第7話 奇妙な音

 『カフェ・レムリア』を後にした四人は、約束通り胡桃坂あかねの邸宅へと向かった。そこは駅前からバスで十分ほどの場所だった。バスを降りると建売の並ぶ新興住宅地が広がり、道端では子供たちがボール遊びをしたり、カードのコレクションを自慢し合ったりしていた。先頭を歩くのは澤だった。泣き腫らして気持ちもすっきりしたのか、今はただ前を向いて歩いている。

「こちらです」

 澤が示した先には胡桃坂と記された表札。南欧風の住宅で屋根も壁も真新しかった。呼び鈴を鳴らすと、ほどなくして現れたのはハイネックのセーターを着た女性。目鼻立ちから一目で胡桃坂あかねの母親と判った。

「どうぞ上がってください」

 リビングルームに案内された。ソファに着くと、紅茶と焼き菓子が振る舞われた。ローテーブルに並べられたそれらを四人は遠慮がちに喫食した。

「娘にこんな友達がいたなんて嬉しいわ。あかねのこと、これからもよろしくお願いしますね」

 母親は努めて明るく振る舞った。だが目の下のクマやこけた頬から、疲弊している様子が伺えた。無理もなかった。実の娘が原因不明のまま一週間も引き籠もっているのだから。

「あかねさんの具合はいかがですか」

 開口一番、志島が尋ねた。

「自分の部屋に籠もりっきり、家族にも顔を見せてくれません。食事も部屋の前に置いて、一人で食べてもらっています。お風呂やトイレは家族が寝静まってから、ひっそりと」

「彼女が引き籠もってから、一度も顔を見ていないのですか?」

「一度だけ真夜中に部屋から降りて来るのを待ち伏せていたのですが……」

 胡桃坂の母親は、左手首を擦った。そこには湿布が貼り付けられいた。

「まさかそんな、あかねが……」

「何かの間違いであって欲しかったのですが、部屋の明かりをつけた途端、突き飛ばされたのです。これは、その弾みで。もちろんスクールカウンセラーにも相談しました。ですが最早こうなってしまったら心療内科の領域だそうです。受診させようにも強引に引っ張り出すこともできず」

「彼女とは会話はできるのですか?」

「ドア越しに簡単な会話なら。でも、それ以上となると……」

 胡桃坂の母親は沈痛な面持ちで、額に手を当てた。

「何度となく試しました。理由を問い質すと、まるで幼い子供のように声を上げて泣き出してしまうのです。そして決まってこう言うのです。怖いよ、助けて。怖いよ、助けて、と」

 私にはどうすることもできなかった、と消えそうな声で呟くと胡桃坂の母親は静かに涙を流した。


 私がなんとかします、そう言ったのは澤だった。

「待ちたまえ、澤君」

 すっくと立ち上がる澤の手首を掴んだのは志島だった。

「何です!」

 志島は強引に澤を座らせると、彼女の口の前で人差し指を立てた。

「君が責任を感じているのは判る。だが不用意に刺激するのは止した方がいい。彼女にとっては部屋の明かりですら強すぎるようだ。これ以上彼女を刺激すると、より深刻な狂気に陥るかもしれない」

 澤は抗議しようとしたが、志島の真剣な眼差しを受け、喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。

「彼女の症状について思い当たる節がある」

「それは本当ですか」

 母親は藁にも縋る思いで志島を見つめた。

「ええ。彼女は何らかの恐怖症に陥っています。恐らく正気を失うほどの衝撃を受け、その結果として神経が発作を起こしているのでしょう」

「娘の身に一体何が」

「今はまだ、彼女の精神を深く傷つけた何か、としか言えません。とにかく一刻も早く原因を突き止める必要があります。彼女が狂気に支配される前に彼女の心に巣食う恐怖を取り去れば、あるいは……」

「娘は助かるのですか?」

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、という言葉の通りです。つまり最初からそんな事実はなかった、と実感させればよいのです。そうすれば自ずと正気も戻るでしょう」

「……あかねにそのことを伝える役目は私にやらせてください。だから、どうか志島さん、お願いします。原因を突き止めて下さい」

「私からもお願いします。どうか娘を助けてやって下さい」

 頭を下げるふたりに同調するように、三崎と柊木も視線を送った。

「それが『生徒お助け作戦』っすもんね。先輩!」

 四人に気圧されて志島はやれやれと頭を掻いた。


 澤は謝りたかった。母親の許しを得て彼女の部屋の前に来ていた。閉ざされた扉の前に座り、静かに語りかけるのだった。その様子を志島たちは固唾を飲んで見守っていた。

「あかね、私だよ。照美だよ」

 不意にコン、とドアが鳴った。内側からノックした音だった。

「あかね、そこに居るのね」

 再び、コンと鳴る。

「私、あかねに謝りたくて。私のわがままのせいで、こんな目に遭わせちゃって。本当にごめんね」

「……私も」

 ドア越しに小さく掠れた声が聞こえた。

「なりたかったから。VTuberに」

「うん。一緒になろう、VTuberに」

「ロミノとエルドみないに?」

「そう。私がヤンデレ悪魔で」

「私がギャル天使だね」

「大丈夫、きっとなれるよ。私たちなら」

「ありがとう。私も早く元気にならなくちゃ」

 ひとつだけ、と口にして一瞬のためらい。それでも澤は問い掛けた。

「ひとつだけ教えて欲しいの。あなたは神社で何を見たの?」

 深い吐息、そしてカリカリカリと不穏な音。爪で扉を引っ掻く音だった。

「……あかね。大丈夫?」

 次に聞こえて来たのは嗚咽だった。澤は全身の血の気が引くのを感じた。そして志島を見た。危険な賭だが、と志島に持ち掛けられたものだった。調査の糸口が掴めるかもしれない、と。

「照美、怖いよ。思い出そうとすると、頭がどうにかなってしまいそう!」

 胡桃坂の悲痛な叫びに、志島はストップの合図を送った。澤は頷き、急いで話題を変えようとした。

「急にゴメンね。怖い思いをさせてしまったわね。もっと楽しい話をしよっか」

「ひとつだけ思い出した。あの場所で聞いた、奇妙な音……」

 胡桃坂は喉から絞り出すような声で言った。言い終えるや否や、逃げるように扉の前から離れていった。部屋の奥から聞こえてくるのは、ただむせび泣く声だけだった。澤は唖然とするばかりだった。ついて出たのは耳に残る胡桃坂の言葉。

「テ、ケ、リ、リ」

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