『腫瘍』

細井ゲゲ

『腫瘍』

 饐えた臭いを放つ、目の前にいるホームレスの男性は間違いなく俺の父親だった。

 駅前工事による仮囲いの壁に寄りかかるように座り、足元付近に何も入っていない茶碗を置いている。お金を恵んでもらうための受け皿であると思ったが、こんな全身垢によって茶色くなった異臭を放つホームレスに誰が小銭を入れたいと思うのだろうか。

「なに、みてんだ」

 親父はか細い声で、そう言った。それでも俺は動じず、しばらく変わり果てた姿の親父を、半ば悟ったかのような落ち着いた感情で眺める。

――不必要に過剰な増殖を行う細胞の塊

 俺と親父は社会の“腫瘍”なんだ、そう思った。


     一


 騒音、煙草の煙、人と人との負の感情で構成されたパチンコ屋。人間に不必要でしかない存在だけが室内に充満する。

 盤面に無数に打ち込まれた釘の間をすり抜けていく銀玉を、ただ眺めていた。既に財布の中には三千円しかなく、この残金が当分の生活に使う全財産だった。絶体絶命の状況なのに、不思議と焦りは生まれず、根拠もなく「何とかなる」と思っていた。

 ふと隣席のスーツ姿の中年男性に目をやると、膝を激しく揺らしながら、眉間にシワを寄せて台の盤面を睨みつけている。彼も負けているのか。同じ列の反対に振り向けば、そこには落ちそうで落ちないほどの長さになった灰を保った煙草を指に挟み、パチンコを嗜んでいる三十代であろう主婦がいた。パチンコの演出に集中しているせいで、落ちそうになっている煙草の灰に気づかないのだろう。演出用のボタンを煙草を持った手で割と強めに押したが、特に反応がないことからハズレのようだった。パチンコ台の玉を入れる部分に煙草の灰が散乱していた。


 気がついたら財布に千円しか残ってない。

 俺は残り僅かなパチンコ玉を見送った後、静かに席を立ち、十年以上ぶりにやってきた「パーラー足立」を後にした。退店する際、自動ドアを先日打撲してしまった拳で強めに押してしまい、手から電気が流れたような痛みが走った。拳でボタンを押したということは、少なからずパチンコでストレスをため込んでしまったようだ。それは、そうだ。五万円も負けてしまったのだから。


 雲が一つもない晴天に、春特有の程よい暖かさ。目の前に映るのは幼少期から大人になるまで過ごしていた地元の町並みだった。開発工事が進み、ショッピングモールなどが建てられたこともあり、当時の景色とは違う部分も多かったが、地元にいるということだけで、何だか安堵感がこみ上げていた。


 特に行く当てもなかったので、俺は生まれ変わった地元を散歩することにした。バッタリと同級生に会ってしまったら、どんな顔をすればいいのだろうか。知らないふりをするのが一番楽かもしれない。三十代を超えて無職である俺が最も苦手なのは、水準並み、それ以上の生活をしている大人たちだった。俺とその部類の人たちは、そもそも俺と属性が違うのだ。劣等感を抱くのはもちろん、目を背けたくなるほどの対象だと全て壊したくなってしまう。跡形もなく抹消したい、生まれた意味などない、そんな鋭利な言葉たちが俺の心の中で生まれてはうごめく。

 俺は無意識にひとり言を呟いていたようで、横を通り過ぎる人たちは怪しむようにして俺を見ている。それでも俺は思考を続けた。


     二


 日雇いとして勤務していた工場には、岩原舞華という俺よりも五つも年下の女性社員がいた。俺が日雇いという一般の身分よりも低い人種だったのに、優しく話しかけてくれたことで、俺はすぐに彼女を女性として見るようになった。さらに彼女は休憩中も話しかけてくれて、さらに仲を深め、一緒に夜ご飯を食べにいくことにもなった。そして、二人で居酒屋で晩酌を楽しんだ後、近所にあった彼女の家にお邪魔させてもらい、その晩に俺と舞華は体の関係を持った。

 しかし、その関係は長く続かなった。半月もした頃に、工場内での態度があからさまに冷たくなり、彼女の家にも呼ばれなくなった。

 ある日、焦った俺は仕事終わりに彼女の家にやってきた。突如の訪問に、彼女は迷惑に感じていたのか、インターホン越しに「帰って」とひと言だけ言い放つ。俺は食い下がり、「一度だけ話してくれたらもう諦めるから」と伝えたら、彼女はしぶしぶ家の中に入れてくれた。

