<19・Cloudy>

 今日のうちに、どうしても会いたい。いつものジュリアンならまず言わないことだった。婚約者であり両想いであるとしても、互いに予定はある。それこそ、コーデリアがウィルビー家の跡取り娘として、日々訓練に勤しむ身であることをよく知っているジュリアンならば尚更のことだ。

 ゆえに、予感はしていたのである。

 ずっと考えて来たからだ。朝香=コーデリアがいつまでも嫌がらせに屈せず、ジュリアンとの婚約を解消しないなら。そして自分が手に入れた魔法に使用期限があるのなら、輪転の魔女とやらはどのような手に打って出るかと。

 元よりジュリアンの家までは、馬車を使わなくても行くことは可能である(多少徒歩では遠いが)。というか、馬車を持ち出せる御者に術を使えば、口封じをするまでもなくジュリアンの家まで行くことも可能。そして実際に顔を合わせてしまえば、いくらでも魔法をかけることができてしまうはずだ。まったく、初級魔法であるのに一週間も効き目が持続するのだから、洗脳ブレイン・コントロールは恐ろしい魔法である。――簡易魔法書を作ったはいいものの、魔導書の方が残っていないのは別の理由があったのではないかと思わずにはいられない。


「突然呼び出してごめんね、コーデリア。どうしても、急ぎ話さなければいけないことができたんだ」


 コーデリアを誰もいない客間に呼んだジュリアンは。明らかに、前に会った時よりもやつれていた。顔色も悪いし、目の下に隈もある。少し前に朝香と電話した時には、もう少し声にも覇気があったような気がするというのに。

 いや。それとも実際はあの時にはもう思い悩んでいたのを、どうにか押し隠していたのだろうか。朝香=コーデリアを不安にさせないために。婚約者を思いやる、優しい心ゆえに。


「……雨が降りそうな空だね。今の私達にはお似合いかもしれない」

「そういう心境ってわけ?」

「……そうだね」


 今朝の天気予報では、夕方から酷い雨になるかもしれないと言っていた。この国では、雨季以外にまとまった雨が降ることは珍しい。空は昨日の夜から引き続いて、どんよりと曇っている。雨が降る前に終わりにしよう――沈んだ声でジュリアンが言った。


「……お母様のところに、匿名の手紙が来たらしいんだ。コーデリアの家で今起きていることが、非常に詳しく書いてあったらしい。君がメイドたちに無茶な仕事を敷いているとか、気に食わないメイドを階段から突き落としたとか、部屋を汚して無理やり掃除させたとか……君が、最近はそういう嫌がらせをしていること。メイドや執事の中には大怪我をした人もいるって」

「……私は無実よ。メイドや執事のみんなのことは家族同然に思ってる。そんなことをする理由がない」

「私も、コーデリアは召使いを無下にするような人ではないと思っていたし、君のその言葉を信じてきた。でも、実際に君がやったことに関して目撃者もいて、証拠もあると。君が、嗤いながらいじめをするような、そんな酷い人に変わってしまったと。……お母様は酷く失望されていた。そんな人と、息子を結婚させたくはないと」

「…………」


 予想ができていただけに、傷つかなかった。匿名の手紙と洗脳の魔法。両方を貰ってしまったら、ジュリアンの母の元々の性格がどうであれ抗うことは難しいだろう。そして、ジュリアン自身も同じ。それは彼らの弱さではない。悪いのは、断じて彼らではない。

 朝香が屈しないことに業を煮やした魔女が、次に打つ手などわかりきっている。

 ジュリアンの方から、縁を断ち切るように手を回せばいい。


「コーデリア、単刀直入に言うよ」


 ジュリアンのどこか濁った目が、まっすぐにコーデリアを見、すぐに逸らされた。己が正しいことを主張すると信じる時ほど、誰かを説得したいと願う時ほど、けして相手から視線を逸らさなかったはずの彼が。


「君との婚約を、解消したいと思っているんだ」


 けして、シナリオ通りならばありえなかった展開。それが今、己の欲望を満たそうとする無関係な人間のせいで、滅茶苦茶に壊されようとしている。本来のジュリアンの心も、コーデリアの心も、多くの仲間達の絆も全て踏みにじって。

 それは、魔女が予定した、魔女だけが楽しい物語の序章。手紙通りならば、彼女は己だけがジュリアンに愛されるポジションを確立したいと思っているのだろう。そのために、邪魔なコーデリアをまず“残酷ないじめの加害者”、悪役令嬢に仕立て上げて排除しようとしている。己が正ヒロインの椅子に座るために、別の婚約者など断じて存在してはならないがゆえに。

