。次に感じたのは臭気だった。神社を目の前にすると、えも言われぬ臭いが鼻を突いた。それは魚が腐敗したような臭いだった。鳥居を潜ると、境内には出店が建ち並び始めていた。出入りする人影は、皆忙しく設営に勤しんでいる。
「夏祭りにしては、時期が早すぎるな。それにしてもこの臭いは一体何だ? まるで魚市場にでも迷い込んだみたいだ」
新東京神社は今、勧請祭に向けた準備の真っ最中だった。ふたりは、人混みに紛れ参道を奥へと進んだ。
「勧請祭は
巻貝の壺焼き、魚の串焼き、その他魚介の焼き物に揚げ物、煮物まで。参道の両脇に軒を連ねる出店は、どれもこれも海産物を扱う出店ばかりだった。祭りの準備となれば鮮度の落ちた素材が臭っても不思議はなかった。だが、ダンは首を横に振った。
「この臭いは、そんな生易しいものではないぞ。ここに居る者全てから発せられていても、おかしくないくらいだ」
設営のために出入りする者は、誰も彼もがに股でひょこひょこと奇妙な足取りで歩いていた。大きく見開かれた眼にそぎ落とされたかのような鼻、への字に曲がった口。囁く言葉に耳を傾けても、ぴちゃぴちゃと口を鳴らしているようで聞き取ることすらできなかった。
「皆、風体が似ている。
「
「急ごう。臭いよりも嫌な予感がする」
ふたりは奇妙な相貌の者どもからの視線を避けるように、歩調を速めた。
敷地の奥まった場所に社務所ははあった。鎮守の森を背にした古めかしい平屋建ての事務所といった赴き。周囲に人影はないが、窓から明かりが漏れていた。中に誰か居る。
「私に案がある。歩きながら聞いてくれ」
ダンは歩を止めぬまま耳打ちした。志島は同調し、社務所を遠巻きにぐるりと一周した。社務所は出入り口がひとつ。窓はふたつあった。裏手に回り、カーテンの隙間から中を覗くと三人の男がいた。
「了解。それでいこう」
ダンはの提案を受け入れた志島は、小さく頷いた。
「よし、それじゃ作戦開始だ」
ダンは懐からタコを模したお面を取り出した。先ほどの出店からひとつ失敬したものだった。サングラスを外してお面を被ると、張りぼてのタコ人間が完成した。
「どうだい? 似合っているかな」
志島は笑いを堪えるのに必死になりつつも、サムアップで応じた。
ダンは小走りに小屋へと近づくなり、扉を強く三度ノックした。
「一体、何の用だ」
「あー、トラブル発生だ。近隣住民と揉めているらしい。なんでも臭いが酷いとかで、警察を呼ぶと喚いている」
ダンは顔を出した法被の男に、でっち上げたトラブルを迫真の演技で訴えた。
「神聖な儀式の邪魔は許されぬことだ」
「こっちも商売あがったりだ。あんたら、追っ払ってくれないか」
法被の男は、奥にいるふたりに対して視線を送った。ふたりのうち図体の大きい方が応じた。
「わかった。俺が行こう」
「イヤイヤ、ひとりじゃ力不足だ。数で圧倒しないと、話にならないぜ」
手前の男が再び目配せすると、奥のふたりは頷いた。
「どこだ。案内しろ」
その言葉を聞くやいなや、ダンは空かさず踵を返した。
「そう来なくっちゃ。こっちだ!」
法被の男たちは、ダンに遅れを取るまいとヒョコヒョコと社務所を飛び出した。電気は消したが、扉は開けたままだった。
ダンと法被の男達が人混みに消えるのを見届け、志島もまた行動を開始した。制限時間は五分。五分経過したら、何があっても部屋を脱出しろ。手筈通り、志島は懐中時計のタイマーをスタートさせた。
「……ッ」
砂埃で汚れた床。もとより履き物を脱ぐ気などないらしい。志島は土足の部屋に上がった。腐敗臭は外の比ではなかった。音を立てぬように戸を閉ざすと、懐中時計のライトを点灯させ、それから部屋中に籠もった臭いを外へ逃がすために窓を開けた。
「あれは」
長机に折り畳みのパイプ椅子。古びたブラウン管のテレビに、スチールのキャビネット。ライトによって浮かび上がる部屋の様相、その中に見慣れぬ物があった。石膏像。志島の腰ほどの大きさで、人の形をしているが人とは大きくかけ離れた相貌だった。ずんぐりむっくりとした体躯に深海鮫ような禍々しいシルエットの頭部、鋭い爪の生えた手、ギラギラとした目を持つそれは、今までに見たことも聞いたこともない生物の似姿をしていた。
