第3話
夕日でオレンジに照らされる廊下を歩みながら、土岐はなんの気なしに尋ねた。
「あの金髪、剣持ってなかったね。なんかべつの魔法使うんかな」
「どうぱおかねえ」
「魔法って全部でいくつあんの?」
「判明してる範囲では七千くらいぱお」
「七千!?」
素っ頓狂な声が出た。
「え、けど学園の妖精ってだいたい剣出すやつしか使えないんでしょ? 七千もあんのに? ザコすぎん?」
「土岐ちゃんたちも人のこと言えないぱお」
不満げな土岐に対し、チャオは平然と答えた。
「魔法は、地球でいう言語みたいなものぱお。何百何千の言葉があって、でも土岐ちゃんは日本語しか使えないぱお。一番勉強した英語でも、アメリカではまったく通用しないぱお。同じように、複数の魔法を実用レベルで覚えるのは、とても難しいことぱお」
「チャオはいくつ使えんの?」
「実用レベルなのは20個くらいぱお」
「それってすごいん?」
「超エリートぱお」
えっへんと胸を張る象の妖精。
「もうちょい美しい系だったらエリートって言葉にも説得力あんだけど、象だもんなあ」
「見た目で妖精を判断するの反対ぱお!」
「人間見た目が九割って言うし。チャオもなんやかんやギリギリ可愛い部類だから私もこんだけ優しくしてるわけで」
「優しさが傷口にしみて痛いぱお」
そんな話をしていたら、ちょうど理事長室にたどり着いた。
二回ノック。が、返事はおろか、身じろぎするような音すら聞こえてこなかった。もう一度ノックをして呟いた。
「いない?」
「わからないぱお。ぼくもあまり会うことはないし、普段どこにいるのかも知らないぱお」
どうしたものかと首をひねる。
きちんと理事長に直談判しないと、金髪魔法少女に合わせる顔がないが、そうは言っても不在ならばこちらにできることはない。
あるいは誰か知っている人がいないだろうか。
とそう考えたところで、うしろから声をかけられた。
「土岐先輩?」
先日土岐を助けた水色魔法少女が、目を丸くしてこちらを見ていた。
「バッチタイミング」
「え?」
「ごめんこっちの話。こないだありがとね」
「いえ。それよりも、到着遅れたせいで怪我させてしまい、すみませんでした」
「いやいやいや。私が勝手に暴走しただけだし」
「ところで土岐先輩、理事長にご用事ですか?」
「そうそう。んだけど、いないみたい。どこにいるか知らん?」
「残念ながら、存じ上げません。そもそもお姿を見たこともありませんし」
「だよねえ。君はなんでこんなとこに?」
「実は土岐先輩に用がありまして」
「私? なに?」
「こちらをご覧ください」
ぺらりと、一枚のチラシを手渡された。
『手配書
魔法少女連続失踪事件 容疑者
土岐 依満
この者を見つけたら、ただちに教員に報告すること』
「え」
その、わずか一音を発する間に、土岐の頭に影が降りた
水色の魔法少女の剣が、脳天めがけて振り下ろされていた。
「土岐ちゃん!」
チャオの声。
土岐は反射的に転がった。どう動くかなど考えていない。ただ、一瞬前までいた空間では命が危ないという、直感による回避だった。
一回転し、床の埃を制服にまとわせつつ胸に手を当てる。まばゆい光をまとって赤色に変身。視線を上げると、男前な顔が渋く歪んでいた。
「ちっ。タイミング間違えたか」
「待って待って頭が追いつかん。なにこれ。なんで私指名手配されてんの。なんで君は報告する前に殺しにきてんの」
「自分たちの仕事は市民を守ることです。危険因子を排除するのは当たり前かと」
「待つぱお! 冤罪ぱお!」
「当然、あなたもグルですよね」
問答無用と、ふた振り目を土岐に振り下ろす。
土岐はゴロゴロと転がってかろうじて避ける。立ち上がり、短剣を構えた。
にらみ合い。
「……マジか」
思わず、土岐の口をついて出た。
水色魔法少女の五メートルほど奥に、小さな魔法少女が立っていた。
大きなフードを深くかぶり、黒いマスクで口元も隠している。魔法少女特有のフリフリとした衣装の上に、身体のラインの出にくいマントをまとっている。