 でも。


「ジュリアン。私は、その手紙にあったようなことなど一つもしていない」


 その“クソッタレな誰かさん”は何もわかっていない。

 それは好きな人に告白してフラレたら。相手に“他に好きな人がいるの?いないなら私と付き合ってくれてもいいじゃない”と強引に詰め寄る勝手な女の心理だ。好きなアイドルが結婚したら、ファンへの裏切りだと盛大に叩いて炎上させようとする自己中心的な人間の考えだ。それら全てに共通することは一つ。相手が好きだと言いながら、結局相手のことなど1ミリも考えていないということ。相手の幸せを祈る気持ちなど甚だなく、最初から好きなのはその人ではなく“私を愛してくれる都合のいいイケメン”でしかないということだ。

 輪転の魔女というものは、恋以前に人の心があまりにもわかっていない。

 仮にコーデリアを排除できたとて。ジュリアンが次の恋をする気になったとて。その次の相手を選ぶのはあくまでジュリアンの心なのだ。その心を蔑ろにするような人間が何故、他のライバルを差し置いて選ばれると思うのだろう。そこまでジュリアンの目が曇っているとでも思っているのか。

 それは、己が悪役令嬢に仕立て上げられることよりも数倍、朝香にとって許せないことだった。

 あまりにも侮辱が過ぎる。一人の女性を一途に愛し、命さえ捧げることのできる優しい人をなんだと思っているのか。お前が見てきたのはそんな尻軽で人を見る目もない男だったのか。だとしたら、お前はジュリアンの何を知っているというのか。


「私は私の家と、貴方と、神に誓ってしていない。貴方に顔向けできないようなことを、するはずがない。……ジュリアン。どうか、私を信じて」


 ジュリアンの目が、揺らいだような気がした。洗脳の魔法の影響下にあるであろう人間に、言葉だけで説得することはできないだろう。こんな言葉に意味などないのかもしれない。それでも告げたのは、朝香が己にも、己に体を貸してくれているコーデリアにも嘘をつきたくないと思えばこそである。


「……ごめん」


 彼はやはり、視線を逸らした。そして用意していた一枚の用紙を取り出す。


「人を平気で傷つけて、嘘をつくような人と結婚はできない。母の意見は尤もだし、私もそう思う。だから、今すぐここで、二人でサインを書くんだ。もう用紙は役所で用意してきたから」


 この国の場合。婚約者、と言われるものにはいくつか段階がある。

 結婚は二十歳を超えた男女にしか認められていない。女性の跡取りも少しずつ広まりつつあるので、苗字を変えるのは男女どちらでもあり(貴族ほど、優秀な長子が女性ならば女性を跡取りにする家が増えている現状にある)。最終的には、コーデリアとジュリアンもその“結婚確定書”というものをお役所に出しに行くことになっていた。それを出した日が婚約記念日になり、それで正式に結婚が決まるのである。

 ただし、二人とも現在は未成年。本来結婚確定書を出しに行ける年ではない。それでも婚約者として将来を早期に決めておきたい貴族の家ならば、多くが早い段階で“結婚予定書”を提出しておくことになるのだ。これはあくまで“将来この二人で結婚をする予定になっていますよ”と事前に通達しておくものであり、こちらは未成年どころか両者が赤ん坊であっても提出することが可能となっている。コーデリアとジュリアンの両親が、二人の名前で提出済みであったのはこちらの予定書の方。二人はこの書類には婚約者にはなったものの、結婚確定書を出すまではまだ正式な夫婦ではない。そういう状態であったというわけだ。

 何故結婚予定書なんてものを出しておく必要があるかといえば、それは婚約者が不義を働かないための防衛線、であると言えよう。一度結婚予定書を出した場合、それを破棄する手順を取らなければ別の相手とは結婚の手続きが取れないからである。家同士の政略結婚ではなおさら、不倫や浮気は許されないし、お互いの威信にかけても結婚を成立させなければいけない場面が多い。ゆえに、まだ二十歳ではない貴族の男女ならば、結婚予定書を事前に提出しておくのが暗黙の了解となっているのだ。

 朝香の目の前のテーブルに置かれたのは、まさにその“婚約破棄書”だった。結婚予定書を提出した男女が、その結婚予定=婚約を破棄しますということを役所に意思表示するために使う書類である。


