五話 晴れのち雨 1
翌日。洗い物をぼーっと片づけていたせいで遅刻しそうになっていた。
パライソ学園の校門に、誰かいる。
そいつを見て、激しい既知感が襲った。
男子にしては長めの金髪。切れ長の瞳には、あの頃の凛々しくも優し気な顔立ちが、変わらずにそこにある。
「ハル、ヤ……なのか……?」
その呟きは彼に届く。こちらを見て、懐かしそうに顔をほころばせる彼。
「……久しぶり、タイト。あの公園で別れを告げた以来かな。病院に行くって言って」
「え……? でも、お前、その後戻ってきたじゃん」
「……そこも含めて、僕は事情を知っている。ああ、それとやってみたかったんだ、これ。一緒にサボらね?」
そう冗談めかして笑う彼に、俺は頷いた。笑って、頷くことが、できたのだった。
びっくりしたよ、と語るのは、喫茶店に入ったハルヤだった。苦笑しているイケメンだが、どことなく女性的にも見えるのだからイケメンってのはズルい。
「何がビックリしたんだ?」
「急にタイトの名前が出てくるんだもん。知り合いから知ったらしくてさ。どーしても会って欲しいって言われて、まぁタイトがいる時点で会いに行くんだけどさ。良い人に囲まれてるんだね、タイト。あ、ここは僕に持たせてくれよ。小さい頃ボコボコにしちゃったお詫び、というわけでもないんだけど」
「分かった、貰っとく」
「あ、ていうかお前直ったのか、その性格というか、なんというか」
「おかげさまで。熱い拳で目を覚ましてくれたろ、ハルヤ。俺は何があっても、他人を見下したりしないし、頑張ってるやつの味方だ」
「うん、安心した。素晴らしい男性に成長しているね。で、僕に用事があったんだろ?」
単刀直入に切り出され、俺は頷きを返した。
「おう。お前、入院した後どうしてた? 三日目くらいで帰ってたろ?」
「それは……ありえないかな。僕は中学入学まで入院してたんだ。手術もした。ちょっと心臓が良くなくて……まあ、殴り合いの喧嘩とかしてたからそうは思えないだろうけど。それに病気は完治したし、大丈夫だよ、もう。運動もできる。殴り合いのあの日はしこたま怒られたよ、親兄弟泣き出すしさ。や、まぁそれは置いといて。どうして?」
「三日後くらいに、自分をハルって呼べ、ってハルヤが言ってきたんだよ。なんか、お前の話を聞いてる限り、偽物なんだろうけど」
「多分、小春ちゃんかな。従妹なんだ。昔は超そっくりだったんだ、その子と。僕と親友になった男の子の話をして、もう遊べないから心配だ、って言ったんだけど、その子、それ以来タイトの友人になったみたいで、色々話してくれたよ。だから多分、ハルって呼ばれてた頃のハルヤは、小春なんだよ」
……そう考えると、色々つじつまが合う。
なるほどな……あの日からのハルヤは、小春だったわけか。
「つか、今まで連絡寄越さなかったのひでーよ」
「それは悪かった。僕も探したんだけど、お前引っ越したって聞いたし……」
「まぁ中学は父方の実家にいたんだ。高校に入る時にこっちで寮に入ったんだよ」
「あ、聞いてるぞ。女子寮だって? 羨ましい!」
「んないーもんでもないぞ。んで、その寮に小春がいたんだ」
「あー……なるほどね。僕が君なら絶対に気になる。うん、今回呼び出されたのは納得したよ。気になるよね、そりゃ。ごめんね、タイト」
「いや、俺も先輩に聞いてみただけだったんだが、まさか会えるなんて。嬉しかったぜ、ハルヤ」
「……本当に変わったよ、タイト。君は素直に人に礼を言うような人間じゃなかった。……これからも会わないか? 色々話もあるし」
「ったりめーだろ。これからどーする? ゲーセンでも行くか?」
「おお、いいね。サボるって言うからには徹底的にサボりたいし!」
「よっしゃ、行くかぁ! サボってても何も言われねーゲーセン知ってんだよ」
「何で知ってるんだよ……」
「先輩が教えてくれた」
「タイト、悪いところまで教わらないようにね」
こっちは目代先輩の世間話だが。
その後、俺達は空白だった時間を埋めるように思い切り遊び、最後に番号とメッセアプリの連絡先を交換して、呼び出し喰らったので学校に行って反省文書いて、いつも通り家事をしに行くのだった。
夕飯の手巻きずしを食べた後、小春が寄ってきた。
「今日どうしたん、泰斗。サボるなんて」
「ハルヤに会ってきた」
その事実に彼女は瞠目していたが、目がほそまる。
「それじゃ、思い出した? あんたには、女の子の親友がいる」
「正確には、親友になり替わった女子がな」
「本当に思い出したみたいやね。久しぶり、泰斗。そう、あの頃からサッカーが好きな、鵯小春。……間違いなく、君が好きな、女の子だよ」
そうまっすぐ、俺を見据える。食器を洗う手を止めて、俺は小春に向き直った。
「なんで、偽って俺に近づこうとした?」
「ハルヤは……あんたを心配しとった。最初は、あんたの更生を見届けるためやった。間違っとると思ったところは遠慮なく口にしたのはそのせい。そのせいでつかみ合いになっても、あんた、昔はよわっちかったから。そこから、努力を馬鹿にするような人間になってないか、見届けたかったんや。入院してたハルヤを、安心させたかった」
「……そうか」
「でも、いつしか、変わっていくあんたにうちは惹かれていった。好きやって、その時気づいた。でも、中学は一緒にいけない。……寂しかった。中学は、なじめんかったし……あの頃の公園に何度も行ったけど、あんたはそこにはいなかった」