「ケンカはタイマンが基本だろうがよ」
犬歯を見せながら、苦々しげにつぶやく。
正義感の暴走した女だけでも手を焼くというのに、正体不明の魔法少女が加勢してくるとなれば、さすがに太刀打ちできないだろう。
フードの魔法少女は、胸元まである長い剣を手に、壁を蹴った。コンクリートにヒビが入るほどの脚力でもって、土岐へ一直線に超加速。
なにか手は、と考える隙すらなく、彼女の長剣は――水色魔法少女の腹を貫いた。
「…………は?」
剣を振りかぶっていた正義の女が、目を見開き、振り向く。その間に、ぐじゅりと嫌な音を立てて剣が引き抜かれた。
トマトを叩き潰したみたいなしぶき。
水色魔法少女が、力なく倒れた。
呆然とする土岐に、謎の魔法少女は鈍色の刃を向けた。
「……誰だよあんた」
短剣を構える。
次の瞬間、鋭い刃筋が土岐の目前に迫った。反射的に身を引き、かろうじて避ける。土岐の顎から滴り落ちた汗粒が、まっぷたつに切り裂かれた。
「そいつやるなら私は見逃すとこだろうがよお」
思わず悪態をつく。
今の一太刀でわかる。彼女の実力は土岐の遥か上。金髪魔法少女に負けず劣らずといったところだろう。
「チャオ、こいつ誰」
「わからないぱお」
ならば仕方ない。方針転換だ。
再度のフードの突進に、土岐は背を向けると全力で駆けた。廊下を走ってはいけません。そんな張り紙の横を全力疾走する。
「あれって金髪への依頼者?」
「どうぱおかね。狙えるタイミングはもっとほかにもあったし、わざわざこのタイミングなのも変な気はするぱお」
隣を飛びながら答えるチャオ。
「……私も飛びたいんだけど」
「土岐ちゃんにはまだ無理ぱお」
「くっそ私も連れてけ」
「あああ重いぱお! 掴むのやめるぱお!」
八つ当たりするように両手でがっしり握りしめる土岐に、チャオが苦し気に抗議する。
ちらりとうしろを振り返ると、右手に剣を構えた少女が、左手でフードをおさえながらまだ追いかけてきていた。
「しつ、こい!」
吐き捨てるように言って角を曲がる。古い校舎だがそれなりに清掃が行き届いており、隠れるような場所はない。校舎の外へ飛び出す。
魔法少女の身体能力向上は、持久力にも適応される。生身の身体は運動不足もいいところだが、今の姿ならば体力切れで追いつかれる心配はしばらくしなくて良い。
と油断していたからか。ずるっと足が滑った。やばい、と思った時には、フードの奥の目が光っていた。
終わった。血の気の引く感覚。
が、次の瞬間。硬質な音とともに、土岐の背を守る人物がいた。
金髪魔法少女だった。
「……なんで」
「おすすめのカップ麺を訊き忘れた」
ちらりとこちらを見た金髪は、コンクリートブロックで剣を受け止めたまま、平然と言った。
「だから、あなたにはご退場いただきたい」
「……」
白フードはなにも言わず、ギリギリとつばぜり合いをする。
均衡は、徐々に崩れつつあった。バランスの取れた天秤が、わずかに白フードに傾く。
「くっ……養殖!」
「おう!」
「逃げるよ!」
「え」
助太刀しようと短剣を構えたところで、金髪は駆け出した。一瞬呆気にとられ、そんな場合ではないと慌てて追いかけた。
「乗って!」
放置されたあった原付にまたがって彼女が言う。
「落ちるなよ!」
飛び乗った土岐にそう言って、盛大にエンジンをふかした。急加速。ものの数秒で最高速に達した原付は、時速六十キロで開きっぱなしの校門をまたいだ。
「えこれ盗んだ?」
「自前!」
ヘルメットもせず爆走する原付。風の音の隙間を縫ってなんとか声を出す。
「どこ行くん!」
「知らない! あいつから逃げ切れるまで!」
そんなこと言ったってこの速度についてこられるはずが、と思い振り返ると、
「飛べんの!?」
地上三メートルほどの高さを飛翔し、追いかけてきていた。
「えやば追いつかれる!」
「追っ払って!」
「私が!?」
「ほかに誰が――」
