<15・Cold>

 ネルの顔色は真っ青だ。明らかに疲労困憊している様子である。ぐったりとソファーに横たわったまま、殆ど動く様子もない。


「何があったの?お医者様を呼んできましょうか」

「結構です、お嬢様」


 心配して声をかけた朝香を、ニコールはつっぱねた。どうしたのだろう、さっきから妙に言葉がとげとげしいような。


「ちょっとニコール、お嬢様に失礼よ」


 それを見咎めてか、普段温厚なリネットがやや声を荒げた。やや、なのは休んでいるネルを気遣ってのことだろう。その彼女を見て、ニコールは小さく“すみません”と言った。相変わらず、朝香=コーデリアとは視線を合わせようとはしない。


「……本当に、気にしなくていいってだけなんで。お医者様もいいです。ただの過労だと思うので」

「過労って……ネルのシフト、そんなに厳しかったの?もしそうなら、私からお母様に伝えるわ。メイドは奴隷じゃないもの、そんな厳しい仕事をさせるなんておかしいって……」

「シフトは皆さんと一緒です。でもそういう問題じゃないんで」


 妙だった。ニコールは確かにクールなタイプの女性だが、それでもいつもはもう少し愛想がある。ましてや、仕える主であるはずの朝香に対して、こんなにつっけんどんな態度を取るのはおかしい。まるで、何がなんでも事情を話したくないか、あるいは極端なほど不信感を抱かれているようだった。

 思わずリネット、アン、シャーロットの三人を振り返る。しかし、どうやら事情が分からないのは他三人も同じらしい。突然主人に対して無礼な態度を取り始めた同僚に、怒るよりも戸惑いが勝っているようだった。


「お嬢様、すみませんがしばらくネルをここで休ませてください。ネルの分も私がお掃除しますから。申し訳ないですが、ご退出願えますか」


 ニコールは丁寧に、しかしはっきりと“邪魔だから休憩室を出て行ってくれ”と朝香に告げてきた。さすがにここまでくると朝香もムっとしてしまう。まるで、自分がいるとネルがゆっくり休めないと言いたげだ。他のメイド三人ではなく、朝香にだけ出ていけと名指しで告げているから尚更である。


――何だよ、私なんかしたっけか?


 自分がもうすこし短気なキャラなら怒っていたかもしれない。というか、普通に怒っても許される場面だっただろう。しかし、朝香とて事を荒立てたいわけではないし、メイド達との関係を悪化させたいわけでもないのだ。ため息でどうにか苛立ちを殺して、朝香は立ち上がった。そもそもここはメイド達の休憩室で、自分はあくまで彼女たちのお休み時間にお邪魔させてもらっていた立場である。無理に居座るわけにもいかない。


「わかったわ、お大事にね。何か困ったことがあったら言って頂戴」


 これも、シナリオにはないイベントだ。何やら嫌な予感がする。ドアに向かう際、朝香はネルが横たわるソファーの横を通った。そして、ネルがうわごとのように、ひたすら何かを呟いていることに気づいたのである。


「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」


 一体彼女は、何に対して謝り続けていたのか。それを朝香が知るのは、もう少し先のことだった。




 ***




「あーネルさんか」


 午後。昼前のネルの件がどうしても気になってしまった朝香は、戦闘訓練場に来ていた執事のギルバートに声をかけていた。

 この家の執事とメイドは、掃除などの業務の他に定期的な戦闘訓練が義務付けられている(これも当然、業務時間として計算される)。いざという時、全てのメイドと執事が家族を守れるようにするためだった。なんといっても、未だにウィルビー家には敵が多いのは否めないのだから。戦闘訓練は庭の訓練場で行われる。馬に乗る訓練も射撃の訓練も、全て行えるほどに庭が広いのだ。

 ギルバートもまた、孤児院から引き取られてきた少年だった。執事の中では最年少の十三歳。見た目だけで言うとまだまだ初等部の学生に見えるような外見だ(それを生かして特殊な任務についてもらうこともある)。しっぽのように長く伸びた髪をひとまとめにし、いつも溌剌と明るく話す可愛い顔立ちの少年。知らなければ到底誰も、彼が元浮浪児だとは思わないだろう(孤児院に行くまでは、スラムで盗みなどをしながらどうにか生き延びていたという話だ)。


「うーん、これ言うべきか迷ってたんですよね。俺も口止めされてたから」

「口止め?誰に?」

「ネルさん本人にですよ。最近ちょっと様子変だなーとは思ってたんだけど、決定的な場面見ちゃったんで」


 男性であるからなのか、執事たちはメイド達以上に戦闘訓練に気合が入っているようだ。忠誠心を胸に秘める人間より、はっきり口にする人間の方がメイドよりも多いような気がしている。というかまあ、ギルバートの場合は億面もなく“ケネス様に大好きー!超褒めてくれたー”だの。“コーデリア様は今日もお綺麗ですよね!”ということをわかりやすく口にしてくる性格だというだけかもしれないが。