「これが
その像を直視した志島は得も言われぬ嫌悪感に襲われた。これ以上見たくない、と本能が叫んでいる。それでも勇気を奮い立たせ、
「……冷蔵庫」
比較的新しく、ありふれた型だった。しかし本来あるはずのない部品がその異質性を際立たせていた。戸に留め金がネジ止めされている。冷蔵庫の戸は、留め金によって堅牢に封じられていた。
「一体、何故」
志島が留め金を調べていると、ゴトリと音がした。志島は咄嗟にライトを消し、息を殺し、周囲を見回した。部屋の外からではない。音は冷蔵庫の中から聞こえてきたのだった。志島は唾をごくりと飲み込んだ。幸いにも留め金は簡単に外せそうだった。志島の手は無意識に動き、パチリ、パチリと留め金を外していった。
「……一体何をしているんだ、私は」
後悔するぞ、と本能が囁いている。それでも好奇心には抗えなかった。音の正体、それを確かめるべく、志島は冷蔵庫の扉を開いた。
テ、ケ、リ、リ。
鳴いている。まるでシンセサイザーが作り出す電子音のようだった。冷蔵庫の中にあったのは虹色に輝くアメーバ状の生物。溶液に満たされたガラス製の標本瓶の中で脈動している。脈動が瓶を振動させ、カタカタと縁に当たっている。
「……これがテケリリの正体か」
志島はすかさずシャッターを押した。ストロボを焚くと異変が起きた。アメーバ状の組織から無数の眼球が浮かび上がたのだった。それら無数の眼球は、一斉にぎょろりと志島を見た。流石の志島もたじろぎ、後ずさる。と、その拍子に机の縁に腰がぶつかる。ギギ、と音が立つ。
「しまった」
志島は耳を澄ました。遠くから玉砂利を踏みしめる音が聞こえる。懐中時計に視線を落とすと、タイムリミットまであと僅かだった。志島が逡巡する間にも、瓶はカタカタと鳴り続けた。振動によってガラス瓶は少しずつ動いた。そして、ついに端へと到達し、落下。
――ガチャン。
瓶が割れ、中身が飛び出した。と、その瞬間に五分経過を知らせる振動が発せられた。そのふたつの衝撃から、志島の心臓の鼓動は最高潮に達した。真っ白になる頭の中で、ただひとつ機能したのは本能だった。逃げろ。志島は脱兎のごとく、開け放った窓へと向かった。カーテンを捲り、窓枠に足を掛け、ひらりと部屋の外へと飛び出した。次の瞬間、部屋の戸が開いた。
「結局、誤報じゃねぇか。面倒掛けやがって」
「それより何か音がしなかったか」
志島の背後で、部屋の明かりが点る。
「お、おい! ヤバいぞ。アレが出てる! 誰だよ、ロック外したの!」
「早く捕まえろ!!」
部屋の中はドタバタと、プロレスでも行われているかのような騒乱状態に陥った。志島は腰を低くして、そのまま参道へと駆け出した。
拝殿の前で落ち合おう、それがダンとの約束だった。鉄の足場で覆われた拝殿。しかし、そこには誰も居なかった。賽銭箱の前まで来ると志島は異変に気づいた。賽銭箱の上にダンの被っていたタコのお面が置かれていた。
――ドサッ。
背後で不吉な音がした。振り向くと、石畳の上に人が倒れていた。その姿は紛れもなくダン・クローヴァだった。
「探しているのはこの男か?」
ダンは倒れたのではない。たった今、放られたのだ。気がつくと、いつの間にか法被を着た男達に取り囲まれていた。暗闇の中でぎょろりとした目を爛々と輝かせている。そして、一歩、また一歩と包囲を縮めていった。
「一体何の用だ」
志島はさりげない仕草で首に掛けた懐中時計に手を伸ばした。
「それは、こちらのセリフだねぇ。お嬢さん」
人垣をかき分け、ひとりの男が志島の前に現れた。僧侶のような衣を身に纏い、魚類のような相貌は表情らしい表情もなく、身体をゆらりゆらりと揺らしながら近づいて来る。見覚えがあった。眼前に現れたのは
「私の
深井が掲げた右手には、あの虹色に輝くアメーバー状の生物が握られていた。深井の手の中で、まるで心臓のように脈動してはテ、ケ、リ、リと鳴いている。その様子を認めた志島は懐中時計のリューズを押した。一回、二回、三回、四回……。
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