苛立たしげに言いかけて、彼女はバイクを大きく右に傾けた。ひいぃ! と思わずしがみつく土岐に構わずバイクは大きく右へ旋回。同時、もとの場所を閃光が穿った。
「ムリムリムリムリ竹槍で戦闘機落とせるわけないじゃん!」
「いいからやるの! 足らぬ足らぬは工夫が足らぬって言うでしょ!?」
ギャーギャーと言い争う間に、謎の魔法少女の剣に再び光が灯りはじめた。
避けるべく高速で蛇行運転。原付の壁面がアスファルトをこすり、一瞬火花が散った。
「死ぬ死ぬ死ぬ! 殺される前に事故死する!」
必死に金髪魔法少女にしがみつく。が、背中を丸めてばかりもいられない。なんとか右手で短剣を構え、うしろを振り返った。
何メートル離れているだろうか。白フードは、剣を何万回振ったところで決して届かない場所を飛翔している。
このままではじり貧だ。倒せないにしても、なんとかして撒かなければ……。
「……そうだ。駅。松本駅向かって」
「わかった」
土岐の言葉に、金髪は迷うそぶりもなく大きく原付を傾けた。交差点をぐりっと曲がり、駅へと進路を取る。
「どんくらい」
「五分……いや三分で行く」
「了解」
言って再びうしろを振り向く。
目的が退治から時間稼ぎになったのは良い。が、現実問題、このままでは三分保たないだろう。なにか白フードの目をくらますか気をそらすことができれば……。
「おい! そんな遠くからちまちまと卑怯だぞ! ケンカはステゴロって相場が決まってんだろ!」
剣を振りかざしながらとりあえず挑発してみた。が、まったく聞く耳を持つ様子がない。そもそも、この高速移動の中では風の音が大きすぎて声が届いていないだろう。
さてどうしたものか。再び考えこむ。あちらは連撃こそできないものの遠距離攻撃を持っている。一方こちらは金髪の運転技術でなんとか耐えているが、明らかに受け身で不利な条件を押しつけられている。リーチも短い。残る強みといえば理事長からもらい受けた武器だが、切り札である以上軽々に放つわけにはいかない。外した時点で打つ手がなくなってしまうのだから。
高いビルでもあれば、あるいはといったところだが、あいにくこの街は、駅前以外はお手本のような田舎町だ。澄んだ星空を憎々しげに睨みつけ、川のせせらぎ音を舌打ちで打ち消す。
仕方ない。覚悟を決めるしかないらしい。
「チャオ。私も飛べる?」
「……本気で言ってるぱお?」
土岐の意図を理解したチャオが、それでも信じられないと言いたげに訊き返した。
「近づかないと話にならないでしょ」
真正面から見つめあい火花を散らす。やがて、チャオがため息をついて言った。
「保って二秒ぱお」
「さっすが相棒。頼りになる」
「次撃ってきた直後ぱお」
「了解!」
口端を上げて言う。
白フードに悟られないよう、さりげなく足元を整え、剣を握りなおす。
「今!」
光が放たれると同時、大きく旋回する原付を蹴って、土岐は高く跳びあがった。圧倒的な脚力でもって、一瞬、白フードと顔の高さが釣り合う。表情は相変わらずうかがえない。だが、仕草から、明らかに驚嘆している様子が見て取れた。
もっとも、それも一瞬。飛翔できない土岐は一瞬で落ち――なかった。
「ふんぎいいいいいいいい!!」
必死に歯を食いしばって、チャオが土岐の襟を掴んで高度を保っていた。
「な!」
白フードから声が漏れる。
車は急には止まれない。空中を時速六十キロで飛行する白フードが土岐に急接近。
「おらあ!」
土岐が、滅茶苦茶な姿勢のまま短剣を振った。体重の乗らない刃筋にはあまり手ごたえがない。が、それでも衣服が一部裂け、わずかに血が剣へ付着した。
「もうだめぱお~~~~~~!」
チャオに限界がきた。自由落下に近い速度で落ち始める。
「冥途の土産っす!」
ポケットから取り出した最終兵器――理事長の魔力のこめられた閃光弾を放った。
先の太刀筋に怯んだ白フードの真正面で、爆弾がさく裂。轟音とともに白く強烈な光が川辺を照らした。
一瞬。ほんの一瞬だけ、土岐の瞳が閃光に焼かれる直前、フードの中身が映った。
