第14話 エルダーサイン

 委員会室にひとり残った志島は、名刺の傍らにタブレットを置いた。マイク付きのワイヤレスイヤホンを装着し、通話アプリのアイコンをタップした。名刺に記された番号を入力し通話ボタンをタップすると、イヤホンからコール音が流れた。数回のコールの後、回線が繋がった。しばしの沈黙。相手は見知らぬ番号に警戒しているようだった。

「……誰だ」 

「不服があるのなら連絡してくれたまえ、だったな」

 志島は冷ややかな調子で言った。

「その声は君か。カラテガール」

 相手は微かに安堵を覚えたようだった。だが志島の調子は変らなかった。

「私の名前を忘れたのか。ミスタ・レイバン」

「あれほど印象的な出会い忘れるわけがない。あの時の非礼を正式に謝罪でもすれば良いのかな? シジマ・イチカ」

 志島はソファに身体を預け、息を吐いた。

「お互いに心にもない言葉で時間を空費するのはよそう。単刀直入に言うが、考古学についてあなたの意見を伺いたい」

「進路相談のつもりか」

「いいや。話を続けても?」

「構わないが、それでは質問の範囲が広すぎる。考古学といっても様々な分野がある。民俗学に地学、人類学、歴史学、建築工学や土木工学に関係する場合もある」

「では質問を変えよう。あなたの専門分野は?」

「祭祀考古学だ。古代の祭祀について研究している。今もそのために日本に滞在している」

「御札はそのカテゴリに含まれるか?」

「紋章学なら修めている。研究にも少なからず関わりはあるが……」

「とある神社で見つけた御札について、意見を伺いたい」

「勤勉な学生からの質問というわけか。では、こちらも条件を提示させてもらおう」

「わかった。話してくれ」

「まず、その御札とやらを見てからでないと話にならない。次に理由を聞きたい。その口ぶりからすると、何か事情があるようだが……」

「例の襲撃と関係している」

「厄介な連中を相手にしたな。……いいだろう。詳しく聞かせてくれ」

 志島は天文神社で手に入れた御札について経緯を説明した。

「天文神社。星の文様。……イチカ、君は今どこにいるんだ」

「この街にいる。あなたは?」

「やれやれ、相変わらず一筋縄ではゆかないな。新東京神社にほど近い研究者向けの寄宿舎にいる。これから会えるか」

「駅前の『カフェ・レムリア』という喫茶店でなら」

「わかった。一時間後に会おう」

 通話アプリを切りイヤホンを外すと、学園アプリで三崎と柊木に、これからダン・クローヴァに会う旨を伝えた。


 平日の夜は、昼間と打って変わってひっそりとしていた。客層の多くは、仕事帰りの会社員だった。帰宅前の一時を、ビールグラスを片手に静かに過ごしていた。『カフェ・レムリア』は喫茶店というより、しっとりと落ち着いたダイナーのような雰囲気を醸していた。

 カウンター席に座るのはダン・クローヴァだった。キャメル色のスーツにレイバンのサングラスを掛けている。供されたホットコーヒーに砂糖とミルクを入れ、かき混ぜている所だった。スプーンをソーサーに置いたところで、隣の席に誰かが座った。見るまでもなかったので、そのままカップを口に運んだ。熱くて甘いコーヒーだった。

 隣席に着いた志島は「コーヒーを」とウェイターに目配せをした。

「待たせたか?」

「いいや。時間ぴったりだ」

「考古学か。インターネットで少し調べたくらいでは、まるで歯が立たないな」

「まだまだ未知の分野さ。新たな発見によって、これまでの常識が大きく覆される場合もある」

「祠祭考古学というのは?」

「当時の儀式の痕跡を調べて、何が行われていたのかを解き明かそうという試みさ。古代文明の探求者とでも言おうか。私は主に古代人の崇めていた神について調査している。ずばり『旧神』が研究テーマだ」