「いや、俺達の勤務時間って、結構厳密に決められてますよね。夜の見回り担当とか、夜勤シフトじゃなければ夕方には上がっていいことになってるし。多少頼みごとがあって残業しても、夜の七時には上がってるのが普通というか」


 ちなみに、この世界の時間は現代日本の時間と同じである。まあ、このへんの設定を現実といじってしまうと、ややこしくてどうにもならないからだろうが。


「それなのに、ある日俺が夜勤で見回りしてたら。日勤だったはずのネルさんと遭遇したことがあったんですよ。というか、風呂場の電気が夜中についてたんで、おかしいと思って声かけたっていうのが正解かな。水音はしてるけどドアは開きっぱなしだし、ご家族の使うお風呂だし……今の時間に誰かが入浴してるわけじゃないだろうと思って覗いたんですけど」

「そしたら、ネルがいた?」

「正解っす。彼女、びしょ濡れになりながら風呂掃除してたんですよ。おかしくないですか?真夜中ですよ?」


 それは、確かに妙だ。確かに風呂掃除もメイドの仕事であるのは事実。しかし、風呂掃除の担当もローテーションで回しているし、真夜中にそれをやる必要はどこにもない。


「それっていつのこと?」


 朝香が尋ねると、この間の火曜日ですね、とギルバート。やっぱり変だ、と朝香は眉をひそめた。自分の記憶が正しいのなら、ネルが風呂掃除を担当するのは木曜日だったはず。火曜日にやっているのがまずおかしい。


「ちなみに、掃除ってどんなかんじでやってた?メイドのみんなにお願いしているお風呂掃除って2パターンあるのよ。週五日は簡単なお掃除で、日曜日にだけ複数人でちょっと大規模なお掃除をお願いしてるの。排水溝は髪の毛を取るくらいのことは毎日やってるけど、配管磨きまでやってたら“簡単おそうじ”の範疇じゃないわ。あと、鏡を磨くのは毎日やるけど、天井と換気扇の掃除は丁寧お掃除の範囲になる。そのへんどう?」

「あー、そうなんですね。風呂掃除担当したことがないから知らなかった。……とすると、換気扇外して掃除してたから多分……」

「……がっつり丁寧なお掃除をやってたってこと?真夜中に?一人で?担当の日でもないのに?」


 妙だった。が、こうして考えてみれば、最近風呂がいつにもまして綺麗になっていたような気はするのである。タイルのカビも減っていたし、換気扇の音も小さくなっていたような。ひょっとして、彼女が掃除をしてくれていた影響なのだろうか。

 だが、換気扇を外しての掃除レベルとなると、かなり大規模なものになる。脚立も持ってこないと手が届かないし、事故を防ぐためにも二人以上でやるのが鉄則だったはずだ。それを一人で真夜中にやっていたというのは明らかにおかしなことだろう。


「……俺が見たのは火曜日だったけど、ひょっとしたら他の日もやってるのかもしれません。俺が気づいてなかっただけで」


 ギルバートも違和感は覚えていたのだろう。顎に手を当てて、何かを考え込むような仕草をする。


「流石に変だと思ったんで、声をかけたんです。そしたらネルさん、明らかに怯えた様子で“ごめんなさい、ごめんなさい、真夜中にしか時間がなくて”って。……落ち着かせて聴いてみたら、風呂掃除を命令されて、でも普段の仕事もあるから日中にはできなくて……仕方なく夜中に睡眠時間を削ってやってたっていうんです。それも、可能な限り日曜日にやるくらいの丁寧な掃除をしろって。でないとこの家から追い出されるんだって」

「はあ!?何そのブラック企業っつかーパワハラっつーか……あ、ありえねえ!」

「……お嬢様?」

「はっ」


 あ、いけない。つい“朝香”としての本音が出てしまった。社会の歯車として生きるOLの性、ついついブラックな話題には敏感になりすぎていけない。


「そ、その!いくらなんでもそういうもパワーハラスメント……いやこの言葉この世界にはないか……強権がすぎるというか!日中にやりきれないような業務を一人に押しつけるって論外というか!……その、命令されたって誰に?メイドにそんなこと言えるんだから、家族の誰かってことだよね?」


 落ち着け自分。そう言い聞かせながら問いかけると、ギルバートは渋い顔で首を振った。


「俺も尋ねたんですけど、教えてくれなくて。ただ、あんなこと繰り返してたら、体調崩さないわけがないですよね……」

「……そりゃそうだ」


 これで合点が行った。ネルが倒れたのは、夜中まで働いていることによる過労と睡眠不足によるものだと。同時に、一つ推測ができてしまう。

 ネルとニコールは元々仲が良かった。ニコールはひょっとしたら、ネルにパワハラをしているのが朝香=コーデリアだと思っていたのではないか?それなら、あの冷たい態度もわからないではない。


――私がそんなことするかっつの!……って言っても、命令できる人間が少ないから仕方ないか。とにかく、誤解を解かないと。


 しかし残念ながらというべきか。

 トラブルは、ここで終わりではなかったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る