脳内に雷が落ちたかと思った。
「せいとかいちょ――げぶっ」
べしゃりとアスファルトに落ち、肺から声が漏れた。
「養殖! 乗れ!」
金髪の声。顔を上げると、頭から血を流した金髪が原付を横付けしていた。
訊きたいことはあったが、今はそれ以上に時間が惜しかった。迷わず乗ると、振り落とされそうなほどの急加速で景色を置き去りにした。
「あたまどした!」
「跳ぶなら言ってよ! あんなの二輪車で耐えれるわけないでしょ!」
「……なるほどすまん!」
つまりおそらくは、空中遊泳している土岐の下で派手にスリップしていたのだろう。ただでさえ滑りやすい冬の路面に人外の脚力が加われば、結果は火を見るより明らかだ。いくら魔法少女の身体が頑丈であるとはいえ、ぐったりと倒れこむわけでもなくすぐに原付を運転できているのは、相当な幸運と言えるだろう。
極寒の中を駆け抜け、やっとの思いで駅前にたどり着いた。
原付を雑に駐輪場にぶち込み、換装をとく。
「姿あんまかわんないの、こういうとき不便だね」
「変身時の姿が違いすぎると、どっちが本当の自分なのかわからなくなりそうだから」
ふぅん、といまいち納得できないながらも適当に相槌をうち、駅前の喧騒に目を向ける。
「やっぱこの時間だと人多いね」
「たしかに、これだけ人がいるなら、紛れることもできそうね」
帽子の中に金髪を収納する天然魔法少女。
「こっからどうする?」
「家に帰るのはすこし怖いね。土岐、お金ある?」
「全然。あんた……この呼び方もあれだな。名前は?」
「アリス」
「へえ、金髪っぽい名前」
「なにそのバカみたいなコメント」
アリスは小さく笑った。
「土岐、下の名前は?」
「……エマ」
「どうしてそんなにイヤそうに名乗るの」
「エマなんて名前、あんたみたいなカワイイ奴ならいいけど、私は似合わないでしょ」
「へんなこと気にするんだね」
すました顔で言うアリスに、土岐はそっぽを向いた。名前負けしていない人間には、この苦しみはわからないだろう。
「アリスは持ち合わせあんの」
「残念ながらあまり」
「コア売っぱらった金はどうしたのさ」
土岐の問いかけに、アリスは曖昧に笑んで答えを濁した。
「ホテルはすこし厳しそうだから、ネカフェに泊まろう」
「ネカフェってどんくらいすんの」
「三千円くらい」
言われて財布の中身を確認。お札が二枚しかなかったので小銭を手のひらに広げ、ひいふうみいと確認していった。
「うし、バッチリある」
「もうすこしバッチリ感が欲しかったなあ」
呆れたように言うアリス。土岐はごまかすように大きく一歩踏み出した。
◯◯◯
「っあ~~~~~~~~~生き返る~~~~~~~~~~」
頭上から降り注ぐ温かい雨に、土岐の声帯が自然と震えた。目をつむり、身体にしみわたるお湯の感触を楽しむ。身体の外側から内側へ、徐々に熱が浸透してゆく感覚。
「ならよかった」
狭いシャワールームの隅でボディソープをぶしゅぶしゅ出しながら、アリスが淡々と言った。
鍵付きのペア席に通されたふたりは、冷えた身体を温めるべく、まずシャワーを浴びることに決めた。が、三十分で三百円という利用料金は、ぺったんこな土岐の財布には高すぎた。そこでアリスの提案により、店員に内緒でふたりまとめて入ることにした。
シャワーの下、土岐はタオルで身体を隠しながら、恨めしげな目をアリスへ向けた。
落ち着いているのは服を脱ぐときからだった。この年頃の小娘といえば、同級生女子が相手であろうと、裸を見られることに強い恥じらいを持つのが一般的だ。しかし、彼女はまったく隠す様子もなく、堂々と素っ裸を晒していた。
単純に気にしていないのか、あるいは自分の身体によほど自信があるのか。
――そう。風呂に入る前からなんとなくわかっていたことではあるが、アリスの一糸まとわぬ姿は、ある種の芸術品めいていた。日本人離れした、きめ細かな白い肌。控えめな胸と、細い手足の織りなす滑らかな曲線美。モデル顔負けのスラっとした肉体には、もはや嫉妬の心もわいてこないものだった。
