第9話 ひとつの音、ふたつの神社②
志島は周囲を見渡した。路地には逃げ場がなかった。目の前の藤木戸は鼻息を荒くし近づいてくる。振り向こうとした瞬間、背後から両肩を掴まれた。
「……ッ!」
志島の背筋に悪寒が走った。強い不快感を覚えながらも、志島は冷静さを保ち続けた。相手に悟られずにポケットの中身を取り出すと、手のひらに握り込んだ。
「それで、どう思い知らせるつもりなんだ。その力関係とやらを」
藤木戸はぶつぶつと何かを呟きながら、身動きの取れない志島に迫った。
「……テ、……ケ、……リ、……リ」
その目は真っ赤に充血し、焦点が定まらなかった。半開きの口からはよだれがダラリと垂れている。人相すら変わり果て、志島の知る藤木戸はそこになく、さながら人の皮を被った爬虫類のようだった。
「正気を失いかけているのは、胡桃坂だけではないようだな」
藤木戸のぬめりとした手が首に纏わり着こうとした次の瞬間、志島は辛うじて動く腕を翻し、同時に瞼を閉ざした。やにわに閃光が走る。志島の手の中に隠されていたのは銀の懐中時計だった。藤木戸の眼前に掲げ、スイッチを押した途端、薄暗い路地は強烈なストロボ発光に包まれた。その鋭い光は直視した者の網膜に焼き付き、視神経を麻痺させるのに十分な威力を発揮した。
「目がぁぁぁ! 目がぁぁぁ!」
志島が持っていたのは懐中時計型スマートウォッチだった。背面に強力なフラッシュライトが仕込まれており、これを最大出力で点滅させたのだった。
「少し寝ていろ!」
志島の蹴り上げた右足が藤木戸の股間に直撃する。くぐもったうめき声と共に、膝から崩れ落ちる藤木戸。次に蹴り上げた右足を振り子の要領で、背中のひとりに向かって蹴り戻した。質量のあるラバーソールが向こう脛に直撃する。拘束力が弱まるのを感じて、今度は肘鉄を相手の脇腹めがけて打ち込む。右肩のひとりがずるりと力なく倒れ込むと、次に志島は身をよじり、左肩を掴む相手の手首を取った。そのままさらに身体を翻すと、重心を失った相手は為す術もなく転がった。追撃としてフラッシュライトをお見舞いする。
「……お前達は一体何者なんだ」
背後にいたのは中年の男だった。ふたりともホワイトシャツにスラックを身につけ、お祭りで着るような法被を羽織っていた。その法被の襟の部分には『勧請祭』と見慣れぬ言葉が記されていた。
「……テ、……ケ、……リ、……リ」
激しい明滅からの反撃に戦意を失うかと思いきや、三人はまるでゾンビのようにもんどりを打ちながら近づいて来る。志島は目の前の異様な光景に思わずたじろいだ。その一瞬の隙を突かれ、地面を這う法被の男に足首を掴まれてしまった。もう一度フラッシュライトを使おうとスイッチを押すも一向に光らない。
「こんな時に」
足を取られ、あわや転倒その時だった。
「ただの喧嘩ではないようだな」
現れたのはカーキ色の三揃のスーツを着た男だった。ウェリントン型のサングラスを身につけている。明るい髪色とすらりと伸びた背格好から、どうやら日本人ではないらしい。
「前言を撤回しよう。これは喧嘩ですらない」
男は這いつくばる者どもに拳を浴びせ、志島の足からその腕を引き剥がした。
「一体何のつもりだ」
「強がるのはよせ」
男は志島の腕を取り走り出した。走りながら携帯電話を取り出し、誰かに連絡を入れた。ひとしきり連絡を終えると男は歩調を緩めた。気がつくとそこは路地からだいぶ離れた場所だった。
「怪我はないか」
「大したことはない。ここまで来れば、もういいだろう」
志島は掴まれた腕を強く引いた。男は手を離し、大げさに肩をすぼめてみせた。
「大した娘だ」
「さっきの電話は?」
「警察さ。良識ある市民として見過ごすわけにはゆかないからな。彼らの動きは明らかに異常だ。まるで薬物でも摂取していかのようだった」
「あるいは、何かに操られているかのようにも……」
「確かにな。それにしても君の護身術は見事なものだった。その懐中時計のギミックについても、詳しく話を聞きたいところだ」
「助けてくれたことには礼をいう。だが警察にも、ナンパに付き合う気はない。ミスタ・レイバン」
「やれやれ、この私をミスタ・レイバン呼ばわりとは。警察に通報した手前、私はこの場に残らざるを得ない。しかし君を引き留める権利は持ち合わせていない。先を急ぐのなら行きたまえ。カラテガール」
「私の名前は志島一歌だ。カラテガールではない」
「これは失敬。不服があれば連絡してくれたまえ。私はダン・クローヴァだ」
志島はダンから名刺を受け取った。
「ミスカトニック大学」
「私の勤め先でね。何か気がかりな点でも?」
「いや。何でもない」
志島はダンの名刺をポケットに仕舞うと踵を返した。藤木戸と『勧請祭』と記された法被を着たふたりの男。彼らは、胡桃坂が伝えた「テ、ケ、リ、リ」という言葉を口にし襲いかかってきた。最中に現れたダン・クローヴァという男はミスカトニック大学の関係者。志島にとって忘れられない大学の名前だった。志島は後ろ髪を引かれる思いに駆られたが、今はその時でなかった。柊木が危ない。志島は気持ちを切り替えるように自らの頬を両手でぴしゃりと打ち新東京神社へと走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます