三話 爆弾 5

 温泉に浸かる。

 少し熱めのお湯が、体に染みていくようだった。溜息と一緒に疲労までまろびでている気がしているほどには。俺は、疲れているようだった。


 日頃の家事で体を使っていたから、というのは建前だ。


 ずっと、先ほどのやり取りの疲労感の方が強い。

 

 ……小春。


 彼女のまっすぐなアプローチに、精神が摩耗しているのがよく分かった。


 誘わなければよかった、なんて思わないが。まさか、こんな関係になってしまうとは思ってもみなかった。


 いや、どこかで、俺は望んでいたのだろうか。そうじゃなきゃ、誘わないよな。


 でも、謎がある。それがある限り、彼女の求愛に応えることは叶わない。


 ……昔、俺と遊んでいた、ハルヤではない女の子の友達。


 女の子の友達は桜子や百舌鳥ちゃん以外にいなかった。


 だから、分からない。金髪で連想したハルヤの姿がダブっているが……これも正しいのかどうかわからない。


 気持ち悪い、とまでは思わないが、記憶と現実の噛み合わなさに苛まれる。


「あー、もう……」


 ただ、温泉だけが、否応なく、俺をふやかしていく。

 凝り固まった肩や腰の筋肉がほぐれていくが、心境は複雑なまま絡み合い、そして、溜息に溶けた。





 夕飯は肉、魚を中心に、満足のいくボリュームの食事が提供された。美味かったなあ、あの牛肉。瓦焼きで仕上げられたさしの入った牛肉は口に入れた瞬間とろけて、全くくどくなかった。椋鳥が言ってた安い高級肉というものにありがちなウッと来ることもなく、お互いにテンションが上がったまま食事が終わり、歯を磨いて、後は寝るだけなのだが。


 本当に、教育が行き届いている従業員ですこと。


「……」


「寝よっか」


 大きなツインサイズの布団が一枚。躊躇いなく小春が寝に行く中、やはり納得しがたいものがある。


「俺、ちょっとフロントに電話してもう一組布団持ってきてもらうわ」

「えー? もうええやん。安心してよ、襲わんって」

「……普通、逆じゃねーのか、心配」

「まぁ、うちはそうなったらなったでええし」

「はぁ……」


 もう俺が折れた方が早そうなので、仕方なく布団に入る。


 空調が効いた室内は、涼しい。布団や寝間着があってようやく快適と言える温度だ。


 ……寝れん。


 隣から爆裂いい匂いがする……! なんだこれ、女子って何でこんな匂いすんの? 同じ人類だよね?


「……泰斗、おぼえとー? 駄菓子屋でおっきいヨーグルトのお菓子、二人で食べた時のやつ」

「あー、覚えてるぞ。木製のスプーンがなくてお互い結局指で食ってたよな」

「うん。楽しかった。泰斗、うちはサッカーも好きやけど、泰斗とまた一緒に、遊びたいんよ。旅行に誘ってくれた時、嬉しかった」

「……そっか」

「泰斗は、来たことを後悔してる? 告白されたこと、後悔、しとる?」

「アホ。女子に告白されんのは、一般男子的にスッゲー名誉なんだぜ。悩ませろ。混乱させてくれ。一番に想わせてくれ。それが告白されたやつの特権なんだ。だから、待っててくれよ、小春」

「……ん。じゃ、本格的に寝るわ。おやすみー」

「おう」


 寝れない、と思っていたのだが。

 隣の体温が布団ごしに伝播してくる。そのせいなのか、人肌というものはとても落ち着くことができて。


 いつの間にか、俺は意識を手放していた。


  ◇


「寝れるわけ、ないやん……」


 健やかに寝に入った愛しい人を前に、うちは期待と恐怖で心臓がバクバク言ってた。


 好きだ。小さい頃から、ずっと。


 喧嘩別れして、そして再び、女子寮なんてトンチキな場所で出会った人は、とても所帯じみていた。いや、言い方が違うか。凄く落ち着いていた。


 子供の頃の名残なんて面立ちくらいで、背もぐんって伸びてて、抱きしめられた時に強く感じたけど、かなり……ごつごつしてて……大きくて……改めて、性差を思い知らされた。