一方の自分は……と鏡を一瞥して、目をそらす。備えつけのシャンプーをプッシュし、瞼をぎゅっと閉じて頭を泡立てた。
「エマ、お腹、すごい傷痕」
シャンプーを洗い流していると、脇腹のアザをさして尋ねられた。
「ああ、ヤンキー時代に刺されてさ。なんかか消えないんだ」
「えぇ……魔法少女になる前なにしてたの」
ドン引きされた。
「エマ、せっかく可愛いんだから、ヤンキーなんてやってる場合じゃないよ」
「ま、なりゆきでね」
土岐は彼女に背を向け、タオルにボディソープをぶしゅぶしゅと出しながらそう言った。可愛いなんて言葉は、アリスのような少女に使うものだ。自分はサル山の大将で良い。
狭い部屋に、シャワーの音だけが鳴り響く。
黙って身体をゴシゴシと洗っていると、アリスがぽつりと、つぶやくように尋ねてきた。
「エマ。どうして、わたしのこと信用したの」
思わず振り向く。表情はよく見えない。彼女はシャワーを頭から浴びたまま、うつむきがちに言葉を続けた。
「わたしは奪う側ではないって、エマはそう言ったよね。わたしのことなんて、なんにも知らないのに。どうして?」
「うーん……」
改めて問われると、難しい話だった。「直感」と答えれば済む話ではあるが、まったく根拠がないわけでもなかった。
それは、声色だったり、表情だったり、仕草だったり。一挙手一投足が、アリスという少女の姿形を土岐に伝えてきていた。
だが、改めて言語化しろと言われると、なるほど言葉につまった。
「……あえていうなら、目、かな」
「目?」
彼女が碧眼をぱちくりと向けてくる。
「目が、寂しそうだったから」
土岐のたどたどしい声に、アリスは一瞬面食らったような顔をした。
「……くだらない」
彼女から放たれる声の冷たさに、一瞬、土岐の呼吸が止まった。
「あのまま売り飛ばすべきだったな」
「……」
わからない。なぜ急に、こんなにも彼女のまとう雰囲気が変わってしまったのか。自分はそれほどひどいことを言ったのか。
困惑。どう声をかけてよいかわからず、ただ黙っていると、アリスは吐き捨てるように続けた。
「エマは仲間に囲まれて、親に恵まれて、相方もいて、幸せだね」
「……なんの話さ」
「くだらないってこと。全部他人だよ。人間なんて。本質的にひとりなんだ。蜃気楼の向こうに楽園があるだなんて、本気で信じてるの?」
ポタポタと前髪から雫を垂らしながら、アリスが言う。
「奪うか奪われるか。いじめるかいじめられるか。人間関係なんて、加害者と被害者しかないんだよ」
怒気をはらんだその声は、まるで泣いているようで、
「わたしは加害者を選ぶ。他人より自分の幸せが大切だから。それで孤独になったとして、寂しいなんてあるわけがない。わたしは、今、幸福なんだから」
だから、土岐も、黙っていられなかった。
「アリス。…………自分に嘘をつくの、一番弱いやつのやることだよ」
パァン! と乾いた音が響いた。
土岐の頬が赤く染まる。
湯気で曇る空間、アリスの両目から水滴がこぼれていた。
「……」
歯を食いしばったアリスは、なにも言わず、シャワールームを出た。
彼女の背中で、蝶のタトゥーが大きく翼をひろげていた。
対照的な、小さな肩。
彼女はちらりとこちらへ視線をやって、しかしなにも言わずに扉を閉めた。
「……やっちまいましたなあ土岐さん」
シャワーにかき消される音量で、自虐的に呟く。
間違ったことを言ったつもりはない。ただ、言葉とタイミングを選ばず、感情に任せて吐き出したのは明らかな誤りだった。
小さくため息をついてシャワーを止める。鏡にうつる傷痕がうずくような気がした。
身体をひととおり洗い、シャワールームを出る。すでに彼女の姿は消えていた。
狭い脱衣室でドライヤーを手にして、ふと気がついた。使い捨ての化粧水がひとつ置いてある。たしか、備えつけのアメニティには含まれていなかったはずだ。
「……ったく、ますます私がデリカシーないやつみたいになるじゃん」