 要約すると、俺はただの遊び相手で、あの日だけ一緒に過ごしてくれたら、それで良かったとのこと。そして交際中の彼氏がいて、来月には入籍するとも彼女は言った。説明している間、彼女は俺と一回も目を合わせようとしなかった。やはり彼女は日雇いという低い身分をどこかで見下しており、声さえかければ自由に扱えると思っていたのだ。

「ま、顔は悪くなかったし、その時期は彼氏とうまくいってなかったから、心配させるためにって感じ」

 俺は目の前にあったガラス製のテーブルを持ち上げて、彼女の頭上に勢いよく振り落とした。


     三


 今も残る、舞華を何度も殴った時の感覚。右手の拳の出っ張った部分はもれなく紫色に変色している。舞華の顔は血にまみれ、両方の頬も紫色に腫れ、目は開いているのに瞼の腫れで目が塞がっていた。どのくらいの時間を殴り続けたのかもわからない。気づいた頃には別人のような容貌になった舞華はぴくりとも動かなくなった。


――見慣れた電車の架道橋が現れた。


 ようやく俺の知っている場所にたどり着いた。そこは小学生から中学生まで通学路として通っていた架道橋。昔を思い出すために自然と足が向き、仄暗い架道橋の下を歩き始めた。

 半ばまで歩いた時、そこには、いわゆるダンボールハウスがあって、その横にはホームレスが座っていた。別に珍しいことではないと思ったので、俺は見ないようにして通り過ぎようと思ったが、何となくそのホームレスに一瞥する。

 俺は言葉を失った。しばらく髪を切っていないのか、長髪の白髪だらけで、髭も生やし放題、ボロボロにすり切れたジャージのズボンに、色が擦れたネルシャツを纏っているその男は、俺が小学生の頃に母と離婚した親父。親父はダンボールの上に胡坐をかいて、一点をぼうっと眺めている。

 母と離婚してからのことは知らなかったし、俺にとって無関係の存在だった。俺が十五歳の頃、母は末期のガンで死んでしまったが、その時に母を不倫などで苦しませた存在である親父を憎んだことはあった。しかし、それは一瞬の感情のことで、それっきり彼を思い出すことは殆どなかった。

 だが、その親父が社会の落ちこぼれとして、そこにいる。

「なに、みてんだ」

 徐に顔を上げた親父はそう言った。咄嗟に俺は装着していたマスクを目元ギリギリのところまで引き上げ、「すいません」と謝った。

「お腹空いてますか?」

 そのまま立ち去る気にもなれず、俺はそう親父に話しかけていた。

「空いてる。昨日なけなしの千円をパチンコで使って」「それから何も食べてない。なあ、お兄さん、百円でもいいから恵んでくれないか」

 声量は変わらないものの、急に流暢になる親父。

 俺は、彼と俺の違いについて考えてみたが、これといって差がないように感じていた。むしろホームレスと人殺し。俺の方が社会の腫瘍なのではないか。こんな俺を作った親父を憎む以前に、腫瘍からは腫瘍しか生まれないことを痛感し、たとえ人を殺めていなくても、そこから脱却することの難しさに対して絶望した。

 俺は財布から残りの千円を取り出し、親父の目の前に差し出した。親父は礼もいわずに手荒に取り上げ、俺を睨みつけた。


 架道橋を抜けると、目の映る範囲に交番があった。

 俺は腫瘍から正常な細胞に戻すために矯正をする必要があることに気づいた。罪滅ぼしではなく、正常に戻るために刑務所に入る。俺はその時に初めて、交番という存在が心の底から素晴らしいものと思えた。教会と似ているかもしれない。そこに行けば救われる。俺は社会にいてはいけない存在なんだ。

――けたたましい車のクラクションが鳴り響く。

 視界全体を一台の大型トラックで埋め尽くす。

 激しく跳ね飛ばされた時、自分本位のことしか考えられない時点で、俺はいつまで経っても腫瘍から抜け出せない、そんなことを思った。

 地面に叩きつけられた瞬間、俺は差別のない身分である死人となったのだ。了

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『腫瘍』 細井ゲゲ @hosoigege2024

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