 気づいとるかな、泰斗。


 何でもないふうを装うのに、いっぱいいっぱいやったこと。


 告白した時、ありったけの勇気を振り絞ったこと。


 少し突き放された時、この世の終わりのような絶望に見舞われたこと。


 それでも、うちのことで悩んでくれとること。


 ああ、誘われてよかった。うちと旅行に行きたいって、どんな形でもいいから思ってくれて、本当に嬉しかった。


 嬉しい。嬉しすぎて、頭が変になる。

 好きだ。抑えられない。


 衝動のまま、無防備な唇にもう一度キスをしたいくらい。


 でも、それはダメだ。今度こそ、泰斗に嫌われてしまう。そんなことになったら、生きていられる自信が無い。


 あの時のキスだって、泰斗は本意ではなかったはずだった。無理やり、うちが、奪ったのだ。


 泰斗は段取りを踏むタイプで、納得しがたい現象や物事には嫌悪感を示す。ごく当たり前といえば、当たり前だったんだ。


 うちが普通の女の子だったら、すんなり告白の結果は出ていたはずだ。


 過去に、であってさえ、なければ。


 ――ハルヤ。


 うちにとって、これだけありがたくて、邪魔な存在はない。


 昔は近づく口実になって、今となっては告白の判断を妨げる存在でしかない。


 でも、ハルヤと仲良くなってくれてよかった。


 だから、うちと泰斗は出会った。仲良くなれた。愛するまでに、うちのなかで存在が大きくなった。


「……愛しとーよ、泰斗」


 あどけない顔で睡魔に囚われる彼の頬に手を添える。

 可愛い。いや、カッコいいかな。同級生にしてはちょっと老けてるけど、整ってると思う。ただ、ちょっと普段は近づきづらいというか。男子にばっかり囲まれてるから、女子も声を掛けにくいんよね。


 告白の結果は、どうなるか分からない。


 成功したら嬉しいし、失敗してたら引きずると思う。


 だからこそ、今、この甘い夜が、永遠に続けばいいのに。


 そう思ってしまう。


 臆病な自分を感じながら、覚え始めた眠気。

 終わってほしくないのに、それは、許してはくれないらしい。


 明日になれば、日常に帰るしかない。


 瑠璃ちゃん先輩も最近泰斗と仲いいし、そして、桜子。あいつを、泰斗は凄く気にしている。気に入らないが、顔はいいのだ。


 彼の好感度が、リードしているとは思わない。けれど、うちは一歩踏み出した。踏み出したんよ。


「……おやすみ」


 願わくば。

 今も、未来も――甘い夢が見られますように。そう思いながら、目を閉じた。


  ◇


 朝風呂を堪能し、魚中心の朝食を食べ終え、帰りのバスに揺られる。


 上機嫌でスマホを触る小春を窺いながら、俺はお土産の入った袋を手に、手持ち無沙汰だったので、同じくスマホを弄る。


 できれば帰りに食材を買って帰りたいが、さすがに荷物が多いし、旅行とはいえ外出だ。疲れもしているだろう。そんな中、小春を振り回すわけにはいかない。


 一回帰ってからだな、と結論付けて、俺はスマホで特売情報を見ることにした。


 ほう、この牛肩薄切りスライスは熱いぞ。ちょっと値段が高めな牛肉はどうしたって食卓に並ぶ頻度は低くなるが、牛肉は独特の満足感があるというか。


 よし。夏も近いし、スタミナ付けとかないとな。ビビンバにでもしてみるか。ピリ辛で食欲増進。


 あ、その前に期末があるんだった……


「小春、期末の対策してるか?」

「げっ、忘れてたのに……」

 

 顔を顰める彼女に、微笑みを向ける。


「一緒に勉強すっか」

「そやなー。頼むわ、泰斗。え、泰斗って頭いーの?」

「学年三十位以内だが」

「うお、秀才やん! ええなー!」

「その代わり、俺はサッカーとかやれてねーからな。お互い監視の意味も込めて勉強しよーぜ。椋鳥はどうなのかね、あいつ頭いいのか?」

「二位よ、あいつ。白鷺はどうか知らんけど、まぁ、呼ぶなら呼んでええんやない?」

「リビングでやるか」

「そうやね。部屋やと誘惑が凄そうやし」


 いつも通りの小春の姿に、昨日の出来事が幻ではないのかと疑ってしまう。


 だが、疑いようもなく。


 ファーストキスの感触と、甘い匂いが、未だに――覚えている。これが、現実だと教えてくれる。


 なんでそんな平気そうな顔してんだよ。俺は溜息を吐いて、スマホを眺める。


 二人きりだった特別な時間。


 大きな関係の変化の兆しであることは、鈍い俺にも、痛いほどよく分かった。

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