悪態つく。風に乗って飛んでいけと、ドライヤーのスイッチを入れた。
さて、どうしたものか。鍵を受付に返して考える。このまま帰るのもすこし気まずい。
避難経路探索としてすこし店内を回ることにした。少年漫画、少女漫画、青年漫画と大量の本棚が立ち並ぶ。もしも今地震がきたら、ひとたまりもなく押しつぶされるだろう。
ドリンクバーでホットココアを抽出し、舌先をつけた。
「あつっ」
反射的に舌をひっこめる。一瞬遅れて、じんわりと甘みが舌先に広がった。疲れた身体に糖分が染みわたる。もう一杯ドリップし、両手にマグカップを持ってブースへ戻った。
個室の扉をあけると、アリスが備えつけのティッシュをばかすか引っこ抜いていた。ぎょっとしてよく見てみると、彼女の頭にあてたティッシュが赤く染まっていた。
「さっき出てなかったのに」
風呂場での彼女を思い出す。最初アリスはシャワーを頭から浴びて、激痛に悶絶していた。結局シャンプーはしなかった。痛みを訴えてはいたから、傷口がまだ閉じていないのだろうとは察していた。しかし、シャワーに交じって赤いものが垂れ流されるというようなこともなかった。
「傷口が開いたみたい。ごめん部屋汚して」
「それはいいけど、どうしよ。バスタオルもう返したし、止血するのが」
「落ち着いてきたからいい。それより――」
アリスは土岐を室内に誘導し、扉をしめた。碧眼を細め、声をひそめて尋ねた。
「あの妖精、大丈夫?」
「……ほんとだチャオいない」
狭いブースの中を見回して、目を丸くする。シャワーを浴びに行く前、チャオには留守番しておくようにと言っていた。
「そうじゃなくて。アレ、本当に味方?」
「……どういうこと」
「わたしが戻ってきたとき、ちょうどアレがこのブースから出て行くところだったんだけど、……その、」
言いよどむアリス。
土岐は改めて扉を開けて周囲を確認した。
誰もいない。安心させるように大きくうなずき、続きをうながした。
アリスは神妙な顔で、重たい口を開いた。
「なにか、業務連絡みたいなことをしてたの。語尾もぱおってつけずに、まるで大人が仕事で上司と話すときみたいに話してた」
「……」
返答の言葉を失う土岐に、アリスは不安げに続けた。
「わたしたち、互いに冤罪をかけられて、命も狙われて、なんとか逃げてきたよね。あの妖精も一緒に。なのに、いったい、誰とどんな業務連絡をするっていうの」
「チャオのほうから、私たちがやろうとしたみたいに掛け合ってくれてるんじゃないの」
語尾をつけずに話すとしたら、学園の教員くらいのものだろう。
「でも、アイツ、予定通りですって言ってたよ」
「……」
今度こそ反論を失った。
こんな展開が予定通りだなんて、あるはずがない。
「ねえ、アイツのこと信じられる? 信じて大丈夫?」
不安げに大きな瞳を揺らすアリス。
土岐の脳内にチャオと出会ってからの日々がよぎった。
学園に入学して二年弱。すなわちチャオとの付き合いもそれだけの期間となる。
はたして自分はどの程度、あの妖精のことを知っているだろうか。チャオはあまりプライベートなことを話したがらない。気にならないといえば嘘になるが、土岐もあまり詮索しないようにしていた。仕事上のパートナーとして、良き友として、探りを入れすぎるのは、不躾だと思ったから。
この選択は、間違っていたのだろうか。
深く、深く深呼吸をする。冷たい空気を肺に取り入れ、酸素を脳に回す。
土岐は、陰を落とす彼女の顔を真正面にとらえ、力強く言った。
「私は、チャオを信じるよ」
今、この瞬間。アリスの浮かべた表情をなんと表現したら良いか。土岐にはわからなかった。悲しみのようにも、安堵のようにも見えた。そんなわかりやすい語彙を選んではいけない気がした。
もしかしたら、この決断が彼女を傷つけているのかもしれない。それでも、言葉を続けなければいけないと思った。
「アリスが不安になるのはわかる。私も、正直自信はない。本当に信じて大丈夫かって、心の中でもうひとりの私が警告してくる」
