第7話 兄は傍若無人
事情を話すと、これまた珍しく兄は快諾した。
そして話を聞いた翌日には会社にアポイントをとって、その翌日には会社へとやってきた。驚くべき手回しの良さだ。
しかし受付まで迎えに出たルカは危うく「帰ってくれ」と頼んでしまいそうになった。
「久しぶりだな、妹」
そう言って偉そうに笑うのは、無駄に整った顔の偉そうな男だ。黒髪がおそろしく似合わない深い彫りの顔立ちに、切れ長の目は灰色。180センチを越える長身に、痩せも太りもしない体格。その整った身体にぴったりと合わせて作ったスーツまで身につけているのだから、受付のお姉さんがギラギラと目を輝かせていた。このプライドが服着て歩いている兄は連絡先なんか交換しないよ。
「……なんでその格好?」
ジャージで来いとは言わないが、どこの世界に身元保証人がボタンホールまで精密に配置された手縫いのオーダースーツで来るか。
まだ首回りをアスコットタイに紋章入りのタイピンを刺してこなかっただけマシだとはいえ、これではトップホストかどこぞの社長だ。アスコットタイだったらおとぎの国の貴族だった。
ルカの指摘に兄は「バカかおまえ」と肩をすくめる。
「見た目で負けたら勝負が終わるだろうが」
だからおまえはバカのままなんだ、と兄に小言で小突かれながら会社の廊下を歩く。兄が行く先々で波が引くように人が道を譲る。なるほどこれが見た目の効果かと改めて思い知ったところで、課長たちが指定した会議室にたどり着いた。
結論から言うと、兄は兄だった。
「兄の大西カイトです」と自己紹介をした時点で課長たちの負けは決まった。
あとはもうなし崩しに兄のペースで進んで、最終的にルカはなぜか会社を辞めることになっていた。有給を最大限取った上、退職金まで出るという。おまけに人事部の人からの謝罪付きだ。もう兄がこの会社に勤めたらよくないか。案の定、最後はルカのことより兄がこの会社で働かないかとスカウトされていた。
持つべきものは優秀な兄だが、ルカはあっという間に無職になってしまったらしい。
「……どういうこと?」
会議室を出てルカがやっと兄に問いかけると、兄は元来た道を戻りながらこともなげに言い放った。
「正月の準備で忙しいから手伝え」
正月準備中の神社はとんでもなく忙しい。手伝えば食事と小遣いは出してくれるという。
しかし今はそういう話じゃない。
「いやいやいや、どういうこと! この会社に入るために色んなツテを頼ったんだけど!」
「おまえが会社員をやってみたいと言い出したから、親父が手を回しただけだ」
兄はうしろをついてまわるルカを振り返りもせず、心底うんざりしたように溜息をついた。
「親父も箱入り娘のまんまじゃあ体裁が悪いなってことで、納得してこの会社に入れたんだ」
「それなのにおまえときたら」と兄が横目で睨んでくる。
「仕事はできない、トラブルを起こす、今度は会社の人間に誹謗中傷でもされるつもりか」
廊下の真ん中で容赦なく言い放つものだから、通りすがりの人がぎょっと驚いた顔でルカたちを凝視している。兄の声はよく通るのだ。嫌われ者の上司よりも。
「向いていないことが分かったんだから、さっさと辞めろ。時間の無駄だ」
本当にこの兄は容赦というものを知らない。急所だけを突き刺していく。ルカは長い付き合いなので慣れているが、聞かされている周りの人たちが青ざめている。他人事であってもひどい言いぐさだ。
「おまえの能力なんてどのみちこの会社では活かせないんだから、さっさと見切りをつけろ」
会社を辞める前にまず兄妹を辞めたい。
兄の襲来を受けても、午後からはふつうに働かなくてはならない。社会人はつらい。
フロアの人の視線も痛いし、上司の小馬鹿にしたような顔を燃やしたい。
よっぽどひどい顔色だったのだろうか。隣の席の小西さんが「休憩しない?」と連れ出してくれた。
うちの会社の良いところは、昼休み以外の休憩は短い時間なら各自でとっていいところだ。狭い休憩所に押し込められた自動販売機の前で休むのがセオリーで、小西さんと連れ立ってコーヒーとココアを買った。