――事前に、自分の分のサインをしておく時間はあったでしょうに。


 ペンを握るジュリアンを、朝香はじっと見つめた。彼の手は明らかに――震えていた。


「この結婚は、最初から間違っていた。それが今やっとわかったんだ。……私にはもっと相応しい人がいる。君にもきっとそうなんだろう。だから、サインをしよう」

「できるの?」

「ああ、勿論。今ここでサインをするよ。私は君に失望したんだ。君とはもう顔も合わせたくないし、声も聴きたくない。理不尽に思うかもしれないが、こんな事態を招いたのは君だ。責任はきちんと取ってくれ。私がサインをしたら、君も」

「本当に、サインができるの?」

「――っ」


 朝香の声を振り切るように。ジュリアンはペンを紙に叩きつけようとした。二つあるサイン欄の片方。そこにただ、“Julian Muir”と名前を書けばいい。それで全てが終わる。あとは朝香=コーデリアに何が何でもサインを書かせれば済む。なんなら、サインを書くまでこの部屋から出さないなんて脅迫することも可能ではあるだろう。

 だが。


「あ……」


 ジュリアンの万年筆は。紙に突き刺さったまま、一向に動き出す気配がなかった。じわり、とインクが滲んでいく。まるで、黒い涙のように。


「なん、で……」


 掠れた声が、彼の喉から漏れた。


「なん、で、私は。こんな、ひどいこと、を……?顔も、見たくないなんて、コーデリアに……なん、で」

「ジュリアン」

「嫌だ。こん、なの嫌だ。……コーデリアが、酷いことなんかするわけない。私は、私はなんで、婚約破棄なんて、そんな」

「ジュリアン」

「……違う、違う、違う。私はもう、コーデリアを愛してなんかない。そもそも最初から好きなんかじゃない、親が決めた結婚なんだから。私には他に、もっと好きになるべきひとがいるはずだ、そのはずで」

「ジュリアン」

「何を、私は言って……?コーデリア、私は、君を、裏切っ……」

「それは違う」


 朝香はそっと、ジュリアンの手を握った。その手から万年筆が離れ、かたん、と紙から抜け落ちる。そしてころころと足元へ転がった。高級なカーペットに染みができたかもしれないが、今はそれよりも大事なことがある。

 胸が痛くて、苦しくてたまらない。

 彼は明らかに洗脳を受けている。にも拘らず、必死で、自分の意思を保って足掻こうとしている。


「貴方の本当の心、私はちゃんとわかってるよ。大丈夫。私は、貴方を信じる。貴方がコーデリアを捨てるような人間じゃないことはよく知ってる。……貴方は裏切ってなんかないよ。悪いのは、貴方にそんな酷いことをさせようとする、悪い魔女」


 もし。

 自分が本当に悪役令嬢ならば。婚約者の言葉を、うわべだけ見て切り捨てるような人間なら。

 きっとよくあるライトノベルやマンガの展開になっていただろう。婚約破棄をしようとした婚約者を捨てて、あるいはざまぁと復讐するようなやり方を模索して、自分一人の幸せを探す。あるいは、自分を都合よく愛してくれる隣国の王子様だの貴族様だの、そういう存在を探す。ああ、お前なんかもう知らないんで勝手にさせて!とスローライフの旅に出るパターンも多いのだったか。

 しかし、朝香は違う。

 失望したと言われても。婚約解消したいと言われても。それでも愛する人を信じると心に決めた。

 この物語を滅茶苦茶にした誰かが、自分を悪役令嬢と呼びたいなら好きにすればいい。それでも、自分は屈しない。必ず反撃して、大切な人たちの心を取り戻してみせよう。

 元の世界に帰るためだけじゃない。

 それが、朝香が考える“真実の愛”であり、誇りだからだ。


「もう少しだけ、耐えて。必ず私が、貴方を救って見せる。……侯爵令嬢が白馬に跨って婚約者を迎えに行く、そういう世界もさ、あっていいでしょ?」


 そして小さく、呪文を唱えた。儚い紙切れに火の粉が落ち、一気に燃え上がる。婚約破棄書。コーデリアとジュリアンの物語に、こんなものは必要ない。




「約束するよ、ジュリアン。私が必ず、貴方とこの世界を守るから」




 魔法に抵抗し続けた影響だろう。その途端、ジュリアンの体が糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちた。彼の体を抱きしめて、朝香はそっと目を閉じる。

 自分はあるべきコーデリアではない。それでも今、この瞬間だけは許して欲しいと願うのだ。

 彼の温もりを、一人で享受する幸福を。

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