「旧神? 聞き慣れない言葉だな」

 カウンターにコーヒーが給仕された。志島は謎めいた言葉を呟き、それからカップに口を付けた。

「最もらしい反応だ。そもそも神の存在を定義しなければ、新しいも古いもないからな。君の言いたいことは判るよ」

「物質にも霊が宿るとか、大自然を神格化して崇めるとか、そういった類いの話か?」

「アニミズムやシャーマニズムとは根本的に次元の異なる話だ。旧神は原始宗教の表現でなく、確かに存在する」

 ダンの真剣な眼差しに志島は初めて相手の顔を見た。リラックスするように息を吐き、コケティッシュに薄く笑った。

「旧い神と書いて、旧神か……。今まで考えもしなかった視点だ」

 ダンは胸裏でささやかな喜びを感じた。それを悟られまいと、コーヒーをごくりと一口飲んだ。

「オカルトと一笑に伏す者も多いが、どうやら君は違うらしい。……それで、私に何を聞きたいんだ?」

「この御札の文様を見てくれ」

 志島はポケットの中から天文神社の御札を取り出し、テーブルの上に置いた。五芒星、その中に燃える眼の意匠。それを見た途端、ダンの顔つきが変った。

「……こいつは」

 ダンは御札を手に取ると、子供が玩具でも愛でるかのように瞳を輝かせた。

「何か知っているのか」

「確認させてれ。君はこれが天文神社の社の中にあったと言ったな」

「ああ」

「かつてその場所には旧日本軍の研究施設があった、とも」

「そして終戦後はGHQに接収された。その御札には、流行り神の慧留陀エルダ様が依り憑いているそうだ」

「……流行り神の慧留陀エルダ様か。ものは言いようだな」

 ダンは御札をカウンターに静かに置くと、何か冗談でも聞いたかのようにクスクスと笑い始めた。その様子は今までの情熱的な考古学研究者と明らかに異なり、どこか愉悦に浸っているようにも見えた。

「何がおかしい」

 志島は怪訝そうに相手を見つめた。

「すまない。まさか、こんな所で出会うとは思っていなくてね。もったいぶらずに結論を述べよう」

 ダンは冷静さを取り繕いながらも、興奮冷めやらぬまま口早に述べた。

「これはエルダーサインだ。すなわち旧神の印。エルダーサインは旧支配者を抑止する力を持っている。第二次大戦末期、旧日本軍は旧支配者の力を借りて起死回生を図ろうとしたのだろう。彼らは、この御札で力を制御しようとしたに違いない。その後GHQによって真実は闇に葬られた。大方の筋書きはそんな所だろう」

 志島は話の雲行きが怪しくなるのを感じ、咎めるような口調になった。

「……旧神の次は、旧支配者か」

「そう怪訝そうな顔をするな。私の意見を聞きたいのだろう?」

「すまない。続けてくれ」

 ダンはサングラスを外して志島と向き合った。その瞳は銀色をしていた。

「エルダーサインは少なくとも紀元前二〇〇〇年には存在していた。最初の発見はポリネシアのとある孤島でね。土器文明を持つ民族によって崇められていた。イエスの十字架、ダビデの星、あるいはイスラムの星三日月よりも遙かに古い歴史を持つ宗教的シンボルだ」

「それが何故、日本の神社に?」

「脈々と受け継がれているのさ。旧神を崇め奉る者の手によって。時に他の宗教に紛れ、教義すら変えて。だが本質は変らない。否、変えらないんだ。それは人の心の奥深い所に根ざすものだから。私はもちろん、君の心の中にも存在する」

「私の心にも?」

「人類誰しもが持つ絶対的な感情。宇宙的恐怖コズミックホラーだ」

 志島はしばし沈黙し、それから自らの意見を述べた。

「人類は日々進歩している。闇を恐れる時代はとうの昔に過ぎ去った。飽食によって飢餓も克服した。病気や老い、死すら恐れる必要のない時代だって訪れるだろう」

 ダンは心を落ち着かせるように、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。

「文明がいくら進歩しようとも、科学がどれほど発達しようとも、宇宙的恐怖コズミックホラーから逃れる術はない。むしろ科学が発達すればするほど、恐怖心は増大してゆく。謂わばコインの裏と表。エルダーサインはそれを諭すためにもたらされた旧神の叡智だ。人類は宇宙的恐怖コズミックホラーを前にして無力であると理解しなければならない」

「それがあなたの見解、というわけか」

 ダンはサングラスを掛け直し、改めて志島と向かい合った。

「いずれにせよ、これ以上は深入りしない方がいい。私も少し話しすぎてしまった。できれば今話したことも忘れて欲しいくらいだ」

「何を今更!」

 志島はカウンターに置かれた御札を素早く手中に収めた。

「過ぎたる好奇心は身を滅ぼすぞ。特に旧支配者に近づくのは危険だ。これは君の手に負える問題じゃない」 

 ダンの悔いるような物言いに、志島は憤然として席を立った。椅子がカウンターにぶつかった拍子に、コーヒーカップが音を立てた。その音が響き渡ると、周囲の視線が集まった。

「ご忠告痛み入るが、旧神にも旧支配者にも興味などない。私の動機は、ある女生徒を助けたい、ただそれだけだ」

 そういうと志島は五百円玉をカウンターにパチリと置いた。

「待ちたまえ!」

「あなたも探求者なら挑んでみたらどうなんだ? その宇宙的恐怖コズミックホラーとやらに」

 ダンはハッとした。颯爽と去りゆく志島の背中を目で追うばかりで、それ以上何も言い返せなかった。

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