一話 ありふれた幸せ 1
夏休み六日目は、小春と一緒に起きた。目を開けるタイミングまでぴったり。
それだけで、何だか朝っぱらから幸せになる。
「おはよ、泰斗。走りにいこっか!」
まだ薄暗い朝の時間。俺は頷いて、起き上がった。
「いこーぜ、小春!」
「ん! 着替えるわ」
「ここで脱ぐなって」
「着替え持って来とるもん」
「そういう問題じゃねえって! 恥じらえって!」
「見せるのは泰斗の前だけやけど?」
「……。我慢できなくなるからやめてくれ」
「じゃ、する?」
「走れなくなるだろ……」
「んじゃお預け。さっさと歯を磨こうよ、朝にキスするのって割とリスキーらしいし」
「そんなもんか」
「そういうもん。泰斗は衛生意識バッチリやからあんまりやけど、起き抜けの口の臭いマジで地獄みたいなやついるからさー。お前ちゃんと歯磨いてんの? 的な」
「うーむ……いるのか……」
「いるんよ。んじゃ、お先に歯を磨いてるわー」
「いてらー」
ああ、あいつ脱ぎっぱなしだよ寝間着。
片付けながら、少し溜息。心臓に悪い、毎度毎度下着姿は……。
意識してしまうが、何とか宥めて、俺は薄い寝間着をきっちり畳むのだった。
走ってくったくたになって、俺はバイトを昼間に入れているので頑張らねばならない。
結構体力はついたらしい。初日には少しレスポンスが遅れていたが、根性で克服。今日もバリバリフライヤーだ。大目に入れてもらっているので、気張らないと。
「泰斗、休憩」
「うっす、要さん。貰います」
「少し奥で寝ておきなさい。ちょっと疲れてきてるわよ」
「うす……」
「要、捌けてきたしお前も休んどけ」
「うん」
要さんと奥のロッカールームにやってくる。
ベンチに腰掛けて、少し溜息を吐いた。
「どうしたの? 珍しいわね、溜息なんて」
「いや、ちょっと最近体力をつけようと思ってて走ってるんすけど、12キロくらいやるもんだから……」
「なんでまた体力をつけようと?」
「女の子にスタミナで負けてしまって……」
「……頑張りなさい」
「うす」
「ほら、ここ。良いわよ」
ぽんぽんと自分の太ももを叩く要さん。いつもなら寝転がっていただろう。こういうことはあんまり珍しくはない。要さんは良く俺を気にかけてくれている。
柔らかそうだけど、横になるわけにはいかない。
「いえ、今は彼女いるんで、すんません」
「あら、意外。いたのね。どんな子?」
「うーん……甘いソーダ水みたいなやつ」
「ふーん。その子の事、本気で好き?」
「……好きだよ。俺はあいつの助けになりたいんだ。そいつサッカーしてるんだけど……食事とかで応援してやりたいんだ」
「うん、熱いわね。頑張りなさい、男の子。あ、そうだ。コーラあるんだけど飲まない? 疲労には甘いものと炭酸が良いのよ。この後も夕方までフライヤーなんだから、飲んでおきなさい」
「うす、頂きます!」
「ん。やっぱ泰斗は可愛いわね」
俺の頭を撫でてくるが、こんなデカい男子が可愛いのかね。
「彼女がいなかったら、良かったのにな」
「え?」
「何でもない」
何かボソッと呟かれたが、何だったのだろうか。
そんなことは目の前に差し出されたキンッキンに冷えたコーラを前にしたら霧散して思い出せなくなった。
桜子のバイトの頻度は変わらない。無理もない、体力的にしんどいだろうし。安いコスメとやらを椋鳥や川蝉先輩に教えてもらって、肌の艶があの頃に戻っていた。夏休みということもあり、休息の時間が増えたことも関係しているのかな。
そういうのを出かける折に想ったのだが、まぁそれは重要ではないので頭から外す。
今日はバイトはない。というか店が開いてない。
本日は町の夏祭りで、大将や要さんは屋台の焼うどんを出す。俺はその手伝いに、と呼ばれていた。助っ人を連れて。
力仕事ができる人間が欲しい、といわれたので、日当八千円でこの男が。
南芳也。レスリング部部長で、男らしさはピカ一だが男くささもピカ一で女子が寄ってこない。女子と話す際は鼻息が荒くなるのが致命的。
「すんません、南先輩。あざっす!」
「いいって! 金貰えるなら大体のことは耐えるさ、新作のAV欲しいし!」
そう、南芳也は女体の探求に積極的な典型的エロ男子である。欲しいエロ本がないと街を二つくらい跨いでチャリをぶっ飛ばすまさにエロのエゴイスト。本人はエロイストと呼んでほしいと言っていたが、恐らく本人ですら覚えていまい。ノリで生きてるから。
「行き交う着物女子を眺めながら労働できるなんざ最高じゃねえか! つったって、お前は調理で、オレは何するんだろうな?」
「ガスボンベとかの運搬とか設営とか? 力仕事ができる人がほしいって言ってて」
「そんなら任せろよ。お前も上半身はそれなりだが、まだ下半身が鍛えたんねえ。でも重心が変わったな、鍛え始めたか?」
