四話 溜息と微熱 1

「小春ー、もう無理しないで寝たらどうだー?」

「うう、頑張るんやもん……。勉強も赤取ったら練習行けんし……」


 俺は家事をいつも通りにこなして勉強していた。椋鳥はいつものポーカーフェイスで大学入試に向けてだろう、赤い本を片手に過去問を解いている。桜子は自分のペースがあるらしく、俺達と勉強をしたがらなかった。


 あいつはああいう奴だ。人前で努力するのを恥ずかしいと思ってる性質だからな。そのくせ、誰の目のない所で自分磨きに余念がないやつでもある。そういうストイックなところは、尊敬すべきところだ。みんなの前では常に思い描いている理想の自分でいたい。思ってても具現するのは難しい。


 俺は努力は見られていようがいまいがすべきだと思う派閥だ。それはここにいる三人はそうなのだろう。


 何食わぬ顔で紙面に向き合って渋い顔をしている小春を見ながら、俺は内心のドキドキを宥めつつ、ネットに載っていた問題を書き写して解いていく。懸賞で当たったナプパッドが大車輪の活躍だ。


 川蝉先輩がやってきていた。俺の解いている問題を見て、「うっひゃー、懐かしい!」と言っている。視線は椋鳥の赤本へ。


「椋鳥ちゃん、もう大学入試に向けて?」

「特進コースはもう既に教科書が終わりかけですし」

「え? 一年の?」

「三年の、です」

「うっげ、やっぱスゲーな特進……エグ……」

「フツーの特進って一年で三年の内容だろ? マジ?」

「パライソはとにかく要領の良い人間を特進に集めてますので。後は入試まで、過去問を解く日々ですよ。毎度テストのようです」

「地獄じゃんそれ……」


 小春もげんなりとしている。俺も激しく同意だ。毎日テストとか胃がやられる。それも慣れるものなのだろうか。


「羽斗さんも特進に行ける地頭だと思うのですが」

「あー、行っても意味ねえんだ。大学いかねーし。俺就職希望だから」

「ふむ、少々もったいないですね」

「えー、泰斗大学行かんと? なにするん?」

「調理師免許を取るために、調理場で修業さ。今のバイト先で働かせてもらえないかって頼んで、大体OKが取れた。親父達も好きにしろだって。好きにするさ」

「偉いなー、泰斗は。ちゃんとやるべきこと見えとるし」

「偉くはない。単に人より早く、道を選んだだけ。小春もなんか漠然となりたいものくらいあんだろ?」

「うーん、特には。ただサッカーの社会人チームがあるとこに就職したいんよ。社会人でもサッカーやりたい。プロになれればそれが一番なんやけどさ」

「小春は上手いの?」

「へっへーん、レギュラーやぞー! このパライソ学園、一年生で! 無敵のミッドフィルダー!」


 素直に驚いた。県外からも優秀な部員を獲るパライソ学園で、一年ながらレギュラーメンバー入りとは。笹見といい小春といい、ビッグなやつら。


「ミッドフィルダー……中盤か。中央?」

「いや、右方向。フォーメーションの関係上、ディフェンダー兼任でオーバーラップはあんましないかなー。うちのストロングポイントは足速くてスタミナがあって、攻防に回れる回数が多いこと! 後、単純な得点力と技術やな。ただ、ゴールへの嗅覚ってやつがイマイチらしくて、展開の読みが防御がちなんやと。で、フォワードじゃなく、技術と攻撃力、防御力を活かせる中盤に転向したってわけ。それがバチッとハマって、今はロングシュートもあるタフネスパサーってわけ」

「……すまん、簡単に言ってくれ」

「スッゲースタミナのパス特化選手、だけどシュートも撃つよ!」

「なるほど、分かりやすい!」

「今年の女子サッカー部は本当に全国行ける面子だと伺ってますよ」

「行くし。全国行くし」

「応援してるぞ、小春。の前に、勉強って課題をクリアしなきゃなー」

「ふぐっ……! うう、英単語を追っていくのものごっつ眠いと……。な、なんか覚えられる方法とかないん!?」

「好きなものと関連付けるとか。サッカー関連で」

「なるほど。…………」


 小春の集中が始まった。


 運動部はこういう土壇場の根性が凄いと思う。中学の時にもいた。大して勉強してなくて五教科で二百点くらいだったのが偏差値六十オーバーのところに合格したやつ。ちょっと意味不明だと思っていたが、そういうやつらは緊張と土壇場に強い傾向がある。