「俺も中学は引っ越してたから。高校になって、改めてこっちに移動して、寮に入った」
「で、ここでまた出会ったんやな。あんた的には。うちは、あんたが自己紹介してる時、本当は眼鏡がズレたくらいびっくりしたんやけど」
「そりゃ悪かったよ。んで、その。告白の返事なんだけどさ……」
「言わんでええ!」
「言わせろ。お前が無理やりキスしてきたから、俺も無理やり言うぞ」
小春は耳を塞いだが、もう、俺の方が、力が強いんだぞ。
彼女の手を耳から外して、言う。
「好きだよ、小春」
「…………」
そう言うと、彼女は抵抗がなくなってしまった。すとん、とその場に座り、ただ顔だけが赤い。
「こういう、宙ぶらりんな関係は……辛いんだよ」
「まぁ、泰斗が気にするのも分かるけどさ……」
「違うよ。辛いのはお前だろ、小春。告白された当人がこうなんだ。結果待ってるお前としちゃ辛かったろ。それくらいは分かる」
「いいや、告白する方が楽や。一方的に、うちは泰斗に気持ちを押し付けた。身勝手なんよ。嫌われても、文句が言えないほどに。でも、それだけ、好きって気持ちが溢れかえって……後悔したくなかったけど、関係を進めようとして……うちは、初めて怖いって思った……」
彼女をそっと抱きしめる。泣き出してしまう彼女の顔を隠して。
泣き顔なんて、誰にも見られたくないから。
声を出さぬよう、唇を唇で塞ぐ。
「……好きよ、泰斗……この世の、何よりも……」
「……おう。俺も、好きだぞ、小春」
なれない言葉をつぶやく。これにも慣れなければいけないのであろうけども、まだ無理だ。こんなに顔が火照ってしまううちは、どうにもならない。
俺はただ静かに、彼女を抱きしめた。
◇
分かっていた。こうなることくらいは。
少なくとも、わたくしが――白鷺桜子が選ばれないとは、思っていた。
けれども、鵯さんには負けたくなかった。
あの日、羽斗さんと一緒に楽しそうに遊んでいた貴女を見て。そして、公園でその姿を待ち続ける姿を見て。負けたくないと思っていたのに。
勝った負けたで恋愛はしていないつもりだった。でも、いざ、羽斗さんの告白を聞いて、思ったのがそんなことで。自分自身のレベルの低俗さに吐き気がしてきた。
「……いーの? 行かなくて。私はむしろこれからが本番だと思ってるけど。私はアピールし続ける。君は、そこで立ち止まったままなの? 白鷺ちゃん」
いつの間にか現れていた孔雀先輩がそういうが、今は、何もする気にはなれなかった。
失恋。
分かっていた。二度目だったのだ。
けれどもやはり、衝撃は凄まじく。
絶望に囚われてしまう。
「へへっ、それじゃ、お先に!」
孔雀先輩は飛び出して、羽斗さんに飛びついていた。必死に鵯さんが引きはがそうとするものの、アピールは露骨だ。
わたくしも、ああなるべきなのだろう。
あるがままの自分を受け入れてほしくて。みっともなく、アピールを続けなければならないのだろう。
わたくしの中で燻り始めているこの感情は何? どす黒いような、それでいて、温かいような。羽斗さんに彼女ができたことが、ほんのちょっぴりだが、嬉しいと感じている自分がいるのに驚いた。
でも、無理もない。好きな人の幸せは願うべきものだ。心が真っ当なことを考えているようで、少しすくわれた。あの頃のわたくしから、変わっているような気がして。
だが――どす黒い方の感情は、今すぐ二人の仲を引き裂くべきだと慟哭している。
それはならない。そんなことをしてはいけない。
一度、誰かから引き裂かれたわたくしだから言える。
今は、その時じゃない。
そうだ、そうなのだ。
振り向き続けるまで、アタックし続ける。
先輩が範を示してくれた。それに従うべきじゃないのか?
しかし、直接的なアプローチは、趣味じゃない。
努力だってそうだ。秘めているからこそ、結果が際立つ。圧倒的なオーラを保つのにも、見えない努力がいる。
そうやって飾り立てた、完璧なわたくしだけを、見ていて欲しい。
とりわけ、好きな人だから。
「……今は、お預けですね」
せいぜい、甘い恋人の時を過ごすと良い。
最後、羽斗さんの隣にいるのは、わたくしだ。
そう心に決めて、目の前の光景を見たくなくて、踵を返す。
涙が出なかったのは、きっと――一度目で、枯れきったから。
「桜子……大丈夫ですか?」
聞いていたのだろう。梢が心配そうにこちらを見る。
わたくしは今、自分がどんな顔をしているか、分からない。
けれども、きっと笑顔だ。いつも通りの、微笑み。
「大丈夫です、梢。七転び八起き。いつか……振り向かせてみせますから」
過去の妄執では、ない。
わたくしは、変わらない優しさを持つ羽斗泰斗だから好きになったのだ。
素敵だ。惚れがいがある。だからこそ、振り向いて欲しい。
けれど、今は叶わない。
鵯さん、今は預けておきます。そう内心で呟き、部屋に戻る。
ベッドに寝転ぶと、やはり、ダメだった。
どこからか決壊したように、涙が止まらない。
「……ぐっ、うっ、ううっ……泰斗くん……!」
幼いころの呼び方。どうして今、泰斗くんと呼ばないのか。
それは、かつて自分がしてしまった行いを反省するために、羽斗さんと呼び方を戒めた。
けれど、今は。そんな体面を気にする必要はない。
涙が再び枯れるまで、二時間。わたくしは泣き続けていた。
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