ナターリヤ・アレクセーヴェナの遁走  サンクトペテルブルク 1727年

 美しい筆蹟であった。

 しかしところどころ滲んでいた。

 オスマン帝国で流通している紙は書き直しができると聞いているから、筆者アズルが泣いていたのかもしれないし、マリアが読んで泣いたのかもしれない。


 うんざりだ。嘆くのはもう、うんざりだ。

 私は怒っている。


 故国の領土を拡大し、制度を改革し、軍備を増強した大帝ピョートルは−私たちの祖父は、祖母をないがしろにし、父を蔑み、挙句内縁の女に帝位を引き渡した。母は父の放蕩と不義理に苦しみ、エカチェリーナは皇位を追われることに怯えている。マリアが産んだ祖父の最後の子も、あの無恥な女が暗殺したのだろうと言われている。貴族たちは利権を漁ってロマノフ家を食いものにする。次は弟と私の番だ。今更懺悔したところで、誰も救われない。誰も。


 マリアの部屋を出て、寒い廊下を歩きながら考える。

 ホッブスは言う、『人間の自然状態とは万人の万人に対する闘争である』、しかして平和共存のために人は、自然権を国家に譲渡する。王とは信託されたものだ。正統性は最早その血でもなければ、信仰でもない。臣民の総意、主権の行使者である巨大な機構としての国家リヴァイアサン

 窓の外はもう暗く、吹雪が舞い始めている。祖父は父を廃嫡し、父は愛人のもとへ入り浸って、母は早くに亡くなったため、幼い私たちを養育する者も関心を持つ者もいなかった。私たちは下町に住み、気の好い近所の商人たちから数字を教わり、船乗りたちに技術を教わり、本を読んで育った。印刷はやはり便利なものだ、私たちのような外れものにも知識を与えてくれる。冷たい窓に息を吹きかけ、曇ったところへ指で文字を書く。弟とよくこうして遊んだことを覚えている。アレクサンドロス王の剣、甘い甘いプリャーニキ、雪の季節にたくさんの花、欲しいものを好きなだけ。けれどすぐにぼやけて消えてしまう。雪とともに暗闇の向こうへ吸い込まれて、私たちの手元には何も残らない。


 あなただけの物語を見つけるよう、


 マリアは言っていた。アズルの手記は、マリアに母親と美しいコンスタンティノポリスを思い出させるだろう。だがそれだけではない。私はカサンドラやアズルや、きっと同じような思いをしている女性たち子どもたちと共に怒りを覚える。彼女たちを愛するものから引き離した戦争や権力争いや差別に憤る。より多くの人間が同じ文章を読むということは、導火線を引いていくようなものなのかもしれない。経験や思想の共有は、共通の問題意識を生み出すだろう。国家という機構にとって、人は一つ二つ外れたところで何の問題も無く動き続けることのできる、小さなネジみたいなものだ。けれど幾つもの小さな部品が互いに熱を伝えて燃え始めたらどうだろう−最後には大爆発を起こして、全て崩れ落ちるかもしれない。文字というのは、そういう武器にもなるのだ。アズルには悪いけれども。


 このままここにいては、私も近々殺される。エカチェリーナは、マキャベリが賛辞を送るような君主にはなれない。ならなくていい、私は彼女が嫌いだが、全てが彼女のせいだとも思っていないし、王だって人間なのだ。人は、一人ひとりでは思考も感情も不安定なのに、国家という集合体になると非情な圧搾機プレスとして機能するのだから、不思議なものである。

 祖父も若い頃身分を隠してヨーロッパを遊学したと聞いている。私にできない道理はあるまい。従妹のマリア・テレジアに会いにいくのもいいかもしれない。イングランドにはマリアの弟が外交官として駐在している。新大陸も見てみたい。大丈夫、一千年かかろうと、闇夜に探すようでも、私が、あなたたちの名を世界の果てまでも持っていってあげる。どこまでも、あなたたちが一緒にいてくれる、私はそれを知っている。

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