マグカップを持つ手に力が入る。
「でも、結局、これはチャオの問題じゃないんだよ。チャオを信じたい。チャオになら裏切られてもいい。そう考える、私の問題。アリスには迷惑かけちゃうかもだけどね」
苦笑をわずかに混ぜて言う。
「もし本当にチャオがなにか企んでて私らをハメようとしてたら、全力でアリスのこと逃がすから。だから今は、チャオのことを信じさせてほしい」
「…………わかったよ」
苦しげに言って、彼女は血まみれのティッシュをゴミ箱に捨てた。
「ありがと。ココア飲む?」
「……もらう」
アリスは土岐からココアを受け取ると、数度息をふきかけ、小さくすすった。
「あまい」
「ね」
アリスに渡したやつ、味見したほうだったな。そんなことを思いながら、土岐もココアに口をつけた。
「アリス。私の血、飲みなよ」
魔法少女の血には、魔力が流れている。故に、魔法少女の傷ついた身体は、魔法少女の血を摂取することで癒やすことができる。
アリスはココアから顔を上げてまじまじと土岐を見つめた。
「エマ、養殖……学園魔法少女なのに魔力あるの」
「一応ね。使い方わかんないから、だいたいチャオの魔力借りてんだけど」
マグカップをテーブルに置いて、カミソリを財布から取り出した。
「子供のころ魔物に襲われたらしくてさ。そんとき魔力が混じったみたい。私のは結構濃いらしいから、頭の怪我くらいなら多分すぐ治るよ」
「……でも」
「合理的な提案だよ。戦力のバランスでいえば、私よりアリスのがちょびーーーーーーーーーーーーっとだけ上なんだから、万全でいてくれなきゃ」
「…………そうだね。わたしが戦わなきゃ、エマだけじゃあまりにこころもとないもんね」
小さく笑って、アリスはそう答えた。
土岐はカミソリで首元を浅く切って、彼女に差し出した。
「ありがとう。エマ」
抱き着くように首元へ顔を寄せて、アリスは舌を這わせた。
なんだか妙にくすぐったくて、けれど、不思議と悪い感じはしなかった。
五分ほどそうしていただろうか。やがて、満足げにアリスが身体を離した。
「塞がった?」
「うん。見る?」
素直にうなずき、彼女の頭に手をあてた。
「……血が固まっててわからん」
「シャワーの前にもらうべきだったね」
苦笑いを浮かべる彼女に、土岐も小さく笑った。
「ただいまぱお」
ドアの開く音とともに、チャオの声がした。
「どこ行ってたん。留守番頼んでたっしょ」
「白フードの子……生徒会長の魔力を近くに感じて、偵察に行ってたぱお。もう帰って行ったから安心ぱお」
「……マジ。全然気づかなかった」
「あの子、魔力を隠すのがうまいぱお」
感心したように言うチャオ。
警戒心を隠しきれない目をするアリスに向き直り、土岐は表情を和らげてみせた。
「疲れたし、もう寝よっか」
「……そうだね」
ペラペラのブランケットに各々身を包む。
「……エマ、寒くない?」
「ちょっとね。これ布団増やせないの?」
「基本無理。だからさ、その、そっち行っていい?」
「……いいよ」
改まって聞かれるとなんだか照れてしまって、うまく言えなかった。それでもブランケットを広げ、アリスを迎え入れる。
「……エマあったかい」
「アリスつめた。そりゃ寒いわ」
互いの手を握り、足を絡ませ合う。アリスの身体はまるで血が通っていないかのように冷たかった。
二枚のブランケットでひとつのテントを作り、ふたりで身を寄せ合う。
「……アリス。さっきはごめん」
きょとんとするアリス。
「シャワールームで。言いすぎた」
「ああ。うん、もう大丈夫。わたしのほうこそ、ごめん。コア盗んで」
「いいよ。どうせあれ私のもんじゃないし」
「ふふっ、なにそれ」
心持ち、さっきまでより柔らかい表情でアリスはそう言った。
「アリス。おやすみ」
「おやすみ。エマ」
ふたりは薄暗いネットカフェの一室で、ほのかに笑い合った。
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