「……辞めるつもりなの?」
思い切り本題から切り出した小西さんを、思わずじっとルカは見つめた。何となく、彼女の次の言葉が予想できたからだ。
「他人の言葉なんて気にしないで。せっかくこの会社に入ったんだから、成果が出るまで挑戦してみない?」
入社してどれぐらい経ったかと思い返してみれば、もうすぐ二年になる。小西さんには入社当時から指導役としてお世話になっていて、人間の彼女には十分過ぎるほど長い時間だ。
「……たぶん、兄の言うとおり会社は辞めることになると思います」
ルカがそう口にすると、小西さんは失望したように「そう」と視線を手にしたコーヒーに落とした。
「すみません、ご指導くださったのに」
何とか取りなそうとしたルカの言葉も小西さんには上滑りしたようだった。当然だ。人間はその短い人生の中でたくさんの物を抱えて生きなければならない。労働はその資金を作るために必要不可欠のもので、そのせわしない人生は長い時間を生きるルカには分からないことだ。けれど、ルカの事情も彼女には分からない。
これから何年もルカがこの会社で働けるわけではないからだ。
何年経ってもルカは容姿すら変わらない。若作りという域ではない。本当に変わらないのだ。
ルカのような人ではない者がもっとも恐れるのは、人間から迫害されることだ。ルカや兄のような、人ではない者は意外と人間社会で暮らしているが、それは現代の一般的な常識ではない。中世あたりではそこそこ寛容だったことも、現代ではファンタジーなのだ。
だから、イジメのような残酷なものから、もっと強烈な拒絶と断絶になることを恐れている。どんなに小さな不穏の芽でも先に刈り取ってしまわなければならない。人外に対する恐怖の伝播はそれほど早い。兄はこの会社で畏怖の芽を育てるなとルカに釘を刺したのだ。
「──ごめんなさい。あなたにも事情があるのに」
事情は言わなくていい、と小西さんは少しだけ微笑んだ。
「大丈夫。あなたの仕事はゆっくりだけど、丁寧よ。ほかの会社でもちゃんとやれるわ」
気休めと分かっていたけれど、ルカは「ありがとうございます」とうなずく。
温かい言葉はココアのように温かいのだ。
きっと、魔法を使えばどんな仕事も完璧にやれただろう。ドラゴンのルカなら人間を欺くことぐらい簡単だ。
それでも、人間に混じって生活している以上、彼らのように魔法など使わずに生活することが当たり前だと思っている。
兄もああ見えて普段は神主として働いているし、神社で一番偉い神主でもない。あの体長180センチ超のプライドの塊が、白衣に浅黄色の袴を着て境内を毎日掃除している。その姿は笑えるが、あの兄も人間の中で暮らすにはそういうことが必要なのだと分かっているのだ。浅黄色の袴は中堅神主のもので、神社を管理運営しているのはあくまでも人間だ。
人間社会に間借りしているルカたちは、無駄な軋轢や特別なことは望まない。
兄についていって人間社会に混じって暮らすと両親に話したときも、そんな話をしたおぼえがある。
目立たないこと、特別な功績など作らないこと、必要がなければ普通の人間として振る舞うこと。
この三つが守れなければ、竜たちが暮らす集落から出てはいけないとまで両親は言った。
今なら両親がルカに守らせた言葉が身にしみてよく分かる。
人間が文明を作るようになって、ドラゴンが人間に恐れられた時代は終わったのだ。人間として暮らすのなら、彼らに溶け込んで暮らすのが双方にとって一番平和だ。
(そうか)
人助けは尊いが、目立たないことも特別な功績も、時には普通の人間としての振る舞いも、ルカはたびたび忘れがちだ。失敗をするたびに、兄や周囲に助けてもらってきた。
自己満足したルカは、両親との約束をまた破ってしまったのだ。
辞表ってどんなことを書けばいいんだっけと考えているうちに、終業時間を迎えた。
仕事はなんとか終わっていた。
残業をしなくていいのは喜ばしいが、ほとんど無意識のほうが早いなんてやっぱり釈然としなかった。
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