「あ、はい。十二キロ二日に一回、彼女と走ることになって」
「青春か貴様ー! このこのー!」
「いでででで」
ヘッドロックを掛けられたりしながら俺達は設置場所に向かった。
まだ屋台すらできていない。骨組みからやらねばならない場面だ。早いところだともう既に売りに出しているところはあるが、まだ午前十時。人通りもまばらだ。
「うぃーっす、大将、要さん。助っ人連れてきたっスー」
「あら、良いガタイね。お名前は?」
「南芳也っス! 力なら任せてください!」
「じゃ、早速泰斗と一緒にこれ組み立てて準備してくれないかしら。手順は説明するから」
「「オッス!」」
テキパキと俺達は作業をして、早速俺は調理に駆り出され、要さんは売る作業、大将は知り合いの屋台を手伝うと言って南先輩を連れて行ってしまった。
段々、昼になって、人の往来が活発になってくる。
「ふう……ありがとね、泰斗。わたし熱にもあんまり強くないの」
「いーっすよ! 夜に俺は時間貰ってますし! 日が出ている時はガシガシ働きます!」
「ありがと。あ、ラムネ買ってくるわね。少し任せてもいい?」
「うっす!」
「ありがとう。それじゃ」
離れる要さんをしり目に、俺は声を張り上げる。
「うどんいかがっすかー!? 美味しい美味しい焼うどんはいかがっすかー!?」
「おう、くれ」
といってきたのは、相変わらずコンパクトなフォルムなお方。
「って鶺鴒先生、珍しっすね。日がまだ出てんのに」
「ほっとけ。うるさくてな……思わず目が覚めちまった。とりあえず昼めし食おっかなーってところでお前が見えた。五百円だけどここの味のクオリティは知ってるかんな」
「おっす、盛るぜぇ……! たっぷり盛ってやるぜぇ!」
「普通でいいわ。一個、目玉乗せないでくれ」
「またどうして?」
「味がボケるのが好きじゃねんだよ」
なるほどな。牛若丸に卵トッピングしないと思ったらそういうことか。
テキパキと鉄板からぺらいプラケースへ入れて、さっと袋に入れる。
「どうも毎度あざまーす!」
「おう、声出てんな。っておお?」
列に並びがちな日本人の習性がこんなところで見れるとは。先生が待っている少しの間にちょっとした列が。
「ほい、次のお客様ー! おいくつご入用でしょう!?」
「三つ! 盛ってね!」
「あい三つ! 盛らせていただきやーす!」
「次二つ、目玉焼き乗せて!」
「二つ目玉焼き了解しましたー! はい三つ、千五百円! はい、丁度ありがとうございやーす! 目玉焼きは両面焼きにします?」
「普通で」
「かしこまりましたー! お次のお客様お伺いしまーす!」
敬語もだんだんと学べているような気がする。こういうラフな場では普通に使えるようになった……と自分では思うんだが、どうだろう。
夕方三時頃になって、追加の麵を戻ってきた大将が焼いている。
俺の隣には南先輩と要さんがいる。三人とも休憩中だ。
「どうっしたか、先輩。後は片付けだと思うんすけど」
「悪くなかったな、体も動かせたし。んで、昼飯も供給されっしな!」
焼うどんを頬張る先輩を眺めつつ、俺は要さんが買って来てくれたラムネにようやく手を伸ばすことができた。親指でビー玉を押し込み、ぐいっと喉の奥に入れるように流し込む。
「南くん、色んなところで頑張ってたって聞いた。凄いじゃない」
「いやいや全然っス! いろんな経験できて面白かったっすよ! さすがにガスボンベ二個持ちながらの移動はしんどかったっすけど……」
「お父さん……」
なにさせてるんだ、といわんばかりの娘の視線に口笛を吹いて誤魔化している大将。
「もう、無理なことは無理って言わなきゃダメだよ、南くん。泰斗も、いい?」
「うっす!」「うぃー」
「た、泰斗ー、代わってくれ、あっちい」
「おっす! 泰斗、行きまーす! 大将、これ冷えビタ。皆も良かったら!」
俺は既に装着してタオルを巻いてかくしている。これくらいなければだめだ。
「お、サンキュー」「悪いわね」「使わせてもらうぜ」
「よっしゃー! らーっしゃっせぇぇぇぇ――――!」
「焼うどん二つ!」
「目玉焼きはご入用っすか?」
「ください!」
「千円ちょうどになりやーす!」
ちなみに卵入りでも値段は変わらず五百円。頑張ってる価格だ。
追加の具材を仕込みつつ注文を捌く。
「いやー、良く働くなぁ。ゆくゆくは泰斗に二号店を任せて隠居してぇ」
「そうなるかもね、お父さん」
「泰斗ー、オレも手伝おうかー?」
「あ、オナシャッス! 調理やるんで接客頼んます!」
「おう! 焼うどん! ご期待ください! いかがっすかー!?」
独特な呼び込みにそこそこの人数が集まる。
そんな調子で、時間と具材が溶けていった。
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