第15話 目眩

 その日の放課後は職員室から始まった。志島のタブレットに生徒会から一通のメールが届いたのだった。六限の授業が終わるなり、志島は職員室へと急いだ。教師の許しを得て複写機を借りると、タブレットからデータを飛ばした。出力されたのはメールに添付された表形式データだった。予算案と題され、細かな数字が記されていた。志島は改めて内容に目を通すと、胸の奥がメラメラと燃え上がるのを感じた。職員室を後にすると、足早に中学棟へと向かった。


 志島の姿を見た中学生たちは男子も女子も皆一同に色めき立った。何やら凄みのある上級生が、脇目も触れずに進んでゆくものだから。志島を見知る情報通の生徒が囁いた。彼女こそがボランティア委員会の委員長だ、と。

 きっと何かが起こる。その囁きは瞬く間に伝播していった。中学生達は志島の行く末を案じた。向かう先は四階に違いない。そこは普段生徒が立ち入らない特別な場所。彼女が赴くとしたら、あの部屋しかないはずだ。中学棟の四階には講堂があり、校長室があり、そして生徒会室があった。

 

 志島は生徒会室の前に立ち、急き立てるようにドアを四回ノックした。やや遅れて返事があった。

「入りたまえ」

 聞き覚えのある声だった。ここに来るまでに思い巡らした予想のうち最悪のパターンが的中した。志島は無言のままにドアを押し開けた。

 開放感のある部屋が広がった。床にはカーペットが敷かれ、その上に重厚な長テーブルが設えられている。部屋の隅には観葉植物があり、壁には絵画が飾られ、テレビで放送されるような外交の議場といった趣。部屋の奥には新東京市を一望できる窓があった。窓の前面には執務用の机。席についていたのは石黒だった。

「待っていたよ。君ならきっと来ると思っていた」

「随分と偉くなったものだな。今から生徒会長気取りか」

 石黒は意表を突かれた素振りをした後、やれやれと肩をすぼめた。

「開口一番、随分なご挨拶だな。だが答えはイエスだ。立ち話もなんだから、君も掛けたらどうだ」

「結構。長居する気はない」

 石黒は鼻から鋭く息を吐き、嬉しそうに目を細めた。

「でも、私に会いに来たのだろう」

 志島はつかつかと歩み寄るなり、相手が言い終える前に机に紙を叩きつけた。

「これはどういうつもりだ」

 それは各委員会に割り振られる予算表だった。成藍学園の委員会活動と部活動は、生徒会によってその予算が決められていた。志島が叩きつけたのは、後期に割り当てられる予算案を示すものだった。志島が指で示した先には、ボランティア委員会の予算が組まれていた。額面がゼロとなっていた。

「見ての通りだ。後期以降、ボランティア委員会に割く予算はない」

 石黒は手を合掌に組み、せせら笑った。

「それがお前のやり方か」

「私は警告した。何の成果も上げられなければ、生徒会がその機能を引き継ぐと。その意思をはっきりと示しただけだ」

「よほどボランティア委員会を潰したいらしいな」

「これは合理的な判断に基づく組織再編の一環だ。生徒会としても組織運営の能率を上げたいのだよ。ところで塔屋の委員会室にはエアコンが備わっていないそうじゃないか。今はまだ良いが、これからの季節は厳しいぞ。それに学園一不人気な委員会と評されていると聞くが、君の耳にも届いているのだろう。生徒会に来て、その雪辱を果たしてみたらどうだ?」

「大きなお世話だし、言っている意味が分らない。……まさか、お前の下で働けという訳ではあるまいな」 

「不服か? 私は君の能力を買っている。実は君に任せたい仕事があるんだ」

 石黒の言葉に、志島は思わず鼻で笑った。

「ひどい冗談だな。あまりの愚劣さに、思わず吹き出してしまうほどだ」

 石黒は顔を真っ赤にして鋭い目線で睨み返すと、慌ててセルロイドの眼鏡を外して眉間を揉む仕草をした。

「そうやって、いつもいつも突っかかる。まったく君という女は実に手に負えんな」

「だから力で押さえつけようというのか」

 石黒は眼鏡を掛け直した。

「……次の議会ですべてを片付ける。予算案を通し、君を手に入れる。それが私の解答だ」

 志島は石黒の目の前で予算表を散り散りに引き裂いて見せた。

「やれるものなら、やってみろ」

 石黒は机の上に紙片が散らばる様を楽しげに眺めていた。一頻り済むと、徐に机の引き出しを開けた。

「ところで、胡桃坂あかねの件はどうなった? 君は彼女を助けたいのだろう」

 石黒が取り出したのは『つばさ』だった。それを、紙片の散らばる机の上に放り投げた。

「なぜそれを……」

「藤木戸だよ。酷い目に遭わされたとかで、君を相当に恨んでいた。彼の話によると、胡桃坂あかねについて根掘り葉掘り聞いていたそうじゃないか」

「……ッ」

「何をしようと君の勝手だが、敢えて伝えておこう。胡桃坂あかねの問題は、間もなく解決する。きっと来週から普段通りに登校するだろう」

「……何だと」

 志島は色を失った。

「つまり君のしていることは全くの無駄なんだ」

 石黒は勝利宣言と言わんばかりににっこりと微笑んだ。


 生徒会室を後にした志島は、階段を下りながら急な目眩に見舞われた。石黒の言葉は目に見えないナイフのように志島の胸に深く突き刺さっていた。そのことを自覚すると徐々に呼吸が浅くなっていった。次第に全身から血の気が引いてゆき、視界が消失していった。

「……まさか、これで終わりなのか」

 そう呟いた時には既に足に力が入らなくなっていた。


 もう、だめかもしれない。

 

 と、その時だった。不意に身体を支える力が生じた。誰かが倒れそうになった身体を支えている。遠くで誰かが名前を呼んでいた。何度も、何度も。 聞き覚えのある声だった。

「……先輩! 志島先輩!!」

 それは柊木なつきの声だった。


 見上げると柊木の心配そうな顔があった。横たわる志島、その後頭部を支えるのは柊木の膝枕だった。

「ここは」

「学校の中庭っす」

 志島が横たわっていたのは中庭のベンチだった。見上げる空は茜色に染まりつつあった。

「どうやってここまで」

「私がおぶって来たっす。先輩軽いから、楽勝っす!」

「そうだったのか……。それにしても、よく私の居場所が判ったな」

「中庭を歩いていたら中学部の娘たちがはしゃいでいたので話を聞いたっす。きっと四階に向かったんだろう、って」

「私は学園のアイドルか?」

「そういう年頃なんすよ。だって先輩は魅力的っすから」

「どうかな。……とにかく君のおかげで命拾いしたようだ。感謝するよ、柊木君」

 言葉が途切れると、柊木の表情はみるみるうちに沈んでいった。

「……何があったんすか。あの部屋で」

 志島は手を伸ばし、柊木の頬に優しく触れた。

「石黒と会った。今まだそれしか言えない」

 柊木は、触れる志島の手に、自らの手を重ねた。

「志島先輩」

「大丈夫。心配いらない」

 志島は穏やかに流れる時の中で、少しずつ力が戻るのを感じた。柊木も志島の顔に血の気が戻るのを見て、心が救われる気がした。

 

 私たちはまだ戦える。


 見つめ合うふたりは無言のままに決意を新たにした。

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