 水を差さないように、俺と椋鳥もそれぞれの問題に向き直る。


 きっかり一時間後。すやすやと寝息を立てる小春を抱えて、彼女の部屋までやってきた。


「椋鳥、小春の部屋の鍵取ってくれ。俺じゃセクハラになる」

「はい……ん?」


 椋鳥が扉を押すと、開いた。こいつ鍵付きの寮で施錠してないんかい。助かったけども。


「んじゃお邪魔しまーす……おお」


 散らかってはいない。手入れ途中のスパイクや届けブリハマチのポスターなどが貼られてある、少し少年のような趣もある小春の部屋。ベッドも青を基調に、爽やかな印象だ。


 彼女をベッドに寝かせて、タオルケットを掛ける。これで充分だろう。エアコンは肌寒くもなく、適温になっている。動いたら暑い気温だが、女性は冷えに弱いらしいし、こんなものなのかな、とどこか客観的に思った。


 そして、ベッドに寝かせた瞬間、嗅ぎ覚えのある甘い匂いが立ち上ってドキドキしたのは内緒。


 椋鳥と外に出て、戻る彼女に話しかける。


「椋鳥は将来の夢とかあんのか?」

「家督を継ぎたいですね。グループの総帥……とまではいかずとも、それなりのキャリアを持ちたいんです。そして、仕事を言い訳にしない、仕事と母親を両立できる人間になることが目標です」

「そか、立派じゃん」

「それほどでも。お世話になった家の方々に恩を返したいだけですので。で、ですね。その……お料理を、たまにでいいので教えてください。カレーくらいは作れるようになりたいのです」

「いい心がけじゃん。じゃあ、土日のカレー、今度作ってみっか? 一緒に作ろうぜ!」

「子どもを?」

「瑠璃ちゃん先輩どうしちゃったんだよ、急に出てきていきなり頭わくじゃん」


 俺に飛びついてぶら下がってくるのはいつものことだったが、なんか彼女も得体の知れないいい匂いがするので怖い。女子ってみんなこうなの? ちなみに個々人によって匂いが違う。瑠璃ちゃん先輩はほんのりミルキーな匂いがする。小春は花のような香りだ。


「いや、椋鳥が料理覚えたいんだと」

「なるほど! その日は外食するね!」

「先輩、ひどい……」

「俺もついてるから食えるもんを出すっすよ。最初は見て、メモをして、覚えてからですね。相当不器用じゃない限り大丈夫なんで。初心者は「だろう」をせずにレシピ通りにやるのがおススメです。これじゃすくない「だろう」、火加減はもっと強めがいい「だろう」、もっと具材をたくさん入れた方が美味しくなる「だろう」……余計なことはせず、先人の残したレシピをなぞることが肝要っす」

「……基本に忠実に、ですか」

「そ。俺も最初はレシピ通りだったよ。アレンジすら、そこに「ちょい」足しだからな。基本はもう俺達が生まれる前から決まってんのさ」

「ふむ……」

「料理ってめんどっちーね」

「トランペットと、勉強と、一緒さ。日々の積み重ねが大事。何事も基礎がしっかりしてからなのは、どれも一緒だろ? 椋鳥は勉学で家庭科自体は得意なんだろうけど、実地経験が足りないと見た」

「……あたりです。調理実習とかになると、焦ってしまって……」

「そこいらへんを俺がフォローすんのさ。瑠璃ちゃん先輩もやる?」

「私はいいかなー。泰斗君のお料理好きだし。食費足りなかったら言ってね? 出すから」

「そん時は頼らせてもらうっす」


 瑠璃ちゃん先輩に笑いかけると、彼女も微笑んだ。小春のソーダのような笑みとは違う、小さな花のような笑み。可憐さはさながらチューリップを思い出す。


 女の子はどいつもこいつも魔性だな、なんてことを思いつつ、俺達はリビングに